<2016年11月6日の説教から>
『マルコスの右の耳』
ヨハネによる福音書18章1節~14節
牧師 三輪地塩
弟子のペテロは手にした剣を抜き、大祭司の手下マルコスに切りかかり、
右の耳を切り落としたのだった!!なされるがままの弟子たちが、最後の
抵抗とばかりに与えた一撃であった。だがイエスは「剣をさやに納めなさい。
父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と言われ、ペテロの行いを
制止した。
マルコスへの一撃は、弟子たちが軟弱ではないことを見せつけるのに
一役買ったかもしれないが、反対に、弟子たちの単なる自己満足ともなり得る
行為でもあった。
この闇夜で起こった出来事。支配する暗闇は、永遠の滅びである「悪の力」
を象徴的に表している。つまりここでは 使徒ユダ、ローマ兵、ユダヤ人神殿
警備隊がイエスを取り囲む状況であり、あたかも我々を取り巻く世の中が、
永遠の滅びに囲まれているような様を暗示しているかのようでもある。永遠の
滅びに剣で応戦する場合、右耳一つぐらいなら切り落とすことができるかも
しれないが、剣によって永遠の滅びそのものを撃退することは出来ない。
永遠の滅びとは、人間の「罪の力である」。我々を取り囲む「悪の力」である。
これを人間の力で、剣の力では太刀打ちできない。
それに太刀打ちできるのは、キリストの贖いしかない。だからイエスは
「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と
言われる。この暗闇に象徴される我々を、暗闇の中から、神の栄光の輝きの
下に引きずり出されるのがイエスキリストである。キリストは、剣によって
ではなく自らの命を捨てることによって、絶望の暗闇を希望の光へと変えて
下さった。
光は闇の存在を明らかにする。闇はそれ自体闇である事をやめないが、
光に照らされる時、闇は闇であることを失うのである。