マタイによる福音書6章11節 『我らの日ごとの糧を』主の祈り (Ⅲ) 

 マタイによる福音書6章11節 『我らの日ごとの糧を』 主の祈りⅢ

 インターネットのブログに「パンも大好き―聖書読んではひとりごと―」というサイトがあります。ご存知でしょうか?そしてこれには「日本キリスト教会発行『家庭礼拝暦』にそって」という副題が付けられております。ご覧になられた方はおられるでしょうか。これは未だに謎なのですが、日本キリスト教会関係者の誰かが立ちあげているらしいのですが、それが誰だか分からないのです。しかしその内容は、家庭礼拝暦の毎日の言葉に対しての雑感を書くというものでして、それが非常に的確で、且つ、好意的であります。聖書を良くお読みになられる方か、もしくは教職の誰かが書いているように思うのですが、だれかお分かりになる方がいれば教えて頂きたいと思います。
 しかしこの「パンも大好き」という題名はユーモアに溢れていると思います。イエス・キリストが40日40夜の荒れ野の誘惑を耐え忍ぶ中で、「この石をパンに変えたらどうだ」という唆しに対して「人はパンのみに生きるに非ず」と答えて悪魔の誘惑を蹴散らしたという話しがありますが、これに倣って、「私は御言葉の糧も好きだけどやっぱりパンも大好き」というユーモアの一つとしてこの題を考えたのではないかと思うのです。
 しかし私たちキリスト者はパンに対して如何なる思いを持っているでしょうか。キリスト教会でパンと言えばパンと葡萄酒というように聖餐式のイメージがあるかもしれませんが、しかしパンを欲する、という事を考えますと、荒れ野の40日の逸話にもある通り、パンを欲する事はキリスト者的ではない、というようなイメージがあるのではないかと思うのです。つまり「パンのみによって生きるに非ず」という言葉が植え付ける印象、すなわち第一義的に私たちに必要なのは御言葉であり、パンは二の次であるというイメージです。金銭などと同じように、パンを欲する事は物欲の一つとして捉えられがちであります。
 出エジプト記にあるように、エジプトの奴隷の身分から脱出してきたイスラエル人たちは、すぐにモーセに、ひいては神に対する不平不満をぶつけるのです。それこそが、食べ物がない、つまり「パンがない」「パンが欲しい」というものでした。
 ですから私たちが「我らの日用の糧を今日も与え給え」と主の祈りを祈るとき、この言葉があまりにも卑近な問題を扱っているかのように思えてしまうのは、聖書を良く知る私たちにとって当然の事なのかもしれません。これまで、神の御名、御国、神の御心を願っていた祈りであったのに対し、ここから突如として人間のおなかを満たす事を祈るのです。言うならば高尚な祈りの次に、突然卑近な祈り「パンを下さい」と祈りだす。とても不思議な感じがし場違いな感じも致します。

 しかし食べ物を求める祈りとは、そもそもそんなに卑しいものなのでしょうか。むしろ人間にとって、これほど切実な祈りは無いのではないか。そのようにも考えられます。私たち人間は、なぜ毎日働くのでしょうか。その第一義的な理由は食物を求める為、日々の糧を得る為という事ができましょう。自分の、そして家族の食事を守る事は、すなわち神に与えられた命を維持する事になる。そう考えるならば、食事を求める事は被造物としての我々が、神に対して負う責任、と言えるのかも知れません、
 そもそも主イエスの時代、ナザレの労働者の家に育った主イエスや弟子たちは、パンを得る事がどれほど深刻な問題であるのか、身をもって知っていたことでしょう。パンがないという事が、どれほど苦しい事であるのか。パンの問題の為にどれほど人を狂わせたか。その事を知っていたのだと思うのです。
 人類の歴史は食料調達の歴史と言っても過言ではありません。1789年フランス革命においてルイ王朝が滅ぼされます。王侯貴族から受ける搾取にあえぐ民衆たちは、度重なる飢饉と貧困の末、ヴェルサイユ宮殿に集まり、ルイ16世に向かって、「ドゥパン、ドゥパン、ドゥパン」、と叫びました。それは「パンを、パンを、パンを」という切実なシュプレヒコールであったわけです。
 日本でも百姓一揆と呼ばれる納税義務の軽減を求める最下層民の武力行使が行われました。現代社会でも、貿易の自由化によって問題になるのは、国益と共に、食料、つまり農業や漁業などの第一次産業への影響であります。
 このように見ていきますと、食料の事を求める祈りが卑近であるとか、卑しい事であるというのは、飽食の時代に、何の不自由もなく、不足もなく生きている我々だからこそ生まれる思いであって、食事もままならない環境に生きる者たちには、パンを求める事によって戦争や革命が起きるほどのものであったという事を、我々は知らねばなりません。
 
 先ほどお読み頂きました、出エジプト16章にはマナの出来事が記されております。エジプトの奴隷から解放されてモーセに導かれた民らは、