2025.6.1 週報掲載の説教

2025.6.1 週報掲載の説教

<2025年3月23日の説教から>

『神の業が現れるために』

ヨハネによる福音ヨハネによる福音書9章1節〜12節

牧師 鈴木 美津子

 
生まれつき目の見えない一人の人を前に、弟子たちは「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と主イエスに尋ねた。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が

この人に現れるためである」と、主イエスは答えられた。

主イエスは、今、この人に現れている苦しみ、不幸の原因を過去に求めて納得すると言う方法を取らない。そうではなく、わたしたちがまだ知らない、出会っていないこれからのこと、将来、まさにこれから来るというそのことによって、あなたたちは必ず納得できると言われる。今の苦しみと釣り合いが取れるものを過去に求めないで、これから先のことに求めることによってそれが出来ると言われるのである。

わたしたちは、明日、いや、次の瞬間に何が起きるか知らない。知らされていない。しかし、主イエスはすべてを知っておられる。そのお方が、約束して下さる。わたしたちは、すでに経験してきたこと、過去のことについて、あのときああしておけば、こうしておけばとどれほど悔やんで、嘆いても、悩みは深まるばかりで、何の解決にもならない。それは単なるマイナス思考である。そうではなく、今がゼロの地点、いやマイナスの地点であったとしても、これから先にプラスがある、だから、これから加えて行けばよいのだ。これから何をするのか。神が何を下さるのか、これに期待するのである。教会には十字架がある。十字架は大きなプラスの字をしているのだ。

道端にずっと座っていた男の人は、立ち上がった。そして、シロアムの池にまで行ってその目に塗ってもらった泥を洗い落とした。一体何の意味があるのか、疑いもあったことであろう。しかしその疑いを超えて、その人は行動したのだ。主イエスがそのように導いてくださったと信じて従った。マイナスの場所、くぼんだ地にうずくまるようにして生きてきた、この人は、主イエスに導かれてプラスの人生へと歩み始めたのである。

その主イエスは、男の人を招いたように、今わたしたちをも招いてくださっている。あなたも同じように立ち上がって、そしてシロアムに行け。そして、わたしに従え、と。