6月24日

  2012年6月24日(日)の礼拝

◇日 時:6月24日(日)午前10:30~

◇説 教:「あなたは良い実を結ぶ」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:エレミヤ書17章5節~8節
      マタイによる福音書7章15節~23節

マタイによる福音書7章1節-6節  『目の中の丸太』 2012年6月3日

 マタイによる福音書7章1節-6節 『目の中の丸太』 2012年6月3日


 今日の箇所を初めて読んだとき、最も印象的な言葉はどれでしょうか。読む人によって印象と言うのは様々でありますが、特に「目の中のおが屑、目の中の丸太」という言葉に驚かせられるのではないでしょうか。
 以前この教会にも伝道礼拝でお呼びした事がありますが、宮田光男という先生がおられます。この方の専門は法学と政治学なのですけれども、キリスト教神学の研究者としても知られております。その著作の中に、「キリスト教と笑い」という本がありまして、その中で彼は、このように述べております。「主イエスが涙を流したという事は書かれているけれども、イエスが笑ったという事は書かれていない。しかし聖書の中にもユーモアや笑いが隠されている」。このように言うわけです。そして新約聖書の中にあるイエスのユーモアの一つとして、実は今日の箇所の言葉が示されております。それこそが「目の中の丸太」という言葉であります。その著書の中でこのように説明しております。「目の中の丸太などという、ありえない事柄が譬えとして誇張されて語られ、それを聞いた民衆は、自分の罪に気付かない自らを省み、自己アイロニー的な笑いを浮かべただろう」、と、このように解説しているわけです。
 確かにこの箇所の言葉は、譬えとしてやや誇張された感があります。自分というのは、もっとも自分が見えていない。自分の罪などは全く見えていない。目の中に丸太ん棒のように大きい罪があったとしても、それにすら気付かない。そのような意味をもって主イエスはこの譬えを語っております。ですから聞いた人の中には少なからず笑った人がいたのでしょう。確かにその通りだな、と感じながら、自分の罪深さを皮肉って笑ったのでしょう。しかし内容的には非常にシュールであります。

 ここには「『あなたの目からおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えようか」とありますが、ルカによる福音書では、「『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせて下さい』と、どうして言えるだろうか」とあります。この「さあ」というのは丁寧語でありまして、いかにも親切心や兄弟愛から出ているような、そういう感じが強められている、そのための「さあ」という言葉であります。つまり今日の箇所においても、同じように、親切心を装いながら、実は慇懃無礼なほどに、自分が絶対であるという思いと共にこの言葉が語られるろいう事が伺えます。
 「『あなたの眼の中のおが屑を取らせて下さい』という人は、物腰穏やかに、親切心からそれを言っているように思えるけれども、実はそうではない」と主イエスはいうのです。私たちがこの世の中で最も分からないのは、自分自身であります。一番近くにいても、誰も見る事の出来ないのが自分自身であります。人を裁き、人の欠点にばかり気づき、そこに目をやり、赦す事の出来ない私。それが人間であるのです。

「人を裁くな」という教えは、私たちも度々聞いているところであります。特に教会の中でよく、本当によく聞く言葉であります。しかし度々この事が問題になる。それは教会で度々言われているけれども、この世から一向にそれが無くならない、という事を示すのです。
人を裁く、という事は、そもそも私たちの関心がどこにあるのかを示しているように思います。つまり、「人が何をしているのか」。という事です。人に関心がある。人のやる事に関心を持つ。それだけをとれば、決して悪い事ではないと思います。しかしそれは、人のやる事に、評価を含む、という事に繋がり、そしてその評価の優劣をつける、という事になっていく。つまり人が行う事が、「その人に適っているか」ではなく、「自分に適っているか」という事によって、判断を下すのです。それが人を裁く事であります。結果として人への関心は、自分の考えと異なる点を見つけ、そこを糾弾するという事への関心となっていく。それは主イエスの言われる「人を裁くな」という事なのです。

 では、人が罪を犯していた時はどうなのでしょうか。人が罪を犯しているのを横目でみながら、「人を裁くな」と言われているから何も言うまい、といって、その罪を放置する事はどうなのでしょうか。しかしそれは「無関心」となってしまいます。その行為を指摘する事から逃れている無関心であります。ですからこの違いが大変難しいのではないでしょうか。裁くな、と言われているけれども、何が裁く事であり、何が裁く事でないのか。その判断が難しいのであります。

