2018.01.14~20今週の集会



今 週 の 集 会
 
祈祷題 「浦和教会各団体の活動のため」
大会歴史編纂委員会(神学校) 
                 16() 11:0016:00 
聖書の学びと祈りの会    18() 10:00
 列王記1章(担当 三輪地塩)
              司会 安 井 英 子
聖書の学びと祈りの会    18() 14:00
 ガラテヤ書211節~       
              担当 大 和 文 彦


午前の祈祷会後、総会議事資料綴じと配布作業を致します。

2018.01.14礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30
 
奏楽 板
 
招 詞  詩編119105
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編32611
*讃美歌  (21)9(1-3)
 
<神の言葉>
 
聖 書  ホセア書64節~6(旧約P.1409
マルコによる福音書31節~6                
                 新約 P.65

祈 り               伊木 美穂子                                                                                                                                                                                                                                                     

*讃美歌 (21)419

 教 らのかたくなな心を悲しみながら

三 輪 地 塩 
                                                       
<神への応答>
 

*讃美歌 (21)404

*ニカイア信条
 公 告  
*献金感謝           
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏 
 

2018.07~13 今週の集会


    あけましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願いいたします。
今 週 の 集 会

 

祈祷題 「中会日曜学校教師研修会のため」
                (18日)

   「日曜学校教師のため」

日曜学校教師研修会(横浜海岸)
            8(月・休) 10:3015:30

聖書の学びと祈りの会  11() 10:00

  列王記22章 (担当 三輪地塩) 
            司会 森 千 恵

「生と死」の学び(『泉への招待』三浦綾子著)          同上後

            担当 大月 美智子

聖書の学びと祈りの会  11() 14:00

 ガラテヤ書211節~  担当 大 和 文 彦

トレインキッズ(餅作り)
                 13()11:0014:00

 

2017.08.20の説教から

        820日の説教から>
              『あらゆる人知を超える神の平和』
              フィリピの信徒への手紙44-7
                                      牧師 三輪地塩
 
 本書のテーマ「喜びなさい」という言葉が力強く語られている。だがこれが、エボディアとシンティケの仲違いの直後に書かれているのは、一見すると奇妙にも思われる。仲間との関係を拗(こじ)らせた難しい案件が継続中であるにもかかわらず、「喜びなさい」とは如何なることか。6節「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」との言葉が、「無駄な事を考えず、煩悩を捨てて、諦めて生活しなさい」とでも言っているかのようにも聞こえてしまう。
 
 だがそうではない。このパウロの言葉を解く鍵は「エン・キュリオー」「エン・クリストー」にある。「主にあって」「キリストにあって」を意味するこの言葉は「in Christ」という意味のギリシャ語である。我々は「主にあって」「キリストにあって」歩む民だ、という場所を出発点にしなければならならない。
 
 「主にあって生きる」とはどういう意味か。主に「ある」ということは、単に「主と共に居る」とか「主に従って」という意味よりももっと強い意味で語られる。それは文字通りには「主の中に」(英訳聖書だとIn the Lordと訳される)である。「キリストと共に生きる」だけではなく、我々は「キリストの中に存在している」という意味である。つまり、我々が苦しみ、悲しんでいるのは、キリストが「居ないから」ではない。我々の存在それ自体が「キリストの中」にあり、我々の人生が「主の中で」生かされているのである。苦しみにある時我々は「主がおられない」と嘆くのであるが、そうではなく、主は我々と共に、(主の内に)苦しんで下さっているのである。前回の箇所、エボディアとシンティケの仲たがいの時も、彼女たちと共に主は痛んでおられるのである。
 
 北森嘉蔵という神学者は「神の痛みの神学」と主張した。それは、神が我々と共に痛まれる神であり、それが十字架に表われるものとなった、という事である。神は我々と共に痛まれる神であり、我々の苦しみと共に苦しまれる神である。だから「主の内に」「主の中に」存在する我々は、その痛みも苦しみと、共に主と分かち合うことが出来るのである。