2026.1.11 週報掲載の説教
<2025年10月5日の説教から>
『主よ、それは誰のことですか』
ヨハネによる福音書13章21節〜30節
鈴木 美津子
過越祭の夜、主イエスは弟子たちと最後の食卓を囲まれた。
静かな中で、主は「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている(21) と、言われる。
思いがけない言葉に驚いた弟子たちは、「主よ、それはだれのことですか(25)」と尋ねる。食卓の空気は一変した。弟子たちは自分の心の内を見つめざるをえなかったからである。
主イエスは、愛する弟子と裏切りを決意したユダを、共にそばに置かれた。光と闇、信頼と不信がひとつの食卓に並ぶ中で、主イエスは誰をも区別せず愛し抜かれた。ユダにも悔い改めの機会が与えられたが、彼はその愛を受け入れず、自ら闇へと歩み出た。「夜であった(30)」とは、光から離れた人間の心の闇を示している。神は私たちに「自由」を与えられた。それは思い通りに生きる力ではなく、愛と真実を選び取る責任ある力である。ユダはその自由を誤って用い、主を離れた。他方、主イエスは苦しみの中でも御父に従い、愛を選び抜かれた。ここに、自由の本来の姿が示されている。
旧約にも、兄弟によって銀貨で売られたヨセフ、友の裏切りを嘆く詩編の作者など、同じ痛みを通る者たちがいる。しかし神は、罪の出来事さえも御業の中で用い、救いへと変えていかれた。
ユダの裏切りもまた、十字架という救いの出来事へと導かれて
いく。
弟子の「主よ、それはだれのことですか(25)」という問いは、他の誰かを責めるためではなく、御言葉の前に立つ一人ひとりに、静かに心を向けさせる問いである。日々の小さな選択の中で、私たちは光に向かうのか、それとも闇を選ぶのかを問われている。
闇に出ていったユダの姿は、時に私たち自身の姿でもある。しかし主イエスの光は、その闇をも照らし、なお希望へと導かれる。与えられた自由を、愛と信仰の選びとして用い、主の光の中を歩む者でありたい。
