9月12日の礼拝

  <秋の伝道礼拝・壮年会主催講演会>

  9月12日(日)                     午前10時30分

 説教:「ラザロの復活 ― 主イエスの霊の憤りの意義」

 聖書: ヨハネ福音書11章1節~44節
          
 証し:「この小さい器をも」                 午後1時00分
    
 講演:「荒野に水は流れる」 ― この生きにくい世の中で ―  午後1時30分

 講師:阿久戸光晴(あくど・みつはる)氏 (聖学院大学学長・日本基督教団滝野川教会協力牧師)


 ※秋の特別伝道礼拝です。多くの方々のご参加をお待ちしています。

使徒言行録7章1節-53節

使徒言行録7章1節-53節 『ステファノの説教』 2010年9月5日

 使徒言行録にはたくさんの説教があります。その中でも最も大きなスケールで相当な分量で書かれているのがこのステファノの説教です。今日の箇所を簡単に整理して見ますと、2節から8節まではアブラハムの事について話されています。9節から16節まではヨセフ物語。そして17節から43節はモーセと律法について。44節から50節までは幕屋と神殿。51節から53節は聴衆に対する言葉。これがまとめの言葉ということになっているわけです。この区分から分かるように、量の多さから言って最も力点が置かれているのが、モーセについてです。ここが今日の焦点になっていきます。私たちは、ステファノの躍動する肉声を聴く思いをもって、この御言葉に聞きたいと思うのです。

 1節に「大祭司が訴えの通りかと尋ねた」とありますが、では何が訴えの通りなのかということですが、先週の箇所でが6章11節でステファノを告訴するユダヤ人たちはこのように言っていました。「私たちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」。この告発の言葉に答えるためにも、彼はモーセについて積極的に言及したのでしょう。

 19節にはこうあります。「この王は、私たちの同胞を欺き、先祖を虐待して乳飲み子を捨てさせ、生かしておかないようにしました。この時にモーセが生まれたのです」。21節「その後、捨てられたのをファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てたのです」。つまりモーセはその出生から幼年期に掛けて、既にモーセ自身の特徴、つまり彼は「捨てられ」そして「拾い上げられた」が含まれているということです。この線に立ってステファノはモーセを語ります。

 23節以下、26節以下、そして34節以下でモーセは、捨てられる者として書かれています。けれども彼は「誰が指導者、裁判官にしたのか」と言われた彼が、神に任命されているのです。モーセははじめの頃から同胞のユダヤ人たちに拒絶されていた、という事を、ステファノは様々な聖書箇所を例証して語っているのです。あなた方が律法を受けとったあのモーセにさえも、あなた方が大切にしているあのモーセをも、あなた方自身が拒絶したではないか。そのことにちゃんと目を向けなさいと、ステファノは言います。27節で『誰がお前を指導者や裁判官にしたのか』といっているのが単数の「男」であると書かれています。。しかし35節では「人々が」と複数になっているのです。つまりここではモーセを拒否するのが単数から複数になっている。ここにステファノの、また著者ルカの巧みな語りかけがあります。拒絶するのが個人から民のレベルに広がっている、ということです。それは一人ひとりの罪が増大し、イスラエル全体の神への拒絶になっているのだ、ということなのです。

 イスラエルの民たちがエジプト脱出を果たした後「命の言葉」(律法)を受けます。しかし39節「けれども先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトを懐かしく思い、アロンに言いました。『私たちの先に立って導いてくれる神々を造って下さい。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で作ったものをまつって楽しんでいました。そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました」

 その後ステファノの説教は、幕屋と神殿の事について説明します。その結論が48節にあります。「けれども、いと高き方は、人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っている通りです」。つまりイスラエル人たちが大切にしているその神殿は、神が元々住まわれるような場所ではなく、人間の手によって作られた人工物に過ぎないのだ、とステファノは言います。それはイスラエル人の信仰に対しての否でありました。あなた方の守ってきたもの、すなわち神殿の絶対化、そしてそこにしがみつく宗教システム。それは残念ながら意味を成さないものであるのだ。このようにいうのです。これを裏付ける言葉として49節以下の、イザヤ書66章1節~2節の言葉が引用されております。「お前たちは私に、どんな家を建ててくれるというのか。私の憩う場所はどこにあるのか。これらは全て、私の手が造ったものではないか」。この言葉を引用し、裏づけにするのです。

 そしてステファノの説教は最終的な段階に入ります。それは彼がこの長い説教の中で最も言おうとしたものです。それが51節以下です。「かたくなで、心を耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったいあなた方の先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなた方が、その方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」。これがステファノの最終的な宣言であり、警告でした。

 それを聞いた人々はどうしたかと言いますと、54節「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向って歯ぎしりした」とあります。この「怒り」を石に込めて襲い掛かった、というのです。この後ステファノは殉教の死を遂げていくことになります。このように真の御言葉を語った者が殉教の死を遂げていく。

