2017.11.26の説教から

   
    <1126日の説教から>
        『子よ、あなたの罪は赦される』
  マルコによる福音書140節~45
                       牧師 三輪地塩
「中風」とは、脳卒中などによって、手足のマヒが生じた状態、半身不随の状態を言う。この中風患者と、彼を連れてきた4人の仲間たちの物語は大変面白い。中風の男は、床から起き上がれる状態ではなく、床ごと担がれてイエスのもとに連れて来られ、イエスとの出会いが「屋根を剥がす」という強硬手段によって行われた。この4人はリスクを顧みずに中風の患者を治らせたい一心で連れてきたのだ。我々はこの4人の「信仰におけるファインプレー」であると言えるだろう。
だが一方で違う見方も可能だ。この中風の男が一言も言葉を発していないことから、病気の本人が、特に治癒される事を求めていなかったと考えることも出来る。とするならば、この4人の行為は単なるお節介を焼いたということになろう。治りたいと思っていない人に対する押し付けがましい行為であると。
我々がこの箇所で読み取りたいのは、この4人の男たち(おそらく中風患者の「友人」と思われる4人)が、なぜイエスのところに彼を連れてきたのか、ということにある。4人が中風患者の治癒を求めていたにせよ、患者自身が癒やされたいと思っていなかったにせよ、いずれにしても「4人」は、「患者」を「イエスに会わせた」という事がこの箇所で行われた出来事(行為)である。
ひょっとすると中風の患者は「生きることを諦めていた」のかもしれない。もう治らない、もう生きる価値はない、もう生きていても仕方が無い、と。そうであるならば、この4人の最大のファインプレーは、「イエスに「会わせた」」ということ自体にある。つまり「こちら側(人間の側)が何をしてほしい」という一方的な願いではなく、「イエスを知ること」「イエスと出会うこと」「イエスに相まみえること」こそが、「我々の生きる意味」そのものである、という神の捉え方である。
かつて16世紀欧州の神学者は「生きるにも死ぬにもあなたのただ一つの慰めは何ですか?」という問いをした。それに対する答えは、私が私自身のものではなく、~真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と答えている。神の恵みとは、我々の願望が叶う事にはなく、神の主権を求めることにある。