浦和教会主日礼拝説教 ヨハネによる福音書3章1節-15節 『ニコデモの救い』

和教会主日礼拝説教 ヨハネによる福音書3章1節-15節 『ニコデモの救い』
 (こどもとおとなの合同礼拝)   

 人が、必ず一度しか経験出来ないものが二つあります。どんなに偉い人でも、どんなに立派な人でも、どんなお金持ちでも、人間である以上一度しか経験できないもの。それが生まれる事と、死ぬ事です。二度も三度も生まれる人はいません。どんな子どもたちでも、お母さんのお腹にいる時は限られていて、一回生まれるともう一度お腹の中に戻るなんて事は出来ません。それとは正反対の、死ぬという事も又同じです。どんなに体が弱っても、どんなに年をとっても、人が経験できる死というのは、一回きりです。死にそうになった、とか九死に一生を得た、などという事はありますが、しかし本当に死ぬのは一度だけです。それが私たちの命です。私たちは生まれる事も、死ぬ事も、それぞれ一回しか与えられていないのです。
 しかしイエス様はこう言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。非常に不思議な言葉です。今日はこのイエス様の言葉の意味を皆で考えたいと思います。

 いま読んだ聖書にはニコデモという人が出てきます。この人はユダヤ人の議員であったと書かれています。議員というのは、今でもそうですけれども、大変立派なお仕事です。そして地位も高く、みんなから尊敬されるお仕事です。ニコデモはその議員でした。しかしユダヤ人の議員の多くの者たちはイエス様を憎んでいました。議員よりも立場が低いのに、民衆たちから人気があって、たくさんの奇跡を起こし、注目を集めていたからと考えられます。

 さらにニコデモは「ファリサイ派であった」とも言われています。ファリサイ派というのは、当時最も知恵のある賢い人と考えられていました。律法学者として、旧約聖書に詳しい知識を持っていて、どんなことにでも答えられるように、良く勉強していた優秀なエリート集団でした。しかしファリサイ派の人たちもまたイエス様を憎んでいました。それはイエス様が、ファリサイ派の人たちよりも、民衆から慕われ、聖書の知識が豊富であり、しかもファリサイ派の間違いをたくさん指摘していたからです。しかもイエス様がガリラヤ出身であったという事もあるかもしれません。とにかくファリサイ派の人たちはイエス様に嫉妬し、妬んでいたのです。エリートである自分たちを差し置いて民衆の注目を集め、聖書の事を良く知っている事に腹を立てていたのです。だからファリサイ派の人たちがイエス様に近づく事はあまりありませんでした。近づく事があっても、それはイエス様を攻撃する時、批判し、喧嘩を吹っかけたり、落としいれようとする時でした。「ファリサイ派の人たちはイエスを罠にかけ、どのように殺そうかと考えていた」と色んなところで言われている通りです。ですからユダヤ人の議員もファリサイ派も、どちらであってもイエス様との関係は良いものではなかったのです。

 ニコデモはこの両方でした。ファリサイ派であり。議員でもあったのです。ですからニコデモは堂々とイエス様に近づく事が出来ず、夜になってイエス様に会いに行きます。議員でありファリサイ派である彼にとって、イエス様に会いに行く事は、罪の意識を持つ事だったのかもしれません。誰にも見つからないように、こっそりと会いに行ったのです。
 多分ニコデモはイエス様の事をどこかで聞いていたのでしょう。イエス様という方の教えや聖書解釈の素晴らしさ、愛の深さ、奇跡の凄さ、そんな事を伝え聞いていたのでしょう。そして心のどこかでイエス様を信じたいという思いが芽生えていたのだと思います。

 彼はイエス様の下に来て質問しました。「先生、わたしたちは、あなたが神様のところから来た偉大な教師であることを知っています。神様があなたと共におられなければ、あんなに素晴らしい奇跡を行うことは、誰にもできないからです」。このように立派に信仰を言い表しています。しかしニコデモの信仰にはあと一歩足りないものがありました。それこそが「新たに生まれる」という事でした。「神様の下に新たに生まれなければ、神の国に行く事はできませんよ」とイエス様はおっしゃったのです。このときニコデモはしっかりと理解できていませんでした。彼は言います。「年をとった者が、もう一度お母さんのお腹の中に戻って、もう一度生まれるなんてことはありえません。人間は一度しか生まれませんから」このように言ったのです。確かにニコデモの言う通りかもしれません。人間は生まれる事も、死ぬ事も、一度しか経験できませんから。彼の言う事もそれはそれで正しいのです。けれどもイエス様の言っている「生まれる」とはそういう意味ではありませんでした。それは洗礼を受ける事で生まれる新しい命の事です。自分の罪を告白し、悔い改めて、神様としっかりと繋がった命を結び直される事、それが洗礼です。ですからイエス様はこの事を言っていたのです。

 しかしこの意味を理解していないニコデモに対してイエス様は言います。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。このイエス様の言っているのは少し難しいと思います。誰でも水と霊によって生まれなければ神の国に入る事はできない、という言葉は洗礼の事を指しているんだな、と言うのは分かります。しかし次の言葉「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である」この言葉の意味が分からないのではないかと思います。それは簡単に言うと、人間ではなく、神様の思いに従いなさい、と言い換える事も出来ます。