 今日の言葉は大変に厳い言葉であります。これまでペトロの説教を見てきましたけれども、ステファノのそれはペトロの語るような優しさではなく、辛辣に、激しく語るのです。しかし彼は前の箇所でも言われておりますように、彼は「信仰と聖霊に満ちている人であった」と言われている言葉からはこの辛辣さは想像できません。その彼がなぜこのように辛辣にそして激しく語り得たのか、ということが疑問に残るわけでありますが、しかしそれは、彼でなければ語りえなかった、と言う方がただしいかもしれません。つまりステファノはヘレニスト、ギリシャ語を話すユダヤ人であったのです。神殿宗教の体質を、大祭司たちに操られて形骸化したこの体質を温存したままで主イエスを受け入れたとしても、キリストの福音とは相容れぬものであると見
たのでしょう。それはヘブライ人であったペトロには出来ないことでした。そしてこのような事を語ると、迫害され死に至ることを彼は十分に承知していました。しかし主は真の御言葉としてこれを語らしめたのであります。それはアブラハムがハランから出発したときとの信仰的決断と同じように、また、モーセが主の真実な御言葉に応答するために、口下手を自認していた自分自身を奮い立たせた決断をしたようなに、一見無謀にも見えるステファノの決断は、信仰から生まれたものであったのです。そして彼はこれを語ることによって殉教することにはなりますが、しかしこの後福音を世に広めていく大きな力となっていくのであります。神は、このように言葉を用いて、優しい言葉、辛辣な言葉、真そして人を用いて、神の業を実現させるのであります。

 とにかくこのステファノの説教を聞くとき、大変に重苦しく論争的で、敵対感溢れた論調であるように感じます。先ほども言いましたけれども、ペテロの説教を思い起こして頂きますと、例えば2章38節では「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を許して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。3章19節「だから自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち返りなさい」。このように悔い改めが語られているのです。しかし今日の箇所では、ステファノの説教においてそれは見られません。最後まで論争的であり、敵対的であるこの説教から、私たちは何を御言葉として聞けば良いのでしょうか。

 まず私たちが考えねばならないことは、今日の箇所全体を通して語られていることが、神の救済の歴史である、ということです。アブラハムから始まり、ヨセフ、モーセ、と繋がっていくこの説教ですが、聖書に語られた救済の歴史をステファノは語っているのです。

 しかし私たちはこの救済の歴史に対してどうやって応答してきたであろうか。それは拒絶という形をもって応答であったのです。私たちは心かたくなに、いつも聖霊に逆らっていることを今日の箇所から汲み取ることができるのです。人類は、モーセに対して拒絶したように、イエス・キリストに対しても拒絶してきたのです。

 今日の箇所を私たちは、一見すると客観的に読みがちであろうと思います。ユダヤ人とステファノの対話。論争的な言葉。そして最終的には殉教の死を遂げていく。そのような客観的な読み方をしてしまいがちではないかと思います。けれどももしそのように第三者としてこれに聞くならば、そこにあるのは「頑なで、聖霊に逆らう私たちの姿」ではないでしょうか。

 つまり、もし私たちがこれをユダヤ人の出来事として自分から切り離して聖書から聞くならば、それはステファノの言葉に耳を貸さない者と同様であるということです。ここに出てくるのは、ユダヤ人であるとか、ギリシャ人であるというような、どの人種に対して何を拒絶したのかではなく、私たちが主の言葉を拒絶したということ、その罪の中に私たちは入れられるのです。今日のステファノの説教の言葉を聞き、あなたも同じですよねという彼の言葉を聞きます。その彼の問い掛けに対し、「いいえ私たちはそうではありません」と答えるならば、これを聞いて「歯ぎしりして激しく怒る」イスラエル人と同じ拒絶をしているも同然です。

 しかしひとたびこの言葉を聞いて、アーメン、その通りです。それこそ私の姿、私の罪です、と告白するならば、そこには「悔い改めなさい」というペテロのあの優しく語りかける言葉が含まれてくるのです。この言葉は私たちを辛辣に罵倒するのではなく、また苦しめるために語られたのではなく、私たちを救いに導く悔い改めのために与えられた言葉となるということです。ステファノの言葉は裁きの言葉です。けれども良く考えてみて下さい。裁きとは一体何か。裁きは神の怒りであるでしょうか。確かにそのような一面もあるかもしれません。けれども、その怒りは、私たちを神の方に向けるための怒りでもあります。私たちを真の道に歩ませるための裁きです。私たちに祝福を与えよう与えようと何度も何度もあの預言者たちを送ったように、そして最終的にはイエス・キリストを私たちに送って下さったような恵みの裁きであるのです。つまりステファノの説教に隠されているのは、私たちに悔い改めよという真の救いの御言葉である、ということです。ここにある豊かさに私たちは気付き、ここにある恵みに気付くとき、私たちの心はかたくなではなく、主に対し、開き、そして心に洗礼を、心に割礼を受ける者として主に向って真の福音に従って歩む者となるのです。   

