2018.07.01 説教から

        <7月1日の説教から>
         『キリストに従う者は』
       マルコによる福音書8章31節~9章1節
                         牧師 三輪地塩

 ペトロはイエスを「わきへお連れした」というのは「子
供や病人を世話するために連れて行く」というニュアンス
の単語である。又「いさめ始めた」というのは、これまで
イエスが行ってきた、「悪霊や嵐を叱った」時の「叱る」
と同じ語である。つまりペトロは、「主イエスを諭すため、
叱りつけるために、わきへ連れて行った」のである。彼は
「あなたはキリストです」と告白した。だがその彼が、イ
エスの十字架を否定し「そんな事を言ってはいけません」
と諭している。換言すれば、ペトロはイエスの上に立ち、
主導権を握ろうとしていたとも言える。神の上に立とうと
する時、神からの叱責がある。それがイエスの叱責である。

 あのモーセが、シナイ山で十戒を授かった時、彼が帰っ
て来ないことを心配した麓の民らは、それぞれ所有する金
を集め、金の子牛を鋳造した。金の子牛は当時の周辺諸国
で信奉されていた神の姿であった。印象深い神の姿。彼ら
はヤハウェの神を、自分たちの知る神の姿に矮小化させた
のである。まばゆい黄金の輝きに照らされる理想的な神の
形。「目に見えるようにそれを作った」のであった。
 
 イエスを「いさめた」ペトロは、この金の子牛の鋳造に
も匹敵する「神の姿の矮小化」を行なっている。マルコ福
音書は、弟子たちの無理解が一つのテーマであるが、それ
は人間という存在そのものの無理解を示しているだろう。
 
 ペトロの言葉の裏にあるのは、「自分自身」である。「メ
シアには、私(ペトロ)の思うように歩んでほしい」とい
う彼の願いが先行したため、イエスをいさめたのである。
だが、神の計画には「十字架の苦難」があった。痛みと苦
しみがあった。メシアを待ちわびる者たちが予想だにしな
かった救世主の姿である。だが、イエスにとっては通らね
ばならないプロセスであった。目を背けてはならない道筋
であった。それを取りのけて下さいと願う、ペトロの思い
は良く分かると共感できる。だが、神の計画のプロセスに
十字架は不可欠であった人間の思いを超えて、神の思い
が働く。それがイエスの叱責の意味である。

2019.01.27~02.02 今週の集会

今 週 の 集 会
 
祈祷題「浦和教会の新しい歩みのため」
神学校講義(神学校)        28() 9:00
聖書の学びと祈りの会              31() 1000
  歴代誌上13章(担当 三輪地塩)  司会 吉田 さとみ

聖書の学びと祈りの会             31() 1400

  使徒言行録1421節~26節     担当
埼玉YMCA早天祈祷会     21日(金) 700

2019.01.27 礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30
     
 
   奏楽 
 
                     <神の招き>
 
招 詞  詩編119105
*讃 詠  546
*罪の告白と赦し 交読詩編12816
*讃美歌  15
 
<神の言葉>
聖 書 ダニエル書121節~3  (旧約P. 1401
   マルコによる福音書131節~13
               (新約P.88                         
祈 り               安 井 国 雄                                                                                                                                    
*讃美歌 365
   マルコの小黙示録」
 三 輪 地 塩
                                                       
 <神への応答>
*讃美歌 284
*十 戒
 公 告 
*献金感謝           
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  544
*派遣と祝福
後 奏