4月1日イースター説教から

41日イースター説教から>

       『イースターとは「キリストの復活祭」です』

              ヨハネによる福音書201-18

                             牧師 三輪地塩

 「(マグダラの)マリアは墓の外に立って泣いていた」。二人の弟子たちが帰ったあと、彼女は一人で墓に戻り、そこでさめざめと泣いていた。そして改めて「墓の中を確認」した。「泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた」のであった。天使たちは「婦人よ、なぜ泣いているのか」ということ以外を語らずマグダラが「泣いている」ことを殊更強調的に描く。

 何故人間は愛する人を失うと泣くのか、を問うたのは、精神科医の土居健郎であった。彼は『親しい者との死別』という本の中で、「親しい者を失うと、人はなぜ泣くのか、なぜ人は悲しいと感じるのか」の答えとして「愛があるからだ」と答えている。

 「どこに」というのが、この箇所のテーマである。「イースターは、キリストの復活祭」のことであるが、イースターは「死」という側面があるからこそ成り立つ「生命」を記念し、覚える教会暦である。

 我々の悲しみの頂点は、「愛する人との死別」であろう。死と共に「永遠の別れ」を感じさせられる時、「あの人は、どこへ、なぜ、行ってしまったのか」と問うのである。人は死について考え、死の事実に苦悶し、死と隣り合わせにある自らの命に向き合わざるを得なくなる。天国とは「一体どこなのか」。最愛の存在を失った者たちは、死の悲しみを、「どこへ行ったのか」「なぜ行くのか」という問いとして、神に問い、自分に問うのだ。

 この時、マグダラは、三度「イエスはどこへ」と問う。だが、この時彼女はあくまでも「墓の中」に命を探していた。墓は「死の象徴」であり、虚無と、空虚と、絶望と、喪失と、涙と、暗闇のシンボルである。命の終わりと、別れを象徴するもの、とも言える。そこには「命への諦め」がある。

しかしイエスは、彼女を「マリア」と呼ぶ。墓の中を探していた者を墓の外に連れ出し、「マリア」と、命の開始を呼びかける。死は終わりではなく、死は生命に変えられて行く。イースターは、キリストの命を喜ぶ時である。