<2016年12月11日の説教から>【するとすぐ、鶏が鳴いた】

<2016年12月11日の説教から>

【するとすぐ、鶏が鳴いた】

ヨハネによる福音書18章25節~27節
牧師  三輪地塩
 
 主イエスを三度否んだ箇所である。この時、鶏の声を聞いたペテロはハタと我に返り号泣した、とマタイ福音書26章69節~75節は述べている。イエスはぺテロに対し、
期待を込めて「岩」(ケファ)と呼んでいたのかもしれない。堅い意志を持った彼ならば、十字架の最期まで付き従ってくれるだろうと。
 
 しかし、「岩」のような意志を持った彼さえも、自らの保身と恐れから、人間的決心の薄弱さと意志の脆弱さを露呈してしまうのであった。自分の「先生」「主人」を三度も否定してしまったならば、ペテロでなくとも、誰しもが自らの弱さに打ちひしがれることだろう。
 しかしこの場面、ヨハネ福音書では異なっている。ペテロが泣いていないのだ。
これは単なる書き忘れなのか、ヨハネが「強いペテロを描こうとしている」のか、あるいは、ペテロがそんなに後悔していない、とでも伝えようとしているのかは分からない。
 
 だがそのどれでもないと思う。ペテロは泣いただろうし、大いに後悔したことだろう。彼の弱さは、たとえ泣かなかったとしても一目瞭然であるからだ。この場面で(マタイ福音書が伝えるように)「激しく泣いた」と言われていないのは、ヨハネの強調点が「泣くこと」「ペテロの後悔」に無いからだと筆者は考える。ヨハネ福音書は、ペテロが泣くか泣かないかという人間感情的な事柄にではなく、我々の目を十字架の贖いへと向けさせているのだある。つまり、これ以降のペテロ(と弟子たち)は、イエス昇天後、教会を形成するのである。教会は、この者に鍵を渡す、と宣言されたペテロの上に預けられた。この意志が弱く、決意の脆弱であった、弱々しい「ペテロ」の上に、神の恵みと御栄えを表すべき教会は任せられたのである。つまり教会とは、キリストの十字架の弱さと人間の弱さの上に、神の力づよさを打ち立てる事にある。教会には十字架の贖いと赦しが立ち、天の御国の到来がここにあることを述べているのである。信仰によってのみ建つ教会。その信仰告白の脆弱さにも拘らず、主は我々を見捨てず、十字架に至るまで我々を愛し続けて下さった主イエス・キリストに目を向けさせているのである。