2018.01.28  説教

             <128日の説教から>
               『国が内輪で争うとき』
            マルコによる福音書320節~30
                               牧師 三輪地塩
 
 福音書の中で、不明瞭で分かりにくい言葉の一つとして、次の一節が挙げられる。「よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も赦される。しかし聖霊をけがす者は、いつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」
何故、神をけがしても赦されるのに、聖霊をけがす事は赦されないのか。大変難しい一節と言える。「神をけがす」というのは、「人間の弱さが神を疑うこと」と言い換えてもよい。苦しみの中にあって人は神を疑い、嘆く。「なぜ神はこんな苦しみを与えるのか」と。だが、そのような神への疑いは「赦される」とイエスは言う。
『ヨブ記』の主人公ヨブは、神に忠実に従う信仰者であったが、突然思いもよらない災難に見舞われる。「何故神はこのような仕打ちをするのか」と彼は悩むがヨブの信仰は揺るがなかった。更に苦しみが彼を襲った。彼は次第に神の正しさを疑うようになっていく。「神は人間をもてあそんでいる」と、次第に彼の信仰は懐疑的になっていくのであった。だが神は、最後的にはご自身を現し、大きな祝福を与えた。ヨブの疑う心は戒められるが、永遠の罪に定められる事はなく、神に赦されて生きることを得たのだった。これが「神をけがす」者の赦しである。
これに対し「聖霊をけがす」というのは、「自分の弱さや、信仰の迷い」から神をけがすのではなく、「確信犯的に、つまり自分は神をけがしていると自覚しつつ神に逆らうことを示している。言い換えるならば、「神と真っ向から対立し、神に対して宣戦布告をするような、決定的な背反のこと」である。イエスは言う。「聖霊をけがす者は、いつまでも赦されず、永遠の罪に定められる」。聖霊は神の力の表れであります。神の働きが現実に私たちの中に与えられる力である。だがその力を、「悪霊である」と断罪する事は、到底赦される事ではない。それはイエスがファリサイ派の者たちから言われた批判でもあった。この世は神の力をけがしていないか。いつも我々に問われることである。神に敵対せず歩みたい。