4月11日~4月16日までの集会

 ◇中会 青年部委員会(会場:浦和教会)       4月11日(月)16:00~

 ◇杉戸集会(田端宅)               4月13日(水)10:00~

 ◇聖書の学びと祈りの会              4月13日(水)19:30~

 ◇聖書の学びと祈りの会              4月14日(木)10:00~

 ◇婦人会委員会                     〃     終 了 後

使徒言行録19章8節-20節 『スケワの七人の息子たち』 

使徒言行録19章8節-20節 『スケワの七人の息子たち』 2011年4月10日

 パウロはエフェソの会堂で、2年3ヶ月に亘って宣教を行ないました。相変わらず多くのユダヤ人たちは、頑なにキリストを信じようとはせず、結果として長い間ここに留まることになったのです。9節に「ティラノという人の講堂で毎日論じていた」とありますが、ティラノという人が、この講堂の所有者であったのか、それとも毎日議論の中心になっていた人物であったのかはっきりいたしません。とにかく侃々諤々やりあっていたというのです。しかしそのようなやり合いが、かえって主の言葉を長いことこの町で語らせることとなりました。このティラノという人の講堂で毎日論じることがなければ、より多くの人たちを回心に導くことはなかっただろうと思います。時にはこの議論が不毛なもので終わる事もあったでしょう。喧嘩腰になることもあったでしょう。時には身の危険すら覚えるほどの激しさもあったことでしょう。しかし結果としてそれらの議論の末に、「ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、誰もが主の言葉を聴くことになった」というのです。結果として2年3ヶ月という長きに亘ってエフェソで宣教することになりました。巡回伝道者のパウロとしてはかなり異例の長さであったわけです。

 さて、今日の箇所の中で、大変面白いと感じるところが二つございます。まず一つ目ですが、11節、「神はパウロの手を通して目覚しい奇跡を行なわれた。彼が身につけていた手拭いや前掛けを持っていって病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出て行くほどであった。」とこのようあります。この箇所は肯定的に書かれているものとして読むことができます。つまり、神様はパウロの手を通して、彼の身につけていたものでさえも癒しの道具としてお用いになられた、ということです。しかし一方で、これを否定的な内容として読む事もできるわけです。無教会の神学者で高橋三郎という先生が折られますが、彼はこの箇所について次のように言っております。「パウロにも、ペトロと同様の奇跡の力が与えられていたということをここで語ろうとしていたのであろうが、その身につけていた手拭いや前掛けに奇跡的癒しの能力が乗り移ったことになると、聖霊の働きやパウロの祈りとは全く無関係に、癒しが行なわれたことになる。それはもはやキリスト信仰とは無関係な、呪術信仰の表明と言うほかない。ここには神の存在も、伝道者の祈りも参与しておらず、そういう意味での人格性が欠如していることを我々は見過ごすことは出来ない」。このように言っておりました。

 これを読んでみてなるほど、と思ったわけです。「鰯の頭も信心から」ということわざもありますように、鰯の頭のようなどんな取るに足らぬものであっても、信じる思いさえあれば、何でも神様のようにありがたく感じてしまうものだ、という揶揄的な意味が込められたことわざであります。ここでパウロの手拭や前掛けは、あたかも鰯の頭のように、パウロの手を離れ、何よりも神の手を離れているにも関わらず、人々に何らかの癒しの力を行使した、というのです。

 私たちは殊更に魔術的な信仰や、迷信、まじない、占いの類の物を、まったく信仰とは別のものとして忌み嫌い排除してきたと思います。確かに旧約の律法の中にもそのことは書かれております。申命記18章には「あなたがたは、異教の習慣を見習ってはならない。娘息子に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。~主はこれらの者をあなたの前から追い払われるであろう」。と書かれております。また、レビ記20章27節には「男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを意志で打ち殺せ。彼らの行為は死罪にあたる」とあり、これは申命記の文言よりも、より厳しい口調になっているのです。つまり旧約において魔術や占いやその類のものは、厳罰に処されて、時には生かしておいてはならない、というほど厳格な対処を求められていたということが分かります。

