2025.8.17 週報掲載の説教
<2025年7月13日の説教から>
『ラザロ、出てきなさい』
ヨハネによる福音書11章38節〜44節
鈴木 美津子
当時のユダヤの墓は、山の岩をくり抜いた横穴で、遺体を安
置したのち、重い石で入口をふさぐものであった。その石は、
生と死の世界を隔てる冷たく重い障壁であり、絶望の象徴でも
あった。その前で、主イエスは「その石を取りのけなさい」
と命じられた。これは、死と命を隔てる壁を取り除く、神の力の宣言であった。しかしマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と答えた。この言葉には、死とはもうどうすることもできない、取り返しのつかない現実だという人間の限界の認識が込められている。私たちもまた、死の前に立つとき、信仰よりも現実の重さに押しつぶされそうになるのではないか。
そんなマルタに、主イエスは「もし信じるなら、神の栄光を見る」と語られた。信仰によって、絶望ではなく希望と栄光を見ることができる。デンマークの思想家キルケゴールは、ここから「死に至る病は絶望である」と語り、信じることを失った状態こそが最も死に近いのだと述べた。
「ラザロ、出て来なさい」。主イエスのこの叫びは、終わりの日にすべての人に向けられる言葉でもある。主イエスご自身、「墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞いて出て来る」と語られた。ラザロの復活は、全人類の復活の先駆けであり、その出来事は驚きというよりも、静かな確信として語られている。
注目すべきは、ラザロが何も語らないことである。彼はただ、呼び出された。それは、復活とは人間の力によるものではなく、神の一方的な恵みによるものであることを示している。私たちはただ信じ、ただ委ねるほかない。
そしてこの奇跡の直後、主イエスは十字架に向かって歩み出された。ラザロが墓から出て来る一方で、主イエスは死へと向かって行かれるのである。命と死の場所が逆転する。
やがて私たちも死を迎えるが、主の御声により「出て来なさい」と呼ばれる日が来る。その希望の根拠は、主イエス・キリストの十字架にある。この恵みに感謝しつつ、共に復活の希望を携えて歩みたいと願う。