2017.07.30説教

 

 

    <730日の説教から>

     『わたしに倣う者になりなさい』

    フィリピの信徒への手紙317節~41

                    牧師 三輪地塩

 


 「本国は天にある」とパウロは言う。口語訳聖書では「私たちの国籍は天にある」と訳されていた。この世が滅びに向かっても、我々は救いに向かって生きる。だがそれは、この世から乖離した生活をしろと言っているのではない。この世において、地に足のついた生き方をし、この世と共にあり、この世を愛し、この世と共に喜び、この世と共に泣く生き方である。


 主イエスやパウロが批判する「ファリサイ派」は「分裂」の意味を持ち、世俗の一般庶民と切り離された特別意識を内包した呼称であった。だが我々の信仰生活はファリサイ的であってはならない。この世と分裂する生き方は、「この世に関心を持たない生き方」である。あのマザー・テレサが、「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」と言ったように、自分がこの世の隣人となる事なく、この世から乖離し、この世を無視し、「われ関せず」と生きていく生活は、この世を愛さない生き方となる。神の創造された世界から離れる生活である。愛は関心を持つ事から始まるのであり、天の国に国籍を持って生きるというのは、天に生きる者としてこの世に関心を持って生きる、ということである。もし、世の中だけに関心を持つ生き方をした場合、目に見える成果、地位や名声、仕事の業績、貯めた財産、そして究極的には自分が「神」となる生き方になってしまう。我々がこの世を愛するのは、この世に自分の銅像を建てて、この世に未来永劫に語り継がれる人物になるのが目的ではなく、十字架のキリストに表わされている。我々は無私なる愛の体現を行うべく、主の使命を受けている。