8月30日~9月4日の集会

 聖書の学びと祈りの会 9月1日(水)19時30分
     〃      9月2日(木)10時00分

 生と死の学び     9月2日(木)12時30分         
 

9月5日の説教

 説教題:「ステファノの説教」

 聖 書:詩編72編5節~7節
    :使徒言行録7章1節~53節

 説教者:三輪地塩 牧師


 

主日礼拝説教使徒言行録6章8節-15節

主日礼拝説教使徒言行録6章8節-15節  『その顔は天使の顔のように見えた』  2010年8月29日

 先週私たちは、初代教会の人たちの中で起こった、問題についてみてまいりました。それはギリシャ語を話すユダヤ人、いわゆるヘレニストと、ヘブライ語を話すユダヤ人、いわゆるヘブライ人との間に起こった問題でした。社会的弱者としてのやもめへの配慮が欠けているという事で苦情が出たため、初代教会は「霊と知恵に満ちた人物」を7名選び、それに按手をして教会の働きに就けた、という内容でありました。
 この時選ばれた7人は、ヘレニストとヘブライ人の代表者をそれぞれ選んだというのではなく全員がヘレニストでありました。つまり教会という場所とその教えは、社会的弱者、弱い人、苦しむ人に対して、神の愛と施しを行なうために建てられ、存在している場所だということなのです。私たちの教会は、強い者に迎合し、強い者に味方して生きることではなく、弱く苦しんでいる者たちのために、神の言葉を語り、具体的な奉仕をするように促されているのであります。その事を前回の箇所から聞くことができました。

 しかし今日の箇所では、そのヘレニストたちが問題になっています。ステファノは、選ばれた7人の「霊と知恵に満ちた人たち」の一人でしたから、その言葉においても、信仰においても、人を惹き付け、説得力を持っていたのでしょう。8節には「ステファノは恵みと力に満ち、素晴らしい不思議な業としるしを民衆の間で行なっていた」と書かれております。彼の働きは民衆の心を打ち、また弱る者たちを強め、困る者たちを助ける善き働いをしていた、ということであります。

 しかしそのステファノと真っ向から対立する人々が現われました。「キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々」であります。彼らはが「立ち上がり、ステファノと議論した」とあります。この「解放された奴隷の会堂に属する人々」というのには、云われがあります。古代ローマ帝国時代、紀元前63年にポンペイウスがエルサレムを攻め滅ぼしたことがありました。そのときユダヤ人の捕虜をローマに連れ帰り、奴隷としたのですが、その後間もなく彼らは解放されました。その自由の身となった人たちが、エルサレムに戻ってきて自分たちのシナゴーグ、すなわち「ユダヤ人の会堂」をつくりました。それがここに出てくる「解放された奴隷の会堂」というわけです。また、そこに集まった人々の中には、「キレネとアレクサンドリアの出身者と、キリキア州とアジア州の出身者がいた」と書かれていることから想像しますと、この会堂に属する人たちは「ヘレニスト」であったことが分かります。ヘレニストということは、あの初代教会の中で弱者の立場にあった、やもめたちの立場、ということです。つまり前の箇所では「弱者」として登場したヘレニストが、今度は「強者」「敵対者」として登場してくるわけです。

 そしてこのステファノも同じくヘレニストでありましたから、同じギリシャ語を語る仲間に対して、キリストを伝えるという使命感に燃えていたのでしょう。その情熱を持って多くの議論が交わされたと言います。しかし結果は「知恵と霊によって語った」ステファノに、ヘレニストたちは完全に歯が立たず、太刀打ちできませんでした。主イエスこそ、キリストであるという事を理路整然と語ったことにより、ヘレニストたちは全く反論できなかったということでありましょう。

 しかしこのステファノの言葉は、単なる理論や理詰めの論争、ということではなく、「知恵と霊に満ちた」という言葉から分かりますように、彼の言葉には真実があり、誠実があり、神の義と、神の愛に満ちて

8月23日~28日の集会

 ◇日曜学校誌担当者の引継ぎに関する協議会 8月23日~24日(月・火) 於:池田教会(大阪)

 ◇聖書の学びと祈りの会          8月25日(水)19時30分 奨励:岡野庸子
                             聖書:マルコ福音書8章11節~21節

 ◇聖書の学びと祈りの会          8月26日(木)10時00分 奨励:三輪地塩 
                             聖書:創世記16章

 ◇永井恵実子・高橋耕一 結婚式      8月28日(土)11時30分  於:越谷