2025.7.20 週報掲載の説教
<2025年6月15日の説教から
『この病気は死で終わらない。神の栄光のためである』
ヨハネによる福音書11章1節〜16節
鈴木 美津子
ヨハネ福音書11 章に記される主イエスの愛するラザロの死と復活の物語は、主イエスが愛する者の苦しみや死にどう向き合われるかを示す、深い慰めと希望に満ちた福音である。
主イエスはラザロの病を知りながら、すぐには動かず、二日間その場に留まられた。ラザロの姉妹であるマルタとマリアの願いにもかかわらず、主イエスがすぐには応答されなかった姿に、私たちは「神の沈黙」のような痛みを覚える。
しかし、詩編139編は、「夜が私を囲んでも、闇もあなたにとっては闇とはならず、夜も昼のように輝きます」と語っている。見えない時も、神は働いておられる。主イエスが留まったのは、もっと深く大きな愛のご計画があったからである。
主イエスは、「この病気は死で終わらない。神の栄光が現れるためである」と語る。二日間留まったというのは、ラザロが死んだということがはっきりするまで待たれたということである。瀕死の状態であっても、生きているうちならば、まだ治る可能性もあるだろう。しかしはっきりと、主イエスのおかげで生き返ったのだということが分かるために、時を引き延ばされたのだ。「この病気は死で終るものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである」というのは、そういうことである。すべての人間の可能性が閉じるところで、神の可能性が始まるのである。
弟子たちは主イエスの言葉を理解できず、エルサレムへの道を「危険なもの」と見て恐れた。しかし主イエスは、ご自分の死と復活を見据えつつ、「神の子が栄光を受けるため」に歩まれる。ラザロの復活は、主イエスご自身の十字架と復活へとつながるしるしであり、私たちが主イエスの復活を信じる信仰へと導く出来事でもあるのだ。
私たちには「死で終わらない」神のご計画に信頼し、希望をもって歩むことが求められる。神の栄光が、私たちの歩みにも豊かに現れるために。