2018.03.11~17今週の集会

 
 
今 週 の 集 会

 

祈祷題
「第67回定期中会のため(浦和教会で開催)
                 320()21()

聖書の学びと祈りの会  15日()10:00         

 列王記下8章 (担当 三輪地塩) 
               司会 鈴木 美津子               

聖書の学びと祈りの会  15日()14:00

  詩編90       担当  大 和 文 彦

2018.3.11礼拝予定

  
     主 日 礼 拝  午前 10:30

 

            <こどもとおとなの合同礼拝・レントⅣ>

 

           奏楽 

 

招 詞   ゼカリヤ書99

*讃 詠   (21)83

*罪の告白と赦し 交読詩編7113

*讃美歌  (21)12[1-3]

 

<神の言葉>

 

聖 書   レビ記111節~8節 旧約P.177                

マルコによる福音書51節~20

新約P.69

祈 り              安 井 国 雄                                                                                                                                                                                                                                                          

*讃美歌  (21)303

 教 「ブタさんが崖から落ちるなんてかわいそう     三 輪 地 塩

                                                       

<神への応答>

 

*讃美歌 (21)402

*使徒信条

 公 告 

*献金感謝         

*主の祈り (座席前そなえつけ)  

*頌 栄  (21)46

*派遣と祝福

後 奏 
 

2017.09.24の説教から

           <924日の説教から>
                   『イエスの洗礼』
            マルコによる福音書19節~11
                                     牧師 三輪地塩
 
 イエスが洗礼を受けた時「天が裂けて」と書かれている、この言葉に注目したい。原文では「裂ける」という言葉が受動態で使われているため、神が自らの手で天を裂いた事になる。つまり、イエスの洗礼とは、神自らがこの世に介入された事を示している。
当時のユダヤ地方は「イスラエル国ではなく、ローマ帝国属州ユダヤ自治区という小さな存在であった。旧約時代に活躍した預言者は現われず、神とユダヤの人たちとの関わりが希薄であった時を歩んでいた。いわば「神の言葉の欠如」「聖霊の働きの欠如」であり、当時のユダヤ人たちは、神との関わりがない空虚な時を過ごしていたと言える。だが今や、イエス・キリストを通して、神ご自身が自らの意思を現わされる時が来た。神自らの「御手」により「天が裂けて」、この世への介入がなされたのである。
この時「聖霊が鳩のようにイエスに下った」と聖書は証言する。「聖霊が何々のよう」にという表現は、聖書の中に数多く出てくる。使徒言行録2章では「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と、ペンテコステの出来事を表現する。
 
 ここでは聖霊を「鳩のように」と、目に見えない「聖霊」という存在を「鳩」と表現している。何故「鳩」なのか。それは旧約聖書の中で、鳩が「正直さ」や「柔和さ」を表しているからであろう。神の介入、つまり「天が裂け」「聖霊が下る」ことが、「正直で柔和な」「肉となった神」つまり「キリスト」が介入された、という意味であろう。

神は我々に対し、剣と槍をもって、武力をもって、力をもって介入されたのではなく、慈しみと憐れみとをもって介入された。「鳩」とは、その象徴である。「武器を捨てた愛」は十字架の上で明らかとなる。この時はまだ明かされていないが、神の一人子、神の使者、人間の全ての罪を贖うイエス・キリストという方が、十字架の上で死にゆくことこそ、「神による世への介入」である。その十字架は、「柔和」であり「謙遜」であり「卑賤」であった。

2018.03.04~10 今週の集会

 
  
   今 週 の 集 会


 

祈祷題「日本キリスト教会の教師のため」

聖書の学びと祈りの会  ()10:00         

  列王記下7章 (担当 三輪地塩)   
                    司会 鈴 木 惠 子               

聖書の学びと祈りの会  ()14:00

  使徒言行録1034節~48節   
              担当 安 井 国 雄
 

2018.03.04礼拝予定

 
         主 日 礼 拝  午前 10:30
              <聖餐式・レントⅢ>
                奏楽 
 
招 詞  ゼカリヤ書99
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編7015
*讃美歌  (21)11

<神の言葉>
聖 書  詩編896節~15節 旧約P.926                
マルコによる福音書435節~41
新約P.68
祈 り                                                                                                                                                                                            
*讃美歌 (21)300
 教 「風を叱る                 三 輪 地 塩 
<神への応答>

*讃美歌 (21)299
*日本キリスト教会信仰の告白
 聖餐式  (21)79
 公 告 
*献金感謝 303          クワイア
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏 

2017.09.17の説教から

  
      <917日の説教から>
                   『福音の初め』
             マルコによる福音書11節~8
                                    牧師 三輪地塩
 ヨハネは荒れ野に現われた。これから福音が伝えられるのは、綺麗な花が咲き誇る場所にではなく、荒れ野にであった。荒れ野は、石灰石に埋め尽くされた、不毛な場所、生命の育たない場所、という意味を持って語られる。
しかしながら、イスラエル救済史は、我々に荒れ野で起こった祝福の出来事について想起させる。荒れ野で神は十戒を授け、民と契約を結び、40年間約束の地へと民を導かれた。だが民は、ひと時も神から目を背けずに、神に聞き従ったわけではなく、「のどが渇いて死にそうだ」「肉なべを食べさせろ」「これなら奴隷のままの方がよかった」などと文句を言い続けた。一日に必要な分しか取ってはいけない、と言われたマナを、必要以上に集めて自分の物にし、神の怒りをかった。刻んだ像を作ってはならないと言う十戒を、授かったそばから違反して、偶像を鋳造したのであった。人間がこれだけ神の意に反しているにもかかわらず、神はその憐れみ深さによって、民を捨て置かず、見放さず、導いた。それが私たち人間に象徴される「荒れ野」の意味である。「荒れ野」は、聖書の読者にとって、単なる荒廃した場所ではなく、神の憐れみが現される場所と理解されるのだ。
現代日本は、多くの「荒れ野」で埋め尽くされている、と言える。しかしだからこそ「神の言葉が与えらえる、豊かな宣教の場である」とも言い得る。興廃したこの世、この国、その政治・経済、、。我々はそのことを嘆くのではなく、神の憐れみが現される場所がここにあるのだ、と、考えたいものである。
ヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜を食べていた」という不思議な描写は、預言者エリヤをイメージしている。我々自身が洗礼者ヨハネやエリヤのような預言者になることは出来ないが、彼らのような「預言者的視野」を持ち、世の中を厳しく問いつつ、世を愛し、世の不正を追及する事もまた、我々キリスト者に与えられた重要な使命であるだろう。