2018.10.07 説教から

      <107日の説教から>
             『救いを叫ぶ』
           マルコによる福音書1046節~52
                         牧師 三輪地塩
 エリコに住んでいたバルティマイは、盲人であり、町の片隅で物乞いをしていたとある。当時「盲人」の「物乞い」であることは、「罪の結果」あるいは「先祖の罪が現れた」と考えられており、大変に肩身の狭い生き方を余儀なくされていたようである。
このバルティマイの前をイエスが通ったのである。彼は「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と、力の限りに主の憐れみを求めて、叫んだのであった。だが、その求めの声は、回りの者たちに妨害され、遮られてしまったのである。48節「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」とあるが、彼が妨害された理由は「主の憐れみを受けるのに不適格な人物だ」と思われたからであると思われる。「お前には救いは必要ない」「うるさいからあっちに行け」とばかりに、バルティマイは追い払われそうになったのであった。
ここにいる民衆は、イエスへの信仰を持つ者たちである。だが、彼らはバルティマイの信仰を「遮った」のである。彼ら民衆は「イエスへの信仰を持つに「相応しい者」」を見極め、イエスに近寄れる者かどうかを判断したのであろう。だがここが間違っている。イエスの救いを受ける者の相応しさは、人間の側の判断によらず、神の招きによるのである。主の救いを求める者の声を遮るのが「熱心で立派な信仰者である」というこの出来事から、我々は大いに学ぶべきであろう。
49節「イエスは立ち止まって『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』」とある。一度はバルティマイの願いを妨害した民衆が、今度は彼を主のもとに連れてくる者となった。ここに神のくすしき計らいが示される。
確かに我々人間は、神の思いとは真逆のことをしてしまうというミスリードを行う罪と欠けを持つ。だが神は、その罪や欠けをも用いて、バルティマイの心を、「憐れみを叫び続けさせる者へと」変えたのである。ここに、神の深い計画を見ることが出来る。