<2019年11月10日の説教から> ペトロの手紙Ⅱ 3章1節~13節 『一日は千年のようで、千年は一日のようです』 牧師 三輪地塩 かけがえのない素晴らしい一日と出会うことがある。その一日は人生を彩る何にも代えがたい思い出と記憶として心に生き続ける。 ペトロの手紙二は、キリストの再臨待望を強く求めていた時代に書かれた書簡だ。キリストは再臨の約束を与えて昇天した。残された者たちは、再臨の到来を待ちわびて何も手に付かなかったようだ。ローマ帝国の支配を受けていた時代であり、それゆえの再臨待望でもあった。 だが、待てど暮らせど一向に再臨はやって来ない。苛立ちを感じ始めたキリスト者たちは9節にあるように、「なぜ遅れているのか」を問うのだった。これに対してペトロは、遅れている意味を彼らに与える。「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(3章9節) 主は、約束されたキリストの再臨について「遅らせているのではなく、我々人間の側の準備不足である」と語る。 私たちは、再臨を待つ行為が「人間の忍耐」として考えがちである。再臨が遅れているのであれば神の側に問題があると人間本位に考えてしまう。だが待っているのは我々ではなく神の側だ、とペトロは視点の転換を迫ってくる。忍耐しているのは私たちではない、神なのだ、と。 我々は感謝が足りない。「当たり前」を享受しすぎなのだ。「当たり前」が先立つとき、不平や不満が先立ってしまう。だがそうではない。我々の「生」は、「生かす神」によって、生かされる環境、生きる目的、生きがいさえも神に与えられた賜物である。我々は、一日が与えられている。だからこそ、与えられた一日という限りある時間を、大切に用いる必要がある。そのためには、日々希望と共に歩むのだ。素晴らしい未来を見据え、日々喜びを見出し、いつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝する。その時こそ、「一日が千年のよう」な価値を持つものとなる。 |
2021.1.31 主日礼拝 録画映像
主日礼拝 2021年1月31日(日) 10時30分~
スマホおよびPADでも視聴できます!

URL; https://youtu.be/lTmec7MssKE

YouTubeが立ち上がります。
スマホおよびPADでも視聴できます!
************************************2021.1.31 主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 加 藤 純 子
<神の招き>
招 詞 詩編119編105節
*讃 詠 545B
*罪の告白と赦し 交読詩編90編16節~17節
*讃美歌 7〔1-2〕
<神の言葉>
聖 書 詩編27編4節 (旧約P.857)
ルカによる福音書10章38節~42節
(新約P.127)
祈 り
*讃美歌 532〔1-2〕
説 教 「マルタのおもてなし」 三 輪 地 塩
<神への応答>
讃美歌 534〔3-4〕
公 告
*主の祈り
*頌 栄 542
*派遣と祝福
*後 奏
************************************

今こそ私たちの祈りを結集させ、主により頼みつつこの難局を乗り切りましょう。主の守りと支えとが、これまで同様、今も、永遠に、世々限りなくありますように。
2021.1.31 主日礼拝の案内
週 報 76巻 5号 2021.1.31
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカによる福音書10章41節~42節)
2021.1.31 主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 加 藤 純 子
<神の招き>
招 詞 詩編119編105節
*讃 詠 545B
*罪の告白と赦し 交読詩編90編16節~17節
*讃美歌 7〔1-2〕
<神の言葉>
聖 書 詩編27編4節 (旧約P.857)
ルカによる福音書10章38節~42節
(新約P.127)
祈 り
*讃美歌 532〔1-2〕
説 教 「マルタのおもてなし」 三 輪 地 塩
<神への応答>
讃美歌 534〔3-4〕
公 告
*主の祈り
*頌 栄 542
*派遣と祝福
*後 奏
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難の方は
お座りのままでどうぞ。
