4月18日の礼拝

10:30~ 伝道礼拝

説教「もし神がわたしたちの味方であるならば」

ローマ 8:31-39  中家 誠牧師

9:00~ 日曜学校

説教「マルタとマリア」

ルカ福音書 10:38-42  済陽高志


祈りつつ、友人・知人・身内の方々をお誘いください。
どなたもご自由にお越しください。お待ちしております。

中家牧師の浦和教会での務めはこれで終りとなります。
(礼拝後、送別会)


【連絡先】

〒330-0062 埼玉県さいたま市浦和区仲町4-8-2

TEL 048-861-9881

FAX 048-861-9966

【交 通】

JR京浜東北線、宇都宮線、高崎線・浦和駅西口下車

JR埼京線・中浦和駅下車 徒歩15分

死ぬべきものが、死なないものを着る

2010.4.4  Ⅰコリント15:42-58  牧師 中家 誠

 今日は、待ち望まれていたイースター(キリスト復活)の日である。キリスト教は、このキリスト復活から始っている。キリストの十字架の死は、罪の贖いのかけがえのない保証なのであるが、それは「キリストの復活」によって保証される。キリストの復活はまた、わたしたちの復活の保証でもある。

 ところで「復活」とは、人が死ねば、自然に新しい命に生き返るといった「自然の変容」ではない。それは神の救いのみわざそのものなのである。「一瞬のうちに変えられる」(15:52)という表現も、全能の神の力強さと、その恵みであることを物語っている。

 更に「朽ちるべきものが、朽ちないものを着、死ぬべきものが、死なないものを着る」というとき、それは身体にまとう「着物」になぞらえられている。即ち、それは憐れみ深い神の「恩寵の衣」を着せていただくことに他ならない。

 神は、御子イエス・キリストの贖いにより、わたしたち背く者をも赦し受入れ、神の子としてくださる。その最終的な賜物が復活の身体であり、永遠の命なのである。それは高価な(キリストのいのちの代償を払っての)贈り物なのである。わたしたちは深い感謝と信頼の心をもって、これを受取る者である。

4月5日~10日の集会

◎祈祷題「退任される中家牧師のために」  

○聖書の学びと祈り 7日(水) 午後7:30

 マルコ福音書 7:24-37 司会 角野託司

○聖書の学びと祈り 8日(木) 午前10:00

 ローマ 15:22-33 司会 石井綾子

○トレイン・キッズ 10日(土) 11:00-13:30

4月11日の礼拝

10:30~ 主日礼拝

説教「三位一体の神のとりなし」

ローマ 8:26-30  中家 誠牧師

9:00~ 日曜学校

説教「よいサマリア人」

ルカ福音書 10:25-37  薄田東正


祈りつつ、友人・知人・身内の方々をお誘いください。
どなたもご自由にお越しください。お待ちしております。


【連絡先】

〒330-0062 埼玉県さいたま市浦和区仲町4-8-2

TEL 048-861-9881

FAX 048-861-9966

【交 通】

JR京浜東北線、宇都宮線、高崎線・浦和駅西口下車

JR埼京線・中浦和駅下車 徒歩15分

4月4日の礼拝

10:30~ 主日礼拝 <イースター>

説教「死ぬべきものが 死なないものを切る」

Ⅰコリント 15:42-58  中家 誠牧師

14:00~ 墓前礼拝

浦和教会墓地(青葉園)にて

*中家牧師は4月18日をもって引退されます。

祈りつつ、友人・知人・身内の方々をお誘いください。
どなたもご自由にお越しください。お待ちしております。


【連絡先】

〒330-0062 埼玉県さいたま市浦和区仲町4-8-2

TEL 048-861-9881

FAX 048-861-9966

【交 通】

JR京浜東北線、宇都宮線、高崎線・浦和駅西口下車

JR埼京線・中浦和駅下車 徒歩15分

主、弟子の足を洗いたもう

2010.3.14  ヨハネ福音書 13:1-15  牧師 中家 誠

 主イエスが十字架に赴かれる時のことを、聖書は、「この世から父のもとへ移る、御自分の時が来たことを悟り」と記している。十字架の道は、「父のもとへ帰る道」であり、「神の御旨の中にある時」なのである。

 その時、主は弟子たちの足を洗いたもう。それは御自分の身を低めての行為であり、僕(奴隷)となってなしてくださる事なのである。キリストの十字架の死は、人間の罪を負って死ぬ「神の小羊」としてのみ業(わざ)なのである。「主は極みまで愛し抜かれて」とも記されている。

 わたしたちは皆、この師であり、また神の御子であるお方によって、足を洗っていただく者たちなのである。

 人類の歴史は、始祖アダムの時以来、神に背き続けてきた歴史である。わたしたち一人ひとりも、その罪の責任を負っている。従って、この罪の赦しなしには、誰も正しく神の前に生きることができない。

 主は今日もなお、わたしたちのほこりにまみれた足を洗い続けておられる。この御愛によってのみ、わたしたちは、正しく生き得る者であることを、深く覚えたいと思う。