2017.04.23の説教から

  

  

    <423日の説教から>

    『わたしを愛しているか』

ヨハネによる福音書2115節~19

            牧師 三輪地塩

エスはペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロが言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言った。この質問と応答は3度繰り返される。

 

サムエル記上3章では、祭司エリのもとに居たサムエルが、主に3度呼ばれ、4度目に主の呼び掛けである事に気付く。神から特別な務めが与えられる召命の場面として語られる。だがイエスとペトロとの3度のやり取りは、召命を受けている場面のように感じない。何故ならペトロが「悲しくなった」と言われているからである。「そんなに同じことを何度も聞かなくてもいいのに・・・。という思いになっているように読み取る事も出来る。

 子供の時分、親から「宿題やったの?明日の準備はしたの?」とクドクド言われ、何と信頼されていないのか、と悲しくなった経験を持つ人も少なくないと思う。「出来ていない自分」に気付かされ、それを何度も指摘されるからこそ「悲しむ」のである。ペトロもそうなのかもしれない。

 だが、ここでの3度の問い掛けは、単に「本当にわたしを愛しているのか?本当なのか?」、という念押しではなく、まして、ペトロを信用していないから尋ねているのでもない。ここにはペトロの三度の否みの出来事が想起される。ペトロは十字架の前日、大祭司邸の庭でイエスとの関係を否定し、「違う」「知らない」「聞いたこともない」と、否定に否定を重ねたのであった。

 しかし、復活の主イエスは、3度拒否したペトロに対し、3度愛の確認をしている。これはペトロの犯した罪に対する挽回の機会とも言える。彼は汚名返上の機会を与えられ、「違う」「知らない」「そんな人は聞いたこともない」という拒否の言葉自体を「主を愛する」という3度の言葉で打ち消しているようである。

 罪深かったペトロが、もう一度主を愛する者とされる「回復の出来事」がここにある。我々は回復されるのだ。罪を犯した事は残る。だが「赦された者」と「見做されて生きることが出来る」それこそがキリストの福音である 

2017.08.27主日礼拝

 2017.08.27        
 
 
 
 
 
 
                                                                                                                                  
主 日 礼 拝  午前 10:30
 
奏楽 田
 
<神の招き> 
 
招 詞  イザヤ書5719節 
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編5112節~19
*讃美歌  (21)18〔12
 
<神の言葉>
 
聖 書 イザヤ書261節~6 (旧約P.1099
フィリピの信徒への手紙48節~9
(新約P.366
祈 り              伊木 美穂子                                                                                                                                                                                                                                                          
*讃美歌  (21)536
  教 平和の神はあなたがたと共にいる
 三 輪 地 塩  
                                                       
 
<神への応答>
 
*讃美歌  (21)433〔14
*十 戒
 公 告  
*献金感謝 
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