2025.8.3 週報掲載の説教

2025.8.3 週報掲載の説教

<2025年6月22日の説教から>

『復活であり、命であるイエス様』

ヨハネによる福音書11章17節〜27節

牧師 鈴木美津子

 
マルタは、兄弟ラザロの死に際して、「あなたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださる」と語っているが、心の深いところでは、その言葉を本気で信じているわけではなかった。頭では理解していても、ラザロがすぐに生き返ることなど考えてもいなかったのである。これは私たち自身にも通じる姿である。「神には何でもできる」と口では言えても、本心から信じきれていないことがあるのではないか。

主イエスが「あなたの兄弟は復活する」と語られた時も、マルタは「終わりの日に復活することは存じている」と、当時のファリサイ派の教えに基づいた、形式的な応答をする。しかし、主イエスはマルタの言葉を否定することなく、「わたしは復活であり、命である」と力強く宣言された。この「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という言葉は、聖書の中でも特に深い意味を持つ言葉のひとつである。主イエスにつながる者にとって、肉体の死は終わりではなく、命の継続であることが明らかにされているからである。人間の命は肉体の死によって突然断ち切られるように見えるが、主イエスにつながる者は、その死を超えて生きる希望を与えられる。主にある死は、完全な別れではなく、つながりの中にある。ラザロの復活の出来事は、そのことを一つの具体例として証ししている。

主イエスはマルタに「このことを信じるか」と問われた。

マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えた。その信仰がどれほど確かなものだったかは分からないが、それでもマルタは信仰告白を口にしたのだ。

私たちもまた、信仰が揺れ動く中で「はい、主よ、信じます」と応える者である。救いは、私たちの強さや確かさにかかっているのではなく、主イエスが「命の主」であるという確かな土台の上にある。だからこそ私たちは、今もこの方に信仰を告白し、希望を持って新しい一歩を踏み出すことができるのである。