 ニコデモはここで「年をとった者がどうして生まれる事ができましょう」と言っています。初めてここを読む人は、ニコデモという人が若くて元気の良い男性であるように感じるかもしれません。しかし「年をとった者」と自分で言っているわけですから、多分、ニコデモ自身年を取っていたのではないかと思います。少なくとも若い人ではなかったでしょう。議員の中でもベテラン議員、長老と呼ばれるほどの古参議員だったかもしれません。だから尚更、後輩たちの手前、みんなに見られないように夜に会いに来た、と考えるならば、辻褄があうような気もします。
 このような年配者、もしくは高齢者であったかもしれない
ニコデモは、この年齢になって尚、新しい命を受けるようにと命じられています。彼が何歳であったかは分かりません。しかしこれまでに積み重ねてきたキャリアがあると思います。社会的な地位もあると思います。ユダヤ人の議員として働いてきた人間関係やなどもあるでしょう。その彼に対して、イエス様は新しく生まれよと仰います。

 ここに先ほどのイエス様の言葉の意味があるのです。私たち人間は、あらゆる努力によって立身出世し、人よりも抜きんでて、誰よりも活躍しようとします。それは勉強においても、部活においても、仕事においてもそうです。成果を挙げればみんなから認められ、多くの利益をもたらせばそれだけ価値ある者と見做されます。スポーツを頑張った人がレギュラーを勝ち取る事も、大会で優勝する事も、会社に勤めている人が出世していく事も、小説家や劇作家がベストセラーを出版する事も、それは周りからの支えであると同時に、自分の努力のおかげであると感じるでしょう。そのようにして周囲から、また、友達から認められていき、地位が確立していく。ステータスとして社会的基盤を得て、キャリアを積んでいく。そうして我々人間は多くを経験し、年を取っていくのです。勿論それは悪い事ではありません。むしろ向上心を持つ事は大切な事です。しかしそのステータスが、その地位や名誉が、神様に近づこうとする気持ちを妨げる事になるとしたら、それは有益なものとは言えなくなります。ニコデモはそうだったのかも知れません。つまり堂々とイエス様に会いに来ることが出来ず、信じているのに夜中にこっそりと訪ねてくる彼の行いを見る限り、また彼の頓珍漢な受け答えを聞く限り、彼は本当の意味で神様の御言葉を理解していなかったと言えるのです。それはこの世の肉の思いが、神様の言葉を妨害したと言えるのかもしれません。ニコデモは神を求め、イエス・キリストの救いを求めていた。しかし肉の思いが、彼を妨げた。だからイエス様はそこを見抜いて言われるのです。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」と。つまり、肉から生まれた私たちは、ニコデモのように、肉の思いに囚われてしまい、神様の言葉ではなく、それ以外の事に左右されてしまいがちです。それは肉から生まれたものであるからです。だからイエス様は言うのです。霊から新たに生まれなさいと。洗礼を受け、自らの罪を悔い改め、神様を信じると告白し、神様と共に生きる生活を求めて生きなさいと、イエス様はおっしゃるのです。

 この時ニコデモはあと一歩のところまで来ていました。もう少しで神様の救い、神の国の本当の意味に到達できるところでした。しかし少し足りなかったのです。まだ肉に囚われていたからです。けれどもこのようなあと一歩、いま一つのニコデモに対する不思議な歩みについて、聖書ヨハネ福音書を通して語ります。ヨハネ福音書7章50節に、ニコデモがもう一度出てきます。ここでは祭司長たちやファリサイ派たちが主イエスを捕まえようと相談している場面です。7章51節でニコデモは言います。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」。このように言っているわけです。大勢の者たちがイエスを罠にはめて処刑しようとしている只中で、ニコデモはイエス様を弁護しているのです。しかし「イエスは救い主である」とはっきりと弁護する事はまだできませんでした。しかし、ニコデモなりの信仰告白がここにありました。

 さらに19章39節にも、またニコデモが登場します。十字架上で息を引き取られたイエスの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフの横で、高価な香油を塗るニコデモがここにいます。これもニコデモの大きな一歩でした。彼が公の場で、みんなの見ている場で香油を塗るという事は、イエス様との関係を公に示す事になります。つまりニコデモは自分の身を危険に晒してまで、そのリスクを負ってでも十字架で死んだイエス様の遺体を葬りたかったということです。ここにも「彼なりの信仰告白」があったのです。ニコデモはこのように、ヨハネ福音書を通して、少しずつ、彼なりに、イエス・キリストの真理に向かって変えられていったのです。つまり、あと一歩の信仰が、少しずつ変えられ、最後まで、少しずづ一歩一歩、神の国に向かって、肉の思いを離れ、霊の思いに従って確実にキリストの真理を知っていったのです。
 イエス様は若い人もお年寄りも招きます。救いは、社会的な地位や、これまでキャリアとは無関係に働きます。私たちは、肉の思いに囚われる事が多いと思います。目の前の成果、結果、利益、名声、地位などに翻弄されます。しかし本当に神の国に導かれる為の事はたった一つ。信じることなのです。それはこどもにでもおとなにでも可能なのです。小さな子どもを抱きかかえて「小さな者が天の国に入る」とイエス様は言いました。しかしそれと同時に、ニコデモのような年配者でも神の国に導き入れようとしておられるのです。このイエス様の救いに向かって、あと一歩の信じる思いしかない私たちが、もう一歩踏み出して、本当の救いに到達したいと願うのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年5月13日)