 しかし私たちは、今日の箇所を見る限りにおいて、魔術的な行為に対して、懐深く捉えているようにも思えます。使徒言行録をずっと読んできましたけれども、これまで見てきたように、例えば8章では、フィリポがサマリアの魔術師シモンと対決しておりますし、13章でパウロはバルイエスという魔術師と対決しています。しかしこの両方とも、単に魔術師を処刑したとか、追放した、という結末を迎えているわけではないのです。8章のバルイエスは、自ら魔術を捨てて洗礼を受ける者となりました。13章のバルイエスの場合は、一時目を見えなくさせられましたが、「時が来るまで日の光を見ないだろう」と13章11節で宣言されております。つまり、時が来て、回心のときを迎えたら日の光を再び見ることになるだろう、という予告の言葉と共に、バルイエスとの対決を締めくくっています。

 つまり使徒言行録の中で考えられているのは、魔術とか、占い、という迷信的なものを、積極的に推奨することはありえないとしても、しかし「鰯の頭」を信じるほどの、小さな信仰がある場合、そのような小さな信じる思いを神様は無駄にされない、という事が言えるのではないかと思うのです。もちろんパウロの手拭や前掛けなどのような物は、単なる無機質であり、人格的な物ではないし、それ自体が何をしてくれるわけではないにせよ、そのような取るに足りないものを通してでも、神様は苦しむ病人の癒しのために働いてくださる、という事が言えるのではないかと思うのです。

 しかし、それとは全く正反対のことも言われております。ここに出てくるスケワの七人の息子たちは、単に主イエスの名を濫用した、癒しの真似事をしているに過ぎません。そこに信仰があるわけではありませんでした。「試みに、主イエスの名を唱えて」という言葉が示していますように、「試しに、イエスの名前を使ってみた」という程度の軽率なものであったのです。私たちは十戒の中で「主の名をみだりに唱えてはならない」という文言を知っていますが、まさにこの言葉に抵触しこれを無視するかのような、主の名の濫用であるのです。

 この七人がどういう人たちであったのかは分かりません。父親が祭司長である、という事から、かなり恵まれた生活をしていたでしょう。また
宗教的にも、祭司長の息子、というだけで、一目置かれた存在となっていたのかもしれません。ですから何をしても怒られない。何をしてもやりたい放題であったのかもしれません。このような彼らのよこしまな考えに対してどのような結末を迎えているのでしょうか。これが今日の箇所の面白いところなのですが、ここで悪霊自身が「イエスとパウロを知っている」と言っております。そしてスケワの7人が「偽者である」ことを突き止めて、彼に怪我を負わせ、追い払ったのであります。「悪霊が」イエスやパウロの偽者を暴き、追い出す。これは大変面白いところです。言ってみれば悪霊たちは、これまで何度もイエスに追い出されてきた者たちであります。マタイ8章28節以下、マルコ9章14節以下、などに書かれているとおり、悪霊がイエスの名によって追い払われてきたことがあらゆる箇所に書かれております。しかしここでは反対なのです。悪霊が、この七人に対して「お前たちはイエスではないのに、イエスを名乗っている不届き者だ」と言わんばかりに、彼らを追い払っているのです。まるで悪霊が「私はイエスの権威以外に従うつもりはない」と宣言しているようでもあります。
 
 先ほどの手拭と前掛けにありがたさを感じた事柄と比較してみてどうでしょうか。勿論「鰯の頭も~」という考えもありますし、神様はそのことで神の力を感じることが出来るなら、ということでおおらかに、懐深く捉えてくださっているのかもしれません。しかしそれは実体不在の信仰でしかないのであります。悪霊にでさえも分かってしまうほどの眉唾ものでしかないのです。つまり私たちは信じる神は、実体の伴った、神それ自体が、根拠になっている神なのである。確かに占いや、魔術などによって、心が晴れやかになる人も中には存在するかもしれません。しかしイエス・キリストを知る我々は、イエス・キリスト不在のところに真の救いが存在することはない、ということを知っているのです。「私はある」という方が、そこにおられるとき、初めて「神我らと共にいまし給う」のであります。「私はある」と自己開示なさる神がおられないとき、そこには鰯の頭はあったとしても、神ご自身と、神の決定的な救いはそこに存在しないのであります。私たちは神の「ような方」を信じるのではなく、又、聖者が使ったとされる
「由緒正しき着物」を信じているのではありません。神を信じているのです。神が我々の近くにおられることを信じるのです。

