2017.11.05の説教から

 
        <115日の説教から>
                   『シモンの姑の熱』
       マルコによる福音書129節~39
                                      牧師 三輪地塩
 シモンの姑(義母)は高熱を出していた。シモンや姑がSOSの声を上げたわけでなく、苦しみを知ってイエス自ら近づいて来られたのであった。イエスは病床に伏している者に自ら近づき、御手をもって起き上がらせる方である。
我々も病を抱えるだろう。体が健全であったとしても、心の健全さを失うことも起こる。或いは、病気と断定される段階ではないが、もう既に病気になりかかっている状態の「未病」(みびょう)の状態。我々人間は、たとえ肉体的な病でなくても、罪の観点からは「死に至る病」(キェルケゴール)において「未病」の状態であると言える。つまり我々人間の病とは「罪」と不可分なものなのだ。この我々にイエス・キリストが自ら近づき、手を取り起き上がらせて下さる。その姿がシモンの姑の癒しに示されている。
 
 聖書は多くの箇所で「病気」について語っている。レビ記では病を不浄なものとして捉える。だが使徒パウロが「病によって傲慢さが打たれ」と述べるように「病気」は、自分を強くもし弱くもする「神の恵みである」とも述べられる。
 しかし、当然の事ながら、誰もが病気になりたいとは思わないだろう。「病気」が「神の恵み」であると考える事が出来るのは、その病を持った当事者が、長い時間をかけて、そのように理解するから思えるのであって、病気になった他者を「神の恵みがあって良かったですね」などと言う事は決して出来ない。「病」を人間の「肉の弱さ」と「罪の問題」として考える時、つまり「病を信仰的に受け止めた時」初めて「それを恵みである」と捉える事が可能なのだ。はっきり言うと、病それ自体は恵みなどではない。病は人の心をひどく弱らせ、身の周りに起こる出来事を否定的に捉えさせてしまう。だが神は「その病をも用いられる」という事も言える。病は我々を、我々のまだ見ぬ良き場所へと歩ませることにも繋がる。「神は必ず弱り果てた我々の心も体も魂も、神の領域の中で用いて下さる」と信じる時にこそ、初めて「病が恵み」となっていく。