2017.12.10~16 今週の集会

   

今 週 の 集 会


 


祈祷題 「生活に困窮している人々のため


大会事務所・神学校校舎検討委員会 
            12日()13:00


聖書の学びと祈り    14()10:00


 列王記上20章(担当 三輪地塩)  

              司会 松 本 京 子                 


聖書の学びと祈り    14日()13:30


ヨハネの手紙一 47節~16   
              
             担当 鈴木 美津子


訪問聖餐(白石徹雄・鈴木さだ江さんホーム)
                
        14日()14:30教会出発

2017.07.30説教

 

 

    <730日の説教から>

     『わたしに倣う者になりなさい』

    フィリピの信徒への手紙317節~41

                    牧師 三輪地塩

 


 「本国は天にある」とパウロは言う。口語訳聖書では「私たちの国籍は天にある」と訳されていた。この世が滅びに向かっても、我々は救いに向かって生きる。だがそれは、この世から乖離した生活をしろと言っているのではない。この世において、地に足のついた生き方をし、この世と共にあり、この世を愛し、この世と共に喜び、この世と共に泣く生き方である。


 主イエスやパウロが批判する「ファリサイ派」は「分裂」の意味を持ち、世俗の一般庶民と切り離された特別意識を内包した呼称であった。だが我々の信仰生活はファリサイ的であってはならない。この世と分裂する生き方は、「この世に関心を持たない生き方」である。あのマザー・テレサが、「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」と言ったように、自分がこの世の隣人となる事なく、この世から乖離し、この世を無視し、「われ関せず」と生きていく生活は、この世を愛さない生き方となる。神の創造された世界から離れる生活である。愛は関心を持つ事から始まるのであり、天の国に国籍を持って生きるというのは、天に生きる者としてこの世に関心を持って生きる、ということである。もし、世の中だけに関心を持つ生き方をした場合、目に見える成果、地位や名声、仕事の業績、貯めた財産、そして究極的には自分が「神」となる生き方になってしまう。我々がこの世を愛するのは、この世に自分の銅像を建てて、この世に未来永劫に語り継がれる人物になるのが目的ではなく、十字架のキリストに表わされている。我々は無私なる愛の体現を行うべく、主の使命を受けている。

 

 

 

 

2017.12.10礼拝予定

2017.12.10  
  
主 日 礼 拝  午前 10:30
 
  
   <アドベントⅡ>
 
        奏楽 三
 
招 詞  イザヤ書714
*讃 詠   546
*罪の告白と赦し 交読詩編13018
*讃美歌  95(1,,4)
 
<神の言葉>
 
聖 書 エレミヤ書14節~8節 (旧約P.1172
ルカによる福音書15節~25
                新約 P.99
祈 り               三 浦 勇 二                                                                                                                                                                                                                                                     
*讃美歌 100
 すでに母の胎にいるときから聖霊に満たされて    
    三 輪 地 塩 
                                                       
<神への応答>
 
*讃美歌 114
*ニカイア信条
 公 告  
*献金感謝
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  539C  (別紙参照)
*派遣と祝福
後 奏 

2017.07.23の説教から

         <7月23日の説教から>
         『キリストに捕らえられて』
     フィリピの信徒への手紙3章12節~16節
                    牧師   三輪地塩
 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に
完全な者となっているわけでもありません。何とかして
捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエス
に捕らえられているからです。」
 これはパウロがローマ兵に、捕えられていたにも関わら
ず、自分が「捕える側」に立っている。大変面白い言い回
しである。人間的な状況や環境から解き放たれて、既に彼
は福音において自由であった。人間の考えでは絶望的な状
況の中で、彼の命が「この世に基づいていない」事を示す。
 讃美歌333番は「主よ われをば とらえたまえ。さらば
わが霊(たま)は 解き放たれん。わがやいばを くだきたま
え、さらばわが仇に 打ち勝つをえん」 と歌う。 これはフ
ィリピ書3:12をモチーフにして書かれている。
 「主よ、私を捕えてください。そうすれば私の魂は、解き放
たれ自由になるでしょう」 と歌っており、 面白い逆説とな
る。「私の自由は、神に捕えられるという不自由の中にあ
る自由である」という逆説だからである。
 この讃美歌を作詞したジョージ・マセゾンという人は、
1842年、 スコットランドのグラスコーに生まれた。生ま
れつき視力の弱かった彼は、徐々に弱っていく目と共に、
18歳の時に完全に失明したのである。だがマセソンは元来
の学問的才能を持っており、姉妹の助けを得ながら、何ケ
国語もの聖書言語を学び、エジンバラ大学で修士号を取
り、その後スコットランド長老教会の優秀な牧師になるの
だった。彼は、聖書を暗記する能力に長けており、更に素
晴らしい説教の能力を持っていたため、それを聞いた人
は、彼が盲目である事を全く気付かなかったという。
 その彼がこの333番の作詞を語った。先天的な弱視を持
ち、後天的に失明した彼は、見ることを、光を奪われた。
一見すると、外の世界から切り離され、囚われの身のなっ
た思いがしたことだろう。だが彼は、キリストと共にあり、
キリストは彼と共にあり、「主よわれをば、 とらえたまえ、
さらば我がたまは、 解き放たれん」と言わしめる「命」を
「得た」のであった。