 この箇所の最後は全く劇的な終わり方をしています。18節以下です。「信仰に入った大勢の人が着て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨5万枚にもなった」このようにあります。魔術を行っていた者たちが、真の神に立ち返ったというのです。神のようなもの、神として信じてきた神ではないものを捨てて、それが実体のない、神不在の魔術であったことを告白して、神のもとに集まってきたのです。そして彼らが持っていた本、を全て焼き捨てました。彼ら魔術師にとって魔術の本は最も必要とされてきたものであったことでしょう。これらの本にはあらゆる魔術について書かれていたのでしょう。その筋では相当な価値のあるものだったと思います。銀貨5万枚というのは、5万デナリオンと同じです。つまり一人の労働者が5万日かかって稼ぐ賃金、137年分の労働賃金に匹敵するほどの大金であります。しかし今や、イエス・キリストの前に、その魔術本の価値はなくなった。5万日分の労働賃金に匹敵するほどの魔術書よりも、イエス・キリストへの信仰、キリストと共に生きようとする告白が何よりも価値があると、皆がその道を歩み始めたということであります。魔術書は、言ってみれば、魔術師たちにとって彼らの生活を支えていたものであります。彼らの生活、それまでの人生、彼らの生業であり、彼らのそれまでの生涯に亘って最も大切であると考えてきたものであります。しかし今や、キリストの前に、その価値はなくなった。新しい生命を与えられて、新しい歩みを示されて、新しい価値を受け継いで、彼らは歩み始めたのであります。この恵みが、その価値の転換が、私たちにも与えられているのです。復活祭に向けて歩む私たちです。新しい命。キリストに示された命に向かって歩もうではありませんか。

4月4日~4月9日の集会

 ◇神学校入学式(浦和教会から奉仕者3名       4月4日(月)13:00~

 ◇中会中連婦委員会                4月5日(火)10:00~

 ◇聖書の学びと祈りの会              4月6日(水)19:30~

 ◇聖書の学びと祈りの会              4月7日(木)10:00~

 ◇トレインキッズ(パーラービーズ)        4月9日(土)11:00~13:30

3月28日~4月2日の集会

 ◇浦和教会青年会 一日修養会    29日(火)  10時00分~19時00分(予定)

 ◇聖書の学びと祈りの会       30日(水)  19時00分~

 ◇聖書の学びと祈りの会       31日(木)  10時00分~

 

使徒言行録17章16節-34節 『神はどのようなお方なのか』

 使徒言行録17章16節-34節 『神はどのようなお方なのか』 2011年3月20日

 原子物理学に触れてこなかった文系の私は、「ゲンパツ」という言葉は知って居ましたが、全く自分の範疇外の学問として考えてきました。しかし皮肉なことに、このような私でさえ、電力会社のホームページにアクセスしてみたり、本を読んだりして、その情報を知らざるを得ない状況にさせられています。核分裂、臨界、制御棒、濃縮ウラン、プルサーマル、MOX燃料。取り立てて気にかけることのなかったこれらの用語の「概要だけ」は分かるようになってしまいました。
 しかし一人のキリスト者として、また牧師として、この今のような危機的状況を、どのように神学的に捉えることが出来るのか。また、これをどう理解し、ここから神の何たるかを知り、御言葉をどう聞きうるのか。それが先週一週間の私のテーマでありました。

 大地震によって津波が起こり、目を覆いたくなるような悲惨な出来事と共に、放射線の恐怖に私たちが怯えるとき、私たちは何を考えるでしょうか。「どこの電力会社が悪い」「政府の対応が悪い」と、特定の企業や集団、あるいは政治体制に対して苛立ちをぶつけてしまうと思うのです。しかし事柄はそんなに単純ではありません。一方から見ると、一方は正しく見え、逆の光を当てると、それが正しいようにも見えてしまう。何が正しくて、何が間違っているかの判断は、私たち人間にとって最も困難な事柄の一つであるのです。

 人間は、人間にコントロールしきれないものに手を出してしまった結果が今の状況を生み出している。これが率直な思いです。私たち人類は、人類に出来ない事は何もないと豪語し、制御出来ないものを制御できると思い込んでしまってきたのです。それは私たちのエゴです。人間はもはや、人間を越えてあたかも神の領域に手を出す権威を持っているかのように、そのエネルギーに手を出し、制御不能になることなど考えもせず、人間が人間としての限界を越えようとした結果、そこに疑問を持たずに、単に科学的な事として理解し、神の被造性と神の秩序の問題として考えてこなかった結果が、この事故なのではないかと思うのです。

