2018.04.22 礼拝予定

               主 日 礼 拝    午前10:30
                                奏楽  三輪 志都
 招 詞  ヨブ記 19章 25節
*讃 詠  546
*罪の告白と赦し  交読詩編86章11節~13節
*讃美歌  18
               <神の言葉>
 聖 書  エゼキエル書34章11節~12節 (旧約 P.1352)
       マルコによる福音書6章30節~44節(新約 P.72)
 
祈 り                              森崎 千恵
*讃美歌  239
 
 説 教     「5千人の給食」
                          三輪 地塩
               <神への応答>
*讃美歌  213
*十 戒
 公 告
*献金感謝
*主の祈り
*頌栄   542
*派遣と祝福
*後 奏

そのほか・集会案内

             

お知らせとお願い

 520()ペンテコステ合同礼拝後、

 バザーを開催。

 バザーに出店ご希望の方、
 バザー品を提供してくださる方

 バザー委員までお知らせください
              (担当 福永真理)

 

【東京中会「青年の集い」
         第1回準備会開催のお知らせ】

 429日(日)14001600 柏木教会において

2018.04.15~21 今週の集会

    
          今 週 の 集 会

   

 
祈祷題浦和教会建設記念日を覚えて (4月21)
聖書の学びと祈りの会  19日()10:00         
 列王記下13章 (担当 三輪地塩) 
                       司会 室 橋 明 子
 
聖書の学びと祈りの会  19日()14:00
 
 詩編8編                  担当 大 和 文 彦

2018.04.15 礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30
 
    
奏楽 
 
招 詞  ヨブ記1925
*讃 詠   545B
*罪の告白と赦し 交読詩編86510
*讃美歌  16
 
<神の言葉>
聖 書 レビ記181節~5節 (旧約P.190

マルコによる福音書614節~29                                                 

新約P.71

祈 り                三 浦 勇 二                                                                                span>                                                                                                                                                                          

*讃美歌 140

   「ヘロディアとサロメ」

                 三 輪 地 塩
                                                       
<神への応答>
 

*讃美歌 276

*使徒信条
 公 告 

*献金感謝  

*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  541
*派遣と祝福
後 奏 

その他・集会案内

【神学校入学式のお知らせ】

 日 時:49()1300~神学校において

入学者:安彦(あひこ)晴樹 (はるき)(秋田教会)
 
415日(日)礼拝後、1300~健保グランドにおいて
 南浦和教会とのソフトボールの親睦会を行います
 参加は自由です。奮ってご参加ください。
              (主催:テモテ交わりの会)
 
【近畿中会泉北伝道所の連絡先変更】

5941111大阪市和泉区光明台1-5-4 藤田豊英方

 TELFAX 0725574502
 
【東京中会「青年の集い」第1回準備会開催のお知らせ】
429日(日)14001600 柏木教会において
 青年部の諸活動について青年を中心に話し合う会です。

2017.11.05の説教から

 
        <115日の説教から>
                   『シモンの姑の熱』
       マルコによる福音書129節~39
                                      牧師 三輪地塩
 シモンの姑(義母)は高熱を出していた。シモンや姑がSOSの声を上げたわけでなく、苦しみを知ってイエス自ら近づいて来られたのであった。イエスは病床に伏している者に自ら近づき、御手をもって起き上がらせる方である。
我々も病を抱えるだろう。体が健全であったとしても、心の健全さを失うことも起こる。或いは、病気と断定される段階ではないが、もう既に病気になりかかっている状態の「未病」(みびょう)の状態。我々人間は、たとえ肉体的な病でなくても、罪の観点からは「死に至る病」(キェルケゴール)において「未病」の状態であると言える。つまり我々人間の病とは「罪」と不可分なものなのだ。この我々にイエス・キリストが自ら近づき、手を取り起き上がらせて下さる。その姿がシモンの姑の癒しに示されている。
 
 聖書は多くの箇所で「病気」について語っている。レビ記では病を不浄なものとして捉える。だが使徒パウロが「病によって傲慢さが打たれ」と述べるように「病気」は、自分を強くもし弱くもする「神の恵みである」とも述べられる。
 しかし、当然の事ながら、誰もが病気になりたいとは思わないだろう。「病気」が「神の恵み」であると考える事が出来るのは、その病を持った当事者が、長い時間をかけて、そのように理解するから思えるのであって、病気になった他者を「神の恵みがあって良かったですね」などと言う事は決して出来ない。「病」を人間の「肉の弱さ」と「罪の問題」として考える時、つまり「病を信仰的に受け止めた時」初めて「それを恵みである」と捉える事が可能なのだ。はっきり言うと、病それ自体は恵みなどではない。病は人の心をひどく弱らせ、身の周りに起こる出来事を否定的に捉えさせてしまう。だが神は「その病をも用いられる」という事も言える。病は我々を、我々のまだ見ぬ良き場所へと歩ませることにも繋がる。「神は必ず弱り果てた我々の心も体も魂も、神の領域の中で用いて下さる」と信じる時にこそ、初めて「病が恵み」となっていく。