2017.09.24週報 <ヨハネ福音書・最終回>

2017.09.24週報 
 
    <ヨハネ福音書・最終回>
『この証しは真実である』
           ヨハネによる福音書2120節~25
                              牧師 三輪地塩
 
「主の愛する弟子」(以下、愛弟子)は、イエス昇天後、長生きをしたと言われている。今日の箇所にそれが示されている。ここでイエスは「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」と語る。
この言葉は重要である。「この人はどうなるのか?」という質問に対し、イエスは「それがどうした。その事は、あなたと何の関係があるか」と答えている。ヨハネ教会の中では「愛弟子は長生きすぎる」「キリストの再臨の時まで生き続けるのではないか」などと口々に教会内で噂が広がっていたようである。だがイエスは「それはあなたがたに関係のないことだ」と、人の噂話を一刀両断に切り捨てる。愛弟子に関する神の計画は、「神の知るところ」であって「あなたの知るところではない」と。つまり「未来は神の領域に属しており、(特に人の寿命などは)、我々人間が関わる領域とは異なっている」と主イエスは言うのである。
ペトロは、一説にはローマで殉教したと伝えられている。18節の「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」という言葉がペトロの行く末を暗示している。長生きの愛弟子に対しペトロは短命であった。
 両極端の寿命を生きた彼らの生涯であったが、この事が重要である。それぞれの人生・命をどう燃やし、どう用いるかは、それぞれである。しかしそれらを批判する事は出来ないし、面白おかしく批評する事も出来ないのだ。神への仕え方は、それぞれに異なりながらも、両者共に尊重され、歩んで行く。人それぞれに、生涯の在り方があるし、生涯の閉じ方があるのだ、と主は語られる。
 ヨハネ福音書は「私は道であり、真理であり、命である」と伝えてきた。その「道」は、それぞれがひたすら歩むことの中で進むべき「道」である。我々は、他者への関心を失ってはならないが、他者と自分を比較したり、他者への干渉をする事も必要ない。「あなたはどう神に仕えるか」という問い掛けのみを見つめて歩むべきである。