礼拝当番 (今週)三浦勇二
(次週)薄田東正
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカによる福音書10章41節~42節)
2021.1.31 主 日 礼 拝 午前 10:30
奏楽 加 藤 純 子
<神の招き>
招 詞 詩編119編105節
*讃 詠 545B
*罪の告白と赦し 交読詩編90編16節~17節
*讃美歌 7〔1-2〕
<神の言葉>
聖 書 詩編27編4節 (旧約P.857)
ルカによる福音書10章38節~42節
(新約P.127)
祈 り
*讃美歌 532〔1-2〕
説 教 「マルタのおもてなし」 三 輪 地 塩
<神への応答>
讃美歌 534〔3-4〕
公 告
*主の祈り
*頌 栄 542
*派遣と祝福
*後 奏
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難の方は
お座りのままでどうぞ。
礼拝当番 (今週)三浦勇二
(次週)薄田東正
2021.1.31 週報 教会からのお知らせ
◇本日礼拝後、昼食をとらず、直ぐに1階で定期総会を
行います。速やかに1階にお集まりください。
1時間ほどで終了の予定です。
◇2021年の長老・執事候補者(敬称略 50音順)
長老:伊木美穂子、三浦勇二、森﨑千恵
執事:岩本道子、菊地晴子、小出勝、新畑信、薄田東正、野田昭子、済陽高志
◇受付に席上献金の袋を用意しています。席上献金にご協力
下さい。
※袋が少しずつ減っております。お持ち帰りにならないよう、
箱に入れて下さるようお願いいたします。
行います。速やかに1階にお集まりください。
1時間ほどで終了の予定です。
◇2021年の長老・執事候補者(敬称略 50音順)
長老:伊木美穂子、三浦勇二、森﨑千恵
執事:岩本道子、菊地晴子、小出勝、新畑信、薄田東正、野田昭子、済陽高志
◇受付に席上献金の袋を用意しています。席上献金にご協力
下さい。
※袋が少しずつ減っております。お持ち帰りにならないよう、
箱に入れて下さるようお願いいたします。
2021.1.31~2.7 集会案内
本 日 2021.1.31 の 集 会
〇「教会員の生活」による学びの会 休 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇2021年度浦和教会定期総会(1階)礼 拝 後
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 総 会 後
〇第1回臨時小会(1階) 総 会 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題 「教会員の健康が守られるように
教会の新しい歩みのために」
〇聖書の学びと祈りの会 2月4日(木)10:00
歴代誌下26章(担当 三輪地塩) 司会 野 田 昭 子
※午前の祈祷会は「LINE」で行ないます。
午後の「聖書の学びと祈りの会」及び「生と死」の学びは
暫く休会とします。
次 週 礼 拝
説教 「こう祈りなさい」 三 輪 地 塩
箴言30章7〜10節
ルカによる福音書11章1節~4節
讃美歌
546、11(1-2)、502(1-2)、213(1-2)、202、543
岩 本 道 子
〇「教会員の生活」による学びの会 休 会
〇朝カフェ 休 会
〇入門の会 休 会
〇クワイア練習 中 止
〇コイノニア 中 止
〇2021年度浦和教会定期総会(1階)礼 拝 後
〇礼拝堂・1階の消毒(有志) 総 会 後
〇第1回臨時小会(1階) 総 会 後
今 週 の 集 会
◎祈祷題 「教会員の健康が守られるように
教会の新しい歩みのために」
〇聖書の学びと祈りの会 2月4日(木)10:00
歴代誌下26章(担当 三輪地塩) 司会 野 田 昭 子
※午前の祈祷会は「LINE」で行ないます。
午後の「聖書の学びと祈りの会」及び「生と死」の学びは
暫く休会とします。
次 週 礼 拝
説教 「こう祈りなさい」 三 輪 地 塩
箴言30章7〜10節
ルカによる福音書11章1節~4節
讃美歌
546、11(1-2)、502(1-2)、213(1-2)、202、543
岩 本 道 子
2021.1.31 の週報掲載の説教
<2019年11月3日の説教から>
Ⅱペトロ2章1節~22節
『義の道を知っている者』
牧師 三輪地塩