 ある説教者は、裁くという事に関して次のように言います。
「たとえキリスト者であっても、一人悦に入り、自分こそキリストに従っている唯一の者だと誇っているなら、それは人と自分を分離するだけでなく、キリストと自分を分離しているのです。イエスに従う者は、イエスと結びつきます。それはイエス・キリストを私たちを裁かず、私たちの罪を負って下さったからにほかなりません。それで私たちも、兄弟や隣人に距離を置いて、その観察者となるのではなく、兄弟の罪に対しても、自分の責任を感じ、その兄弟としっかりと結びつくのです。そうでないと、私たちは、イエス・キリストの観察者になり、その結果、隣人をうがって観察し、人の批評の対象とします。」(蓮見和夫『マタイによる福音書127頁』)とあります。

 人への関心を持つ事は素晴らしいことであります。マザーテレサの言うように、愛するとは「関心を持つ事」に他ならないからです。しかし関心が観察になるとき、私たちはそこに責任を持たず、批評家になっていきます。批評は責任を持ちません。愛があっても無くても出来るのです。自分の子どもを叱る時、そこには責任が伴います。その子の成長を願い、良い事悪い事の判断が出来る子になってほしいと望むから叱るのです。しかし叱る自分にも責任が伴います。今叱っている自分が、もし自分の気分や感情によって叱っているなら、無用な叱りになる、そのような事を考えて、自分の行動にハタと気付かされる事もあります。つまりそこには、子どもを観察する親ではなく、子どもに責任を持って関わり愛する親が存在するのです。関心は責任を伴います。責任は愛を伴います。しかし関心から愛が抜け落ちれば、その関心は、単なる「観察」になり、そのとき私たちは「傍観者」となってしまうのです。

 隣人と距離を置き、隣人を観察するとき、その隣人を愛
せよ、と命じられたイエス・キリストを傍観する事になります。キリストを傍観し、あの教えも、あの受難も、そしてあの十字架と流された血をも、私たちの観察対象となっていくのです。その時、私たちは、キリストの救いを傍観します。この救いは私たちには関係ないと。この救いは、人類の罪のためとは言うが、しかしそこには自分の罪はない、と、十字架を観察するのです。もはやそこにいる「私」という存在は、「キリストの第二者」ではなくなり、第三者として、傍観する「私」となるのです。つまり人間とその罪を贖うキリストの繋がりとは、無関係なところに「私」を置く時、それは、「私」の罪を傍観する事になるのです。

 「人を裁くな」という命令は、他者に対する命令でありつつ、しかしそこに立っている自分自身を省みること、もう少し付け加えるならば、そこに立っている自分自身の「罪」を省みる事に他ならないのであります。あなたの罪を見ずして、他者の罪ばかりを見ようとすること。その事を言っているのです。だからこそ、自分の罪を棚に上げて人の罪ばかり見ようとする事に対して、主イエスは、目の中にある、大きな大きな丸太に気付かず、もしくはそれを見ずして、他者の小さな罪を指摘するな。「そのおが屑は、ああであり、こうである。」と述べる事はするな。と、主イエスはおっしゃっているのであります。
 人間の罪と、その罪が贖われるということが、まことに自分の問題であると感じるならば、人の罪ではなく、自分の罪を意識せずにはおれないと思うのです。

 ドイツの神学者カール・バルトが、晩年、刑務所で説教していた時、人にこう言ったそうです。あそこでは「あなた方は罪人です」と言う必要はありません。彼らはその事をよく承知しているからです。あそこで必要なのは、「皆さんに説教している、この私も罪人です」ということなのです、と、このように言ったといいます。(蓮見和夫、前掲書、129頁)
 ここに示されているのは、人間の間にある罪の問題は、神の前ではどれも等しく、罪人である、という事実だけが私たちの実存的な存在として立ち上がっているという事であります。それは、多かれ少なかれ、私たちは罪を犯すし、その違い、その差異に関して、どちらがどうであると罪の度合いを批評し合う事は、そこに神不在の状況を作り出す事になってしまう、という事なのです。私たちは全てが罪人です。しかしあの人の罪は大きい、しかし私の罪は小さい、というやり取りは、そこに神の恵みが立ち上がる事を拒む営みとなるのです。
 すなわち、私たちには、私たち人間という存在には、神の救いが必要なのであると祈り合う事。そして私たちの間には、キリストの罪の贖いが無くては、私たち自身が存在し得ない事を、共に認識し合う事。それなくして、我々人間同士の、本来的な交わりと、関係性は、築きえないと思うのです。

