2025.11.16 週報掲載の説教

2025.11.16 週報掲載の説教

<2025年9月28日の説教から>

弟子の足を洗うイエス様

ヨハネによる福音書13章1節〜20節

鈴木美津子

過越祭の前夜、主イエスは弟子たちを「この上なく愛し抜かれた(1)」。その愛は時間の終わりではなく、愛の極みまでの深さを意味する。主イエスは身分を捨て、上着を脱ぎ、たらいに水をくみ、弟子たち一人ひとりの足を洗われた。当時、客の足を洗うのは奴隷の務めであった。主イエスは神の子でありながら、最も低い者の姿をとり、仕える者となられた。
この行為は単なる奉仕ではなく、十字架へ向かう愛のしるしであった。旧約では祭司が務めに入る前に手足を洗って清めた。主の洗足は、新しい契約のもとで弟子たちを仕える者とする清めでもあった。ペトロは「わたしの足を決して洗わないでください」と言ったが、主イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もない(8)」と答えられた。ペトロの言葉には謙遜のように見えて、自分を守る傲慢さがあった。真の謙遜とは、神の愛を受け入れ、その愛に身を委ねること。主イエスは裏切るユダの足までも洗われた。愛と裏切りが同じ食卓に並んでも、主は変わらぬ愛で包まれた。愛の光が最も強く輝くところで、神の愛の真実が現れる。

主イエスは「わたしがしたように、互いに足を洗い合いなさい」と命じられた。これは互いに仕え、赦し、支え合うようにとの招きである。教会はこの愛の交わりの中に生かされている。私たちは赦される者として謙り、仕えるのである。
「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れる(20)」という主イエスの言葉は、御子と父なる神との深い一体性を示している。互いに仕え合うとき、そこに神の愛と交わりが現れる。主イエスの洗足は十字架の愛を先取りし、弱さや裏切りのただ中でも変わらぬ愛を示す。私たちもその愛に洗われた者として、赦しと奉仕に生きる者でありたい。