 これらのことを通して、今日の箇所に向かい合いましょう。
 今日与えられた箇所は、使徒パウロが、アテネという学問の都市で宣教活動をした結果、みんなからあざ笑われ、相手にされなかった、という話です。皆さんはこの箇所をどう読むでしょうか。平和なとき、私たちは、この箇所を、単なる「パウロの失敗」として読むのではないでしょうか。パウロも伝道に失敗することがあるのか。猿も木から落ちるとはよく言ったものだと、そんなのんきな事を考えながら、今日の箇所を読むと思うのです。

 しかし今、多くの被害者を出し、危機的な現状の中にある私たちに、この箇所が与えられました。パウロの言葉をあざ笑ったアテネの哲学者たち。それでも懸命に「神とはどのような方であるのか」を熱心に伝えようとしたパウロがここにいるのです。

 ここに出てくるのはエピクロス派、ストア派の哲学者たちです。この「哲学」は、私たちの良く知る、「デカンショー」の「西洋哲学」とは違います。それは学問の一分野としての哲学です。しかし古代ギリシャにおいて「学問」は哲学しかありませんでした。文学も医学も天体観測や数学も芸術も、哲学のカテゴリーに含まれていました。その最高峰であったのが「アテネの哲学者たち」です。さながら、ハーバードやオックスフォード、ケンブリッジの学者たち、スタンフォードの科学者たちが、アテネに終結しているようなものであります。まさに世界の学問の中心地、それがアテネでした。

 パウロはこのアテネに来て、神の事を伝えるのです。哲学者たちの反応は様々でありました。「このおしゃべりは何が言いたいのか」「彼は外国の神を宣伝する者らしい」などと噂しました。パウロの評判は上々であったと考えて良いでしょう。最初からあざ笑っていたのではなく、強い興味関心を引いているのです。さすがに学問の最高峰アテネの有識者たち、と言った印象を受けます。彼らの学問に対する飽くなき追及心が伺えます。彼らはパウロを「アレオパゴス」という会議場に連れて行き、ここで神の事を聞かせてくれというのです。とても低姿勢であります。教えを乞う姿勢が見られます。それほど彼らは純粋に学問を求めていたのでしょう。

 そこでパウロは語ります。アレオパゴスの真ん中に立ち「アテネの皆さん~」と語りだすのです。「アテネを散策していると『知られざる神に』と刻まれた祭壇を見つけました。私はその「知られざる神」をあなた方に伝えに来たのです。その神は、世界と万物をお造りになった方で、人間の手で造った神殿などに住むことはありません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、そのたすべてのものを与えるのは、この神なのです」‘。このように、神とはどのような方であるのかについて力強く語るのです。

 祭壇に刻まれた「知られざる神に」という言葉は印象的です。「知られざる神に」それは言い方を変えれば、人間は神を知らない、ということにもなります。 そこで思うのは、今の世の中です。私たちは、本当の神を知っている世界に生きているのでしょうか。むしろ、このアテネのように、「知られざる神」の存在は知っているけれども、どんな神かは知らないし、知ろうともしない、そのような世の中に生きているのではないかと思うのです。

 言い方を変えましょう。「神の見えざる手」を信じる市場経済は、それがイエス・キリストの父なる神であろうと、別な違う神であろうと、どうでもよいのです。「神の見えざる手」という言葉に示された神は、経済活動にとっては「知られざる神」で十分だからです。つまり誰でも良い。どのような神であっても良い。それが需要と供給を安定させ、商品価格を適正に保たせるならば、それが「見えざる手」であっても「知られざる神」であっても、どちらでも良いからです。