 人を裁く事は、裁き合う事の中には、イエス・キリストの十字架は立ちません。相手を愛し、その罪の中に共に生き、その罪が私の罪と共に贖われている事を、その相手と共有し、共にその恵みを受け取り合う時にのみ、そこにキリストの赦しと贖いの十字架が立ちうるのです。
 私たちは、人を評価し、批評し、主イエスと切り離された生き方を選び取るのではなく、主イエスと結び合わさっている時にこそ、真の意味で他者とも結び合わされる事を、今ここに覚えたいのです。隣人との繋がりは、キリストとの繋がりの中にこそ成り立つのであります。

 (浦和教会主日礼拝説教  2012年6月3日)

6月3日~9日

6月3日~6月9日の集会

◇旧浦和市教職者会(教団浦和東)  6月4日(月) 午前 10:00

◇浅羽姉訪問             6月6日(水) 午後 3:00

◇聖書の学びと祈り          6月6日(水) 午後 7:30
  Ⅰコリント16章1節~

◇聖書の学びと祈り          6月7日(木) 午前 10:00
  レビ記1章
◇生と死の学び

◇トレインキッズ            6月9日(土) 午前 11:00

6月3日~9日

6月3日~6月9日の集会

◇旧浦和市教職者会   6月4日(月) 午後10:00

◇浅羽姉訪問        6月6日(水) 午後 3:00

◇聖書の学びと祈り    6月6日(水) 午後  7:30
  Ⅰコリント16章1節

◇聖書の学びと祈り    6月7日(木) 午前10:00
  レビ記1章
◇生と死の学び

◇トレインキッズ      6月9日(土) 午前11:00

6月10日

  2012年6月10日(日)の礼拝

◇日 時:6月10日(日)午前10:30~

◇説 教:「求めよ。そうすれば与えられるであろう」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:エレミヤ書6章16節~21節
      マタイによる福音書7章7節~12節

浦和教会主日礼拝説教 ヨハネによる福音書3章1節-15節 『ニコデモの救い』

和教会主日礼拝説教 ヨハネによる福音書3章1節-15節 『ニコデモの救い』
 (こどもとおとなの合同礼拝)   

 人が、必ず一度しか経験出来ないものが二つあります。どんなに偉い人でも、どんなに立派な人でも、どんなお金持ちでも、人間である以上一度しか経験できないもの。それが生まれる事と、死ぬ事です。二度も三度も生まれる人はいません。どんな子どもたちでも、お母さんのお腹にいる時は限られていて、一回生まれるともう一度お腹の中に戻るなんて事は出来ません。それとは正反対の、死ぬという事も又同じです。どんなに体が弱っても、どんなに年をとっても、人が経験できる死というのは、一回きりです。死にそうになった、とか九死に一生を得た、などという事はありますが、しかし本当に死ぬのは一度だけです。それが私たちの命です。私たちは生まれる事も、死ぬ事も、それぞれ一回しか与えられていないのです。
 しかしイエス様はこう言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。非常に不思議な言葉です。今日はこのイエス様の言葉の意味を皆で考えたいと思います。

 いま読んだ聖書にはニコデモという人が出てきます。この人はユダヤ人の議員であったと書かれています。議員というのは、今でもそうですけれども、大変立派なお仕事です。そして地位も高く、みんなから尊敬されるお仕事です。ニコデモはその議員でした。しかしユダヤ人の議員の多くの者たちはイエス様を憎んでいました。議員よりも立場が低いのに、民衆たちから人気があって、たくさんの奇跡を起こし、注目を集めていたからと考えられます。

