2017.08.27の説教から

                      <827日の説教から>


               『平和の神はあなたがたと共にいる』


             フィリピの信徒への手紙48節~9


                                    牧師 三輪地塩


 8節の「真実」「気高さ」「正しさ」「清さ」「名誉」などはギリシャ哲学「ストア派」に由来する言葉である。パウロは当時、「世界が高く評価している思想・哲学を、正当に評価するように」と考えていたようである。言い換えるならば、キリスト教会を「隔離されたセクト的な集団」として歩ませようとはしていなかった。我々は「キリスト者」なのだから、それ以外の考えを排除し、切り捨てようとは考えていなかった。むしろ違った考えを受け入れ、周囲の世界や言葉に目を向け、世で認められている価値観や大切にされている感覚を、正当に評価し、受け止めよ、とパウロは言っているようでさえある。


 これは、異教の真ん中に建っているフィリピ教会ゆえに抱える問題であるが、我々日本の教会もこれに類似している。我々が宣教する相手は、日本社会と日本文化に生きる人たちなのである。当然ながら、他宗教や文化に「おもねること」や「迎合する」必要はない。この土地を愛し、この土地に住む人々を愛する、という事が大事である。言い換えるならば、「他者理解」を如何にして行うか、である。


 まことに「他者」とはややこしい相手だ。自分と異なるのが「他者」であるならば、そこに確執や敵対が生まれる可能性もある。それが「他者」である。だが「三位一体なる神」とは、神ご自身の中に、他者性が内在された神であるという事を意味する。唯一の神、は絶対の神、でありつつ、多様性をご自身の内部に存在させる神なのである。


神が創造された世を愛する、とは、自分の愛したい世界を愛するだけではなく、自分とは異なる考えも愛する事を意味する。それは、キリストが、仲間の為だけでなく、敵の為にも十字架に掛かられた事からも明らかとなる。