 市場経済において各個人が自分の利益を追求すれば、結果として社会全体の利益が達成されるとする考え方、アダム・スミスは「国富論」の中で実は一度しか使っていないこの >「神の見えざる手」という言葉が、独り歩きしてしまい、これが市場原理の神の姿として、認識されてしまったのです。私たちはこの市場経済・資本主義経済の中で、たくさんの需要に対して、たくさんの供給を求めようとします。人間が欲するところに欲するだけの商品を作り出そうとするのです。それが社会全体の利益であると信じているからです。欲しい人がいるのに、品物が不足することをビジネス用語では、「チャンスロス」と言うそうです。逆に、「欲しい」人のところに「欲しい物」があることを「チャンスゲイン」と言うそうです。利益を上げるために、チャンスを生かし、チャンスゲインをしていき、多くの利幅を得ていく。決してそれは悪いことではないのですが、しかしひとたび今起きている出来事に目を向けるならば、電気の需要に対して、あらゆる手段を使って電気の需要を満たし、チャンスロスの無いように無いように、と発電を追い求めていった結果、辿り着いたのが、効率よく、巨大な発電力が得られる、利幅が取れる、原子力という制御不能なエネルギーであった、ということでありましょう。「神の見えざる手」つまり「知られざる神」を知ろうとせずに、「知られざる神」がどんな神であろうと関心をもたず、神への無関心と人間の過信の延長線上に起きた出来事。それが人間のコントロールしきれないものであることをどこかで知っていたとしても、需要と供給という知られざる神にばかり目を向け、その代償しての悪魔のような危険をぼやかしにしてしまった。その結果を、私たちは今、目の前で見せ付けられているのではないでしょうか。
 
 パウロはこの「知られざる神」がどのようなお方であるかを克明に語ります。「神は、世界と万物をお造りになった方で、人間の手で造った神殿などに住むことはありません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、そのたすべてのものを与えるのは、この神なのだ」と。「すべての人に命と息と、そのたすべてのものを与えるのが、この神である」のです。すべての人に命を息とその他すべてのものを与えるのは、市場経済でもなければ、核分裂でもないのです。ただ全能の神、創造者としての神のみなのです。創造主と被造物の関係があるだけなのです。私たちはそれを等閑(なおざり)にしてはなりません。被造物は、創造者を制御できず、コントロールするのは神の側であり、我々は自らが神であるかのように、振る舞うことなど許されないのです。この時代、神に対する慎みと、謙虚さが欠如しているならば、私たちは今すぐ神に向き直って、新たに生き直さねばなりません。

 「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが、今はどこにいる人でも皆、悔い改めるようにと、命じておられます」。この言葉は、今の私たちに対して、本当に突き刺さるような言葉であります。この無知な時代を大目に見てくれた、だから悔い改めなさいと聖書は言うのです。

 そしてパウロは、この哲学者たちに「キリストの復活」を伝えます。それは命の根源が、どこにあるかを伝える、究極的な神の使信、神のメッセージでありました。けれども彼らの反応は「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」のです。

 彼らはキリストの復活を拒否しました。「知られざる神」に対しては興味を持っていた彼らが、復活という人間の為し得ない出来事、人間の不可能性の中に神がおられることを伝えると、人々はあざ笑い、立ち去ったのです。復活は、究極の神の業です。しかし信じないものにとっては、神話でしかないのかもしれません。けれどもこの神には不可能はないのです。人間には不可能でも神には可能なのです。哲学者たちは、自分の想像できる領域が神の領域であると信じていたのでしょう。それは、すべてを人間が制御し、人間に出来ないことはないと、心のどこかで信じている、現代人の姿がダブって見えるようです。

 さあ私たちは、今こそ、真の神に立ち帰るときであります。本当の神を見出し、知られざる神が、どのような神であるのかを、知る時であります。信仰は、神を知ってから入るものではなく、知ろうとしたときに既に信仰の内側に入っているのです。

 今日の箇所に、一筋の希望が見られます。それはアテネの議員ディオニシオとダマリスという夫人が、信仰に入った、という最後の小さな一節です。しかしこの小さな一節は、信じる者が与えられるという意味で大きな一節なのです。議員ディオニシオは、男性であり、裕福な社会的ステイタスを持った人物でした。ダマリスは、女性で、取り立てて裕福でなかったし、社会的な地位を持っていたとも考えられません。しかしこの正反対の者たちが、たったの二人だけれども、イエス・キリストの福音に聞き、復活を信じ、新たな希望に生きることが出来たのは、この箇所にとって、そして今、危機の中を過ごす私たちにとって、大きな希望となります。神はどのような神か。それを知ることによって人間は、真の人間として、被造物として、謙虚に、慎み深く、しかし大いなる希望の中を生きることが出来るのです。神を知りましょう。そして信じましょう。