2026.3.15 週報掲載の説教

2026.3.15 週報掲載の説教

 
世にあって証しする

ヨハネによる福音書15章18節~27節

鈴木美津子

 
本日の御言葉は、教会を怖がらせるためではなく、教会を立たせるために語られている。主イエスは、十字架を前にした夜、弟子たちに向かって「世があなたがたを憎む」と率直に告げられた。それは、弟子たちを試すためでも、覚悟を強いるためでもない。これから直面する現実のただ中で、「こんなはずではなかった」とつまずかないために、前もって語られた言葉であった。

主はまず、弟子たちに一つの視点の転換を与えられる。弟子たちに向けられる憎しみを、弟子自身の言い方や態度の問題として受け止めるな、と語られる。「あなたがたを憎む前に、わたしを憎んでいた(18)」とあるように、その原因は弟子たちの内側にはない。憎しみの根は、イエスご自身と「世」との関係にある。弟子が拒まれるのは、立派だからでも、正しいからでもなく、主に属しているからである。

続いて主イエスは、「僕は主人にまさりはしない(20)」と言われ、弟子とは主イエスの歩まれた道に連なる者であることを示される。主イエスが世に拒まれたなら、主イエスに結ばれた弟子が拒まれるのは不思議ではない。しかしそこには慰めがある。それは失敗や未熟さのしるしではなく、主に属している現実だからである。

さらに主イエスは、御自身が来られ、語り、業を行われたことによって、世の罪が明らかになったことを語られる。救い主の到来は恵みであると同時に光であり、光が来ると、闇は闇として姿を現す。「理由もなく、わたしを憎んだ(25)」という言葉は、この現実を言い表している。主は、弟子たちがこの現実を知らないまま暗闇に入ってしまわないように、前もって語っておられるのである。

そして最後に、確かな希望が示される。弟子たち自身の力ではなく、父から遣わされる真理の霊が、イエス・キリストについて証しをなさる。弟子たちは、その証しを生み出す者ではなく、その証しに参与させられる者である。この約束のもとで、教会は世のただ中に立たされ、今日も証しへと遣わされているのである。