 さらにニコデモは「ファリサイ派であった」とも言われています。ファリサイ派というのは、当時最も知恵のある賢い人と考えられていました。律法学者として、旧約聖書に詳しい知識を持っていて、どんなことにでも答えられるように、良く勉強していた優秀なエリート集団でした。しかしファリサイ派の人たちもまたイエス様を憎んでいました。それはイエス様が、ファリサイ派の人たちよりも、民衆から慕われ、聖書の知識が豊富であり、しかもファリサイ派の間違いをたくさん指摘していたからです。しかもイエス様がガリラヤ出身であったという事もあるかもしれません。とにかくファリサイ派の人たちはイエス様に嫉妬し、妬んでいたのです。エリートである自分たちを差し置いて民衆の注目を集め、聖書の事を良く知っている事に腹を立てていたのです。だからファリサイ派の人たちがイエス様に近づく事はあまりありませんでした。近づく事があっても、それはイエス様を攻撃する時、批判し、喧嘩を吹っかけたり、落としいれようとする時でした。「ファリサイ派の人たちはイエスを罠にかけ、どのように殺そうかと考えていた」と色んなところで言われている通りです。ですからユダヤ人の議員もファリサイ派も、どちらであってもイエス様との関係は良いものではなかったのです。

 ニコデモはこの両方でした。ファリサイ派であり。議員でもあったのです。ですからニコデモは堂々とイエス様に近づく事が出来ず、夜になってイエス様に会いに行きます。議員でありファリサイ派である彼にとって、イエス様に会いに行く事は、罪の意識を持つ事だったのかもしれません。誰にも見つからないように、こっそりと会いに行ったのです。
 多分ニコデモはイエス様の事をどこかで聞いていたのでしょう。イエス様という方の教えや聖書解釈の素晴らしさ、愛の深さ、奇跡の凄さ、そんな事を伝え聞いていたのでしょう。そして心のどこかでイエス様を信じたいという思いが芽生えていたのだと思います。

 彼はイエス様の下に来て質問しました。「先生、わたしたちは、あなたが神様のところから来た偉大な教師であることを知っています。神様があなたと共におられなければ、あんなに素晴らしい奇跡を行うことは、誰にもできないからです」。このように立派に信仰を言い表しています。しかしニコデモの信仰にはあと一歩足りないものがありました。それこそが「新たに生まれる」という事でした。「神様の下に新たに生まれなければ、神の国に行く事はできませんよ」とイエス様はおっしゃったのです。このときニコデモはしっかりと理解できていませんでした。彼は言います。「年をとった者が、もう一度お母さんのお腹の中に戻って、もう一度生まれるなんてことはありえません。人間は一度しか生まれませんから」このように言ったのです。確かにニコデモの言う通りかもしれません。人間は生まれる事も、死ぬ事も、一度しか経験できませんから。彼の言う事もそれはそれで正しいのです。けれどもイエス様の言っている「生まれる」とはそういう意味ではありませんでした。それは洗礼を受ける事で生まれる新しい命の事です。自分の罪を告白し、悔い改めて、神様としっかりと繋がった命を結び直される事、それが洗礼です。ですからイエス様はこの事を言っていたのです。

 しかしこの意味を理解していないニコデモに対してイエス様は言います。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。このイエス様の言っているのは少し難しいと思います。誰でも水と霊によって生まれなければ神の国に入る事はできない、という言葉は洗礼の事を指しているんだな、と言うのは分かります。しかし次の言葉「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である」この言葉の意味が分からないのではないかと思います。それは簡単に言うと、人間ではなく、神様の思いに従いなさい、と言い換える事も出来ます。

 ニコデモはここで「年をとった者がどうして生まれる事ができましょう」と言っています。初めてここを読む人は、ニコデモという人が若くて元気の良い男性であるように感じるかもしれません。しかし「年をとった者」と自分で言っているわけですから、多分、ニコデモ自身年を取っていたのではないかと思います。少なくとも若い人ではなかったでしょう。議員の中でもベテラン議員、長老と呼ばれるほどの古参議員だったかもしれません。だから尚更、後輩たちの手前、みんなに見られないように夜に会いに来た、と考えるならば、辻褄があうような気もします。
 このような年配者、もしくは高齢者であったかもしれない
ニコデモは、この年齢になって尚、新しい命を受けるようにと命じられています。彼が何歳であったかは分かりません。しかしこれまでに積み重ねてきたキャリアがあると思います。社会的な地位もあると思います。ユダヤ人の議員として働いてきた人間関係やなどもあるでしょう。その彼に対して、イエス様は新しく生まれよと仰います。

