2018.01.21 礼拝予定

 

主 日 礼 拝  午前 10:30 
  奏楽 岩

招 詞  詩編119105

*讃 詠   (21)83

*罪の告白と赦し 交読詩編381623

*讃美歌  (21)6


<神の言葉>


聖 書 民数記2718節~23 (旧約P.262

マルコによる福音書3章7節~19                

              (新約 P65

祈 り            河 野 武 郎                                                                                                                                                                         

*讃美歌 (21)462

 教 「12人の使徒を選び出す」

  三 輪 地 塩 

                                                       
<神への応答>

 

*讃美歌 (21)405

*使徒信条

 公 告  

*献金感謝

*主の祈り (座席前そなえつけ)  

*頌 栄  (21)46

*派遣と祝福

後 奏 

2017.08.27の説教から

                      <827日の説教から>


               『平和の神はあなたがたと共にいる』


             フィリピの信徒への手紙48節~9


                                    牧師 三輪地塩


 8節の「真実」「気高さ」「正しさ」「清さ」「名誉」などはギリシャ哲学「ストア派」に由来する言葉である。パウロは当時、「世界が高く評価している思想・哲学を、正当に評価するように」と考えていたようである。言い換えるならば、キリスト教会を「隔離されたセクト的な集団」として歩ませようとはしていなかった。我々は「キリスト者」なのだから、それ以外の考えを排除し、切り捨てようとは考えていなかった。むしろ違った考えを受け入れ、周囲の世界や言葉に目を向け、世で認められている価値観や大切にされている感覚を、正当に評価し、受け止めよ、とパウロは言っているようでさえある。


 これは、異教の真ん中に建っているフィリピ教会ゆえに抱える問題であるが、我々日本の教会もこれに類似している。我々が宣教する相手は、日本社会と日本文化に生きる人たちなのである。当然ながら、他宗教や文化に「おもねること」や「迎合する」必要はない。この土地を愛し、この土地に住む人々を愛する、という事が大事である。言い換えるならば、「他者理解」を如何にして行うか、である。


 まことに「他者」とはややこしい相手だ。自分と異なるのが「他者」であるならば、そこに確執や敵対が生まれる可能性もある。それが「他者」である。だが「三位一体なる神」とは、神ご自身の中に、他者性が内在された神であるという事を意味する。唯一の神、は絶対の神、でありつつ、多様性をご自身の内部に存在させる神なのである。


神が創造された世を愛する、とは、自分の愛したい世界を愛するだけではなく、自分とは異なる考えも愛する事を意味する。それは、キリストが、仲間の為だけでなく、敵の為にも十字架に掛かられた事からも明らかとなる。
       
 
 

2018.01.14~20今週の集会



今 週 の 集 会
 
祈祷題 「浦和教会各団体の活動のため」
大会歴史編纂委員会(神学校) 
                 16() 11:0016:00 
聖書の学びと祈りの会    18() 10:00
 列王記1章(担当 三輪地塩)
              司会 安 井 英 子
聖書の学びと祈りの会    18() 14:00
 ガラテヤ書211節~       
              担当 大 和 文 彦


午前の祈祷会後、総会議事資料綴じと配布作業を致します。

2018.01.14礼拝予定

主 日 礼 拝  午前 10:30
 
奏楽 板
 
招 詞  詩編119105
*讃 詠   (21)83
*罪の告白と赦し 交読詩編32611
*讃美歌  (21)9(1-3)
 
<神の言葉>
 
聖 書  ホセア書64節~6(旧約P.1409
マルコによる福音書31節~6                
                 新約 P.65

祈 り               伊木 美穂子                                                                                                                                                                                                                                                     

*讃美歌 (21)419

 教 らのかたくなな心を悲しみながら

三 輪 地 塩 
                                                       
<神への応答>
 

*讃美歌 (21)404

*ニカイア信条
 公 告  
*献金感謝           
*主の祈り (座席前そなえつけ)  
*頌 栄  (21)46
*派遣と祝福
後 奏 
 

2018.07~13 今週の集会


    あけましておめでとうございます。
    本年もよろしくお願いいたします。
今 週 の 集 会

 

祈祷題 「中会日曜学校教師研修会のため」
                (18日)

   「日曜学校教師のため」

日曜学校教師研修会(横浜海岸)
            8(月・休) 10:3015:30

聖書の学びと祈りの会  11() 10:00

  列王記22章 (担当 三輪地塩) 
            司会 森 千 恵

「生と死」の学び(『泉への招待』三浦綾子著)          同上後

            担当 大月 美智子

聖書の学びと祈りの会  11() 14:00

 ガラテヤ書211節~  担当 大 和 文 彦

トレインキッズ(餅作り)
                 13()11:0014:00

 

2017.08.20の説教から

        820日の説教から>
              『あらゆる人知を超える神の平和』
              フィリピの信徒への手紙44-7
                                      牧師 三輪地塩
 
 本書のテーマ「喜びなさい」という言葉が力強く語られている。だがこれが、エボディアとシンティケの仲違いの直後に書かれているのは、一見すると奇妙にも思われる。仲間との関係を拗(こじ)らせた難しい案件が継続中であるにもかかわらず、「喜びなさい」とは如何なることか。6節「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」との言葉が、「無駄な事を考えず、煩悩を捨てて、諦めて生活しなさい」とでも言っているかのようにも聞こえてしまう。
 
 だがそうではない。このパウロの言葉を解く鍵は「エン・キュリオー」「エン・クリストー」にある。「主にあって」「キリストにあって」を意味するこの言葉は「in Christ」という意味のギリシャ語である。我々は「主にあって」「キリストにあって」歩む民だ、という場所を出発点にしなければならならない。
 
 「主にあって生きる」とはどういう意味か。主に「ある」ということは、単に「主と共に居る」とか「主に従って」という意味よりももっと強い意味で語られる。それは文字通りには「主の中に」(英訳聖書だとIn the Lordと訳される)である。「キリストと共に生きる」だけではなく、我々は「キリストの中に存在している」という意味である。つまり、我々が苦しみ、悲しんでいるのは、キリストが「居ないから」ではない。我々の存在それ自体が「キリストの中」にあり、我々の人生が「主の中で」生かされているのである。苦しみにある時我々は「主がおられない」と嘆くのであるが、そうではなく、主は我々と共に、(主の内に)苦しんで下さっているのである。前回の箇所、エボディアとシンティケの仲たがいの時も、彼女たちと共に主は痛んでおられるのである。
 
 北森嘉蔵という神学者は「神の痛みの神学」と主張した。それは、神が我々と共に痛まれる神であり、それが十字架に表われるものとなった、という事である。神は我々と共に痛まれる神であり、我々の苦しみと共に苦しまれる神である。だから「主の内に」「主の中に」存在する我々は、その痛みも苦しみと、共に主と分かち合うことが出来るのである。