2018.07.08~14 今週の集会

       今 週 の 集 会
 
祈祷題「主日礼拝の充実のため」7/26日~9/13まで祈祷会休
タビタの会委員会(横浜海岸教会)  9()10()
聖書の学びと祈りの会       12日()10:00         

  列王記下24章(担当 三輪地塩)   司会  松 本 京 子

大会事務所・神学校建物委員会(大会常置委員会陪席) 14:30
大会歴史編纂委員(大会常置委員陪席)(横浜海岸)  15:00
聖書の学びと祈りの会       12日()14:00
  使徒言行録131節~12節        担当 安

2018.07.08 礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30
 
  奏楽 
 
招 詞  ヨエル書31
*讃 詠   545A
*罪の告白と赦し 交読詩編1021619
*讃美歌  29
 
<神の言葉>
聖 書 マラキ書319節~24  (旧約P.1501
マルコによる福音書92節~13
                        新約P. 78                         
祈 り             増 田 裕 子                                                                                                                                  
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*讃美歌 286
   「モーセ・エリヤ・キリストの栄光」 
 三 輪 地塩
                 
                                                       
<神への応答>
*讃美歌 392
*ニカイア信条
 公 告 
*献金感謝           
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  544
*派遣と祝福
後 奏 

2018.02.04の説教から

           <24日の説教から>
      神の御心を行なう人こそ
            マルコによる福音書320節~35
                               牧師 三輪地塩
 
 「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」とある。「身内の人」とはイエスの母と兄弟たちである。イエスは神の言葉を伝えていたが、身内の者たちには、それが恥かしく思えたのだ。イエスは「大工」であり、ユダヤ教の神学的エリート教育を受けたわけではない。ただ「神のひとり子」という以外には。この「大工イエス」が、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で聖書の話をしているのは、母の目には「気が触れてしまった」と映ったのである。イエスの母や兄弟たちは、イエスがあらぬ批判を受けさせないためだったかもしれない。もしそうなら、イエスへの愛のゆえに(会堂での話を)やめさせようとした、ということになる。
 だが、それは本当に「愛」と言えるのか。もしかすると、親自身のメンツを保つための「偽の愛」「愛に似たもの」でしか無かったのではなかろうか。
 「愛」か「親のメンツか」という問題は、非常に境目の見極めが難しい。「この子のためにやっている」と語る親は多いが、実は「その子」は口実であり、子が親の自己実現の道具にされることも少なくないように思う。そうなると子は親の「所有物」でしかなくなってしまう。
 或いは、その親の愛が「本当の愛」だったとしても、親族・血縁関係というものは、愛が深いがゆえに、諸刃の剣となってしまう。本来必要なことは何か、その思いを曇らせることに繋がってしまいます。
 今日の主イエスの態度を見て、ある「愛情深い人たち」は、イエスの冷たい(ように感じる)言葉に憤慨するが、なぜ母たちがイエスの行っていることを妨げようとしているのかを見なければならない。この場面でイエスの母たちは、自分たちの意思の実現を要求しているのである。恥ずかしいという思いや、みっともないという感情によって、彼女たちはイエスの言葉を(神の言葉を)遮ろうとしているのである。主にある兄弟姉妹、とは、神の言葉によって成り立つ兄弟姉妹のことである。

2018.07.01~07 今週の集会

  今 週 の 集 会
 
◎祈祷題 「ミッションスクールのため
大戸集会(今枝さんを有志で訪問)   4日()14:00
聖書の学びと祈りの会        5日()10:00         

  列王記下23章(担当 三輪地塩)   司会  増 田 裕 子

「生と死」の学び(『泉への招待』P.137~P.146) 同上後
                   担当  松 本 京 子
聖書の学びと祈りの会        5日()14:00
  ヤコブ書119節~27節        担当 大月 美智子

2018.01.28  説教

             <128日の説教から>
               『国が内輪で争うとき』
            マルコによる福音書320節~30
                               牧師 三輪地塩
 
 福音書の中で、不明瞭で分かりにくい言葉の一つとして、次の一節が挙げられる。「よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も赦される。しかし聖霊をけがす者は、いつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」
何故、神をけがしても赦されるのに、聖霊をけがす事は赦されないのか。大変難しい一節と言える。「神をけがす」というのは、「人間の弱さが神を疑うこと」と言い換えてもよい。苦しみの中にあって人は神を疑い、嘆く。「なぜ神はこんな苦しみを与えるのか」と。だが、そのような神への疑いは「赦される」とイエスは言う。
『ヨブ記』の主人公ヨブは、神に忠実に従う信仰者であったが、突然思いもよらない災難に見舞われる。「何故神はこのような仕打ちをするのか」と彼は悩むがヨブの信仰は揺るがなかった。更に苦しみが彼を襲った。彼は次第に神の正しさを疑うようになっていく。「神は人間をもてあそんでいる」と、次第に彼の信仰は懐疑的になっていくのであった。だが神は、最後的にはご自身を現し、大きな祝福を与えた。ヨブの疑う心は戒められるが、永遠の罪に定められる事はなく、神に赦されて生きることを得たのだった。これが「神をけがす」者の赦しである。
これに対し「聖霊をけがす」というのは、「自分の弱さや、信仰の迷い」から神をけがすのではなく、「確信犯的に、つまり自分は神をけがしていると自覚しつつ神に逆らうことを示している。言い換えるならば、「神と真っ向から対立し、神に対して宣戦布告をするような、決定的な背反のこと」である。イエスは言う。「聖霊をけがす者は、いつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」。聖霊は神の力の表れであります。神の働きが現実に私たちの中に与えられる力である。だがその力を、「悪霊である」と断罪する事は、到底赦される事ではない。それはイエスがファリサイ派の者たちから言われた批判でもあった。この世は神の力をけがしていないか。いつも我々に問われることである。神に敵対せず歩みたい。

2018.06.24~30 今週の集会

      今 週 の 集 会
 
祈祷題 「神学生のため・夏期伝道を覚えて
聖書の学びと祈りの会       28日()10:00         

  列王記下22章(担当 三輪地塩)  司会  鈴 木 惠 子

聖書の学びと祈りの会       28日()14:00
  使徒言行録12章         担当 安