著者が異端者に対する憤慨をあらわにしている。この異端者たちは「グノーシス主義者」という思想運動の者たちであり、「観察、経験によって知ること」を意味する単語「ギノースコー」に由来する。この思想の特徴は、「物質」と「霊」、「肉体」と「精神」など、二元論的な思想を持つ。キリスト教では、人は死んだら骨になり、肉体を地上に置きっぱなしにして魂だけがあの世に行くなどとは考えない。霊肉共に、肉体性も伴って天国に行く。と考える。ゆえに、キリスト教信仰では、遺体に対してそれほど執着していないのだ。ここで問題なのは、肉体は「善か悪か」の問いである。物質が悪ならば「肉体」も悪となる。そこから肉体を離れた「精神こそが尊い」という考えが生まれ、「禁欲主義」が現われる。
しかし肉体を「善」と捉えるならば、禁欲主義とは正反対の、放縦な生活、やりたい放題、欲のままに活動する生活を善とする倫理観をもってしまう。つまり快楽主義である。
この聖書箇所には、「みだらな楽しみ」「欲が深く」「享楽にふけ」などと書かれているのは「快楽主義的なグノーシス」のことを言っている。ここで警鐘を鳴らすのは、快楽主義者たちが「グノーシス的キリスト教」というキリスト教の一派(異端)であったことだ。これは実に厄介だった。他宗教であれば多少寛容に扱うこともできだろうが、この箇所で問題なのは、「キリスト教の変質化」が起こっていることにある。著者はここに憤慨しており、攻撃している。特に、「近親憎悪」に近い感覚を持っているのであろう。手厳しく非難するのである。
そもそも、我々は、まったく異なる考えや、まったく、自分たちの「枠外」に生きている人たちに対しては関心を持たず、ゆえに違いがあっても怒らない。だがその関係が近しいと、人はその違いに怒りを発する。兄弟喧嘩、身内のイザコザも、親族間の遺産相続の争いも同じである。だが我々は、裁かれるのは神である、ことに立ち帰らねばならない。マタイ福音書7章1節以下で、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と述べており、裁きは人間の行為ではないことが指摘される。我々は、自分たちの正統性を主張したがるが、信仰も、生き方も、人生も、それを裁くのは神である。このことを心に留めて、日々正しく歩みたい。
Ⅱペトロ2章1節~22節
『義の道を知っている者』
牧師 三輪地塩
著者が異端者に対する憤慨をあらわにしている。この異端者たちは「グノーシス主義者」という思想運動の者たちであり、「観察、経験によって知ること」を意味する単語「ギノースコー」に由来する。この思想の特徴は、「物質」と「霊」、「肉体」と「精神」など、二元論的な思想を持つ。キリスト教では、人は死んだら骨になり、肉体を地上に置きっぱなしにして魂だけがあの世に行くなどとは考えない。霊肉共に、肉体性も伴って天国に行く。と考える。ゆえに、キリスト教信仰では、遺体に対してそれほど執着していないのだ。ここで問題なのは、肉体は「善か悪か」の問いである。物質が悪ならば「肉体」も悪となる。そこから肉体を離れた「精神こそが尊い」という考えが生まれ、「禁欲主義」が現われる。
しかし肉体を「善」と捉えるならば、禁欲主義とは正反対の、放縦な生活、やりたい放題、欲のままに活動する生活を善とする倫理観をもってしまう。つまり快楽主義である。
この聖書箇所には、「みだらな楽しみ」「欲が深く」「享楽にふけ」などと書かれているのは「快楽主義的なグノーシス」のことを言っている。ここで警鐘を鳴らすのは、快楽主義者たちが「グノーシス的キリスト教」というキリスト教の一派(異端)であったことだ。これは実に厄介だった。他宗教であれば多少寛容に扱うこともできだろうが、この箇所で問題なのは、「キリスト教の変質化」が起こっていることにある。著者はここに憤慨しており、攻撃している。特に、「近親憎悪」に近い感覚を持っているのであろう。手厳しく非難するのである。
そもそも、我々は、まったく異なる考えや、まったく、自分たちの「枠外」に生きている人たちに対しては関心を持たず、ゆえに違いがあっても怒らない。だがその関係が近しいと、人はその違いに怒りを発する。兄弟喧嘩、身内のイザコザも、親族間の遺産相続の争いも同じである。だが我々は、裁かれるのは神である、ことに立ち帰らねばならない。マタイ福音書7章1節以下で、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」と述べており、裁きは人間の行為ではないことが指摘される。我々は、自分たちの正統性を主張したがるが、信仰も、生き方も、人生も、それを裁くのは神である。このことを心に留めて、日々正しく歩みたい。