 ここに先ほどのイエス様の言葉の意味があるのです。私たち人間は、あらゆる努力によって立身出世し、人よりも抜きんでて、誰よりも活躍しようとします。それは勉強においても、部活においても、仕事においてもそうです。成果を挙げればみんなから認められ、多くの利益をもたらせばそれだけ価値ある者と見做されます。スポーツを頑張った人がレギュラーを勝ち取る事も、大会で優勝する事も、会社に勤めている人が出世していく事も、小説家や劇作家がベストセラーを出版する事も、それは周りからの支えであると同時に、自分の努力のおかげであると感じるでしょう。そのようにして周囲から、また、友達から認められていき、地位が確立していく。ステータスとして社会的基盤を得て、キャリアを積んでいく。そうして我々人間は多くを経験し、年を取っていくのです。勿論それは悪い事ではありません。むしろ向上心を持つ事は大切な事です。しかしそのステータスが、その地位や名誉が、神様に近づこうとする気持ちを妨げる事になるとしたら、それは有益なものとは言えなくなります。ニコデモはそうだったのかも知れません。つまり堂々とイエス様に会いに来ることが出来ず、信じているのに夜中にこっそりと訪ねてくる彼の行いを見る限り、また彼の頓珍漢な受け答えを聞く限り、彼は本当の意味で神様の御言葉を理解していなかったと言えるのです。それはこの世の肉の思いが、神様の言葉を妨害したと言えるのかもしれません。ニコデモは神を求め、イエス・キリストの救いを求めていた。しかし肉の思いが、彼を妨げた。だからイエス様はそこを見抜いて言われるのです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」と。つまり、肉から生まれた私たちは、ニコデモのように、肉の思いに囚われてしまい、神様の言葉ではなく、それ以外の事に左右されてしまいがちです。それは肉から生まれたものであるからです。だからイエス様は言うのです。霊から新たに生まれなさいと。洗礼を受け、自らの罪を悔い改め、神様を信じると告白し、神様と共に生きる生活を求めて生きなさいと、イエス様はおっしゃるのです。

 この時ニコデモはあと一歩のところまで来ていました。もう少しで神様の救い、神の国の本当の意味に到達できるところでした。しかし少し足りなかったのです。まだ肉に囚われていたからです。けれどもこのようなあと一歩、いま一つのニコデモに対する不思議な歩みについて、聖書ヨハネ福音書を通して語ります。ヨハネ福音書7章50節に、ニコデモがもう一度出てきます。ここでは祭司長たちやファリサイ派たちが主イエスを捕まえようと相談している場面です。7章51節でニコデモは言います。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」。このように言っているわけです。大勢の者たちがイエスを罠にはめて処刑しようとしている只中で、ニコデモはイエス様を弁護しているのです。しかし「イエスは救い主である」とはっきりと弁護する事はまだできませんでした。しかし、ニコデモなりの信仰告白がここにありました。

 さらに19章39節にも、またニコデモが登場します。十字架上で息を引き取られたイエスの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフの横で、高価な香油を塗るニコデモがここにいます。これもニコデモの大きな一歩でした。彼が公の場で、みんなの見ている場で香油を塗るという事は、イエス様との関係を公に示す事になります。つまりニコデモは自分の身を危険に晒してまで、そのリスクを負ってでも十字架で死んだイエス様の遺体を葬りたかったということです。ここにも「彼なりの信仰告白」があったのです。ニコデモはこのように、ヨハネ福音書を通して、少しずつ、彼なりに、イエス・キリストの真理に向かって変えられていったのです。つまり、あと一歩の信仰が、少しずつ変えられ、最後まで、少しずづ一歩一歩、神の国に向かって、肉の思いを離れ、霊の思いに従って確実にキリストの真理を知っていったのです。
 イエス様は若い人もお年寄りも招きます。救いは、社会的な地位や、これまでキャリアとは無関係に働きます。私たちは、肉の思いに囚われる事が多いと思います。目の前の成果、結果、利益、名声、地位などに翻弄されます。しかし本当に神の国に導かれる為の事はたった一つ。信じることなのです。それはこどもにでもおとなにでも可能なのです。小さな子どもを抱きかかえて「小さな者が天の国に入る」とイエス様は言いました。しかしそれと同時に、ニコデモのような年配者でも神の国に導き入れようとしておられるのです。このイエス様の救いに向かって、あと一歩の信じる思いしかない私たちが、もう一歩踏み出して、本当の救いに到達したいと願うのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年5月13日)