2019.05.02 宝塚売布教会 牧師就職式
2019.05.12~18 今週の集会
今 週 の 集 会
◎祈祷題「無牧の教会・伝道所のため」
〇聖書の学びと祈りの会 16日(木)10:00
歴代誌上25章(担当 三輪地塩) 司会 大月 美智子
〇聖書の学びと祈りの会 16日(木)14:00
使徒言行録16章16節~40節 担当 安 井 国 雄
※14日(立教大学)、15日(聖学院大学) 牧師出講日
〇全国青年の集い委員会(大阪姫松)17日(金)~18日(土)
2019.05.12 礼拝予定
主 日 礼 拝 午前 10:30 奏楽 三 輪 志 都 <神の招き> 招 詞 ヨシュア記1章5節 *讃 詠 545B *罪の告白と赦し 交読詩編139編13節~18節 *讃美歌 24 <神の言葉> 聖 書 詩編22編2節~9節 (旧約P. 852) マルコによる福音書15章21節~32節 (新約P.95) 祈 り 増 田 裕 子 *讃美歌 502   <神への応答> *讃美歌 453 *ニカイア信条 公 告 *献金感謝 *主の祈り (座席前そなえつけ) *頌 栄 544 *派遣と祝福 *後 奏 「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は お座りのままでどうぞ。
礼拝当番(今週)三浦、野田、室橋、本橋 (次週)森、済陽、諸見寿、安井
掃除当番(今週)薄田、青木、志賀、越智 藤沢、加藤純 (次週)河野武郎、安井英、大嶋 菊池淑、栗原、島口 ☆礼拝・掃除当番が困難な方は遠慮なくお申出ください。 |
南柏教会牧師就職式に出席
2018.09.16の説教から
<9月16日の説教から>
『キリストの右と左に座りたい』
マルコによる福音書10章32節~45節
牧師 三輪地塩
ヤコブとヨハネはイエスに本音を言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。なんとも厚かましい願いである。彼らはどの弟子たちよりも抜きん出て、もっとも偉くなることを求め願ったのである。
これに対してイエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが授ける洗礼を受けることができるか」と答える。「杯」と「洗礼」とは、恵みの杯と洗礼ではなく「苦しみの杯と洗礼」である。キリストに従うとは、「正」ではなく「負」を背負う部分もあることを伝えた。ヤコブとヨハネは、「はいできます」と軽々しく答えており、「あなた方が何を願っているのか分かっていない」と叱られる。
この時、ヤコブとヨハネが願っていたものは、「神の栄光」であった。神の美しい栄光、神々しい輝き、そして永遠の救い、である。特に彼らは9章2節以下で「イエスの山上の変貌」に立ち合い、栄光に輝くイエスの姿を目撃している。その光を忘れられない彼らは、栄光の左右の座を兄弟で独占しようと願っている。だが、その栄光は、彼らが思うようなものではないとイエスは言う。
栄光の上澄み部分だけをすくい取って、それが神の栄光の全てであるとは、浅はかな「栄光観」「信仰観」であると言わざるを得ない。
例えば、我々は「愛」を願うだろう。愛することを願い、愛されることを願う。世界が愛で満たされてほしいと願う。しかし「愛」の実現は、美しく、綺麗で、楽しく、居心地の良い「だけ」で叶えられない。真実の「愛」が実現されるためには、多くの苦しみと、忍耐があって初めて、その「上澄み」として、いわゆる「愛」と呼ばれる結果が産み出されるのだ。信仰もそれと同じである。神を信じることは、「楽しさ」と「喜び」だけである、と思い込む者は、神に対する躓きも早い。我々は、信仰の「上澄み」の部分だけではなく、十字架の苦しみをキリストと共に背負う時、真のキリストの救いを見出すのである。