2018.06.10 説教から

 
610日の説教から>
『今の時代の者たちはしるしを欲しがる』
         マルコによる福音書811節~21
                     牧師 三輪地塩
 例えば近くの公園はどこかに泉が湧き出したとする。その湧き水を飲むと難病が治ったり、その水で患部を洗うと重い皮膚病が治ったり、という事があった場合、人はこの泉についてどう考えるだろうか。「素晴らしい泉が湧き出た」ことよりも、この「泉」「水」自体を、自分の理解の範疇に置こうとするだろう。この泉によって癒やされた人々の苦しみや、悲しみが癒やされたことに注目するのではなく、この泉はどこを源泉とした水なのか。この水の成分は何か?その奇跡は本物か?その奇跡を合理的に説明できるのか?・・・等のような議論が生まれると思われる。つまり我々は、神の奇跡、神から与えられた恵みの出来事に対し、それを疑って見ることをやめず、何とかそれを「科学的」或いは「理知的に」証明可能なものに転化しようとするだろう。それは、神の次元・神の領域でしか分からないことを、我々人間の理解可能な場所へと引きずり下ろそうとする行為に他ならない。
 この箇所においてファリサイ派たちは、神の奇跡や、神の恵みという事に自分の身を置こうとする活動をしているのではなく、「人間の行い」に注目を向ける活動をしていた。当然「神のために」とか「神の言葉を守るため」と彼らは言うのであるが、それが「律法を文字通り事細かに守ること」を人々に強いるのである。安息日規定を守り、食物規定を守り、宗教的穢れを犯すことなく、手を洗い、身を清め、宗教儀礼を重んじることを推奨する。そこに「心」がなかったとしても、それを行うことこそが「信仰である」と解釈して。
 我々の信仰は、「理知的」「理性的」であることをよしとする事が多い。だが、神を信じるとは、「不条理なるが故に我信ず」(ラテン語: Credo quia absurdum)と古代教父テルトゥリアヌス(AD160-220年)が言うように、我々の知覚を超えて、起こされる出来事を信じることである。処女マリアから生まれることも、三日目に死者のうちから復活することも、まさにその信仰である。