2025.10.12 週報掲載の説教

2025.10.12 週報掲載の説教

<2025年9月7日説教から>

主イエスの栄光

ヨハネによる福音書12章36節b〜43節

鈴木美津子

 
ヨハネ福音書は、冒頭から「光と闇」のテーマを描いている。「光」とは主イエスご自身、神の命と救いのしるしである。主イエスは「光のあるうちに歩きなさい」と語られたが、その直後に人々から身を隠された。光が隠されることは、十字架への道が始まることを意味している。

主イエスは多くの「しるし」を行い、神の栄光を現された。カナの婚宴のぶどう酒、病人の癒し、五千人の給食、生まれつきの盲人の癒し、そしてラザロの復活。これらはすべて「イエスは命の光である」ことを示す出来事であった。しかし多くの人々は信じなかった。自分の期待や利益に心を縛られ、真の光を見ようとしなかったからである。

ヨハネはこの不信仰を、イザヤの預言の成就として理解した。「苦難のしもべ」は人々に退けられ、軽蔑される姿で描かれている。その姿は十字架に向かう主イエスと重なった。また「心をかたくなにし、目を暗くせよ」というイザヤの言葉は、光を拒み続ける人間の心の現実を示している。光が差し込んでいるのに、その時に受け入れなければ本当に見えなくなってしまうのだ。こうした不信仰の現実は、当時の宗教指導者や議員たちの中にも現れた。

議員の中にも主イエスを信じる者はいたが、公に告白する者はいなかった。「神の誉れ」よりも「人の誉れ」を優先したからである。ここに信仰と不信仰の分岐点がある。信仰とは、心で信じるだけでなく、口で公に言い表し、行動で示すものである。

私たちもまた、人の評価や周囲の目を恐れて信仰を小さく隠してしまうことがあるのではないか。しかし主イエスは、人からの誉れを退け、神の誉れを愛し抜いて十字架の道を歩まれた。その十字架こそ神の栄光の現れであり、私たちへの救いのしるしである。
私たちは日々の生活の中で、光を選び取る決断へと招かれている。朝の光に心を開くとき、隣人への小さな思いやりを示すとき、そして祈りと御言葉に耳を傾けるとき、その一歩一歩が神の栄光に結びつく。弱さや迷いを抱える私たちも、光に照らされて新しい歩みへと導かれているのである。