2018.09.16の説教から

      <916日の説教から>
                 『キリストの右と左に座りたい』
              マルコによる福音書1032節~45
                           牧師 三輪地塩
 ヤコブとヨハネはイエスに本音を言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。なんとも厚かましい願いである。彼らはどの弟子たちよりも抜きん出て、もっとも偉くなることを求め願ったのである。
 これに対してイエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが授ける洗礼を受けることができるか」と答える。「杯」と「洗礼」とは、恵みの杯と洗礼ではなく「苦しみの杯と洗礼」である。キリストに従うとは、「正」ではなく「負」を背負う部分もあることを伝えた。ヤコブとヨハネは、「はいできます」と軽々しく答えており、「あなた方が何を願っているのか分かっていない」と叱られる。
 この時、ヤコブとヨハネが願っていたものは、「神の栄光」であった。神の美しい栄光、神々しい輝き、そして永遠の救い、である。特に彼らは92節以下で「イエスの山上の変貌」に立ち合い、栄光に輝くイエスの姿を目撃している。その光を忘れられない彼らは、栄光の左右の座を兄弟で独占しようと願っている。だが、その栄光は、彼らが思うようなものではないとイエスは言う。
 栄光の上澄み部分だけをすくい取って、それが神の栄光の全てであるとは、浅はかな「栄光観」「信仰観」であると言わざるを得ない。
 例えば、我々は「愛」を願うだろう。愛することを願い、愛されることを願う。世界が愛で満たされてほしいと願う。しかし「愛」の実現は、美しく、綺麗で、楽しく、居心地の良い「だけ」で叶えられない。真実の「愛」が実現されるためには、多くの苦しみと、忍耐があって初めて、その「上澄み」として、いわゆる「愛」と呼ばれる結果が産み出されるのだ。信仰もそれと同じである。神を信じることは、「楽しさ」と「喜び」だけである、と思い込む者は、神に対する躓きも早い。我々は、信仰の「上澄み」の部分だけではなく、十字架の苦しみをキリストと共に背負う時、真のキリストの救いを見出すのである