2026.3.1 週報掲載の説教

2026.3.1 週報掲載の説教

<2026年1月11日説教から>

まことのぶどうの木につながる

ヨハネによる福音書15章1節〜10節

鈴木美津子

 
アドベント、クリスマス、年末年始の礼拝を経て、私たちは再びヨハネによる福音書の講解説教へと帰ってきた。連続して読み進めてきた箇所からはしばらく間が空いたが、その間、教会の暦に導かれながら、季節にふさわしい御言葉に耳を傾けてきた。アドベントには救い主イエス・キリストの到来と再臨を待ち望み、クリスマスには「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という出来事を、喜びと感謝をもって受け取った。
礼拝は私たちを日常から切り離すのではなく、御言葉によって整えられた者として、再び日常へと送り返す。その日々の歩みは、何も変わらない元の生活へ戻ることではなく、確かに神の国へと向かう歩みとして、新しくされ続けているのである。

前回の14章で、主イエスは弟子たちに「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない(18)」と約束され、父と子が共に住むという、より深い臨在を語られた。そして15章に入って、主イエスはさらに一歩踏み込み、「わたしはまことのぶどうの木(1)」であると宣言される。ここで語られているのは、弟子として生きるための条件や努力ではなく、命がどこから来て、どこにつながって生かされているのかという、信仰の根本である。

旧約聖書において、ぶどうの木は神に選ばれ、育てられる民の姿を表してきた。しかしヨハネ福音書は、まことのぶどうの木はイエス・キリストご自身であると告げる。父なる神は農夫として、枝である私たちに関わり続け、命を生かすために手入れをなさる。主イエスの「わたしにつながっていなさい(4)」という言葉は、不安を煽る命令ではなく、すでに与えられている命の関係の中にとどまるよう招く言葉である。私たちは自分の力で実を結ぶのではなく、まことのぶどうの木につながって生かされる者として、日々を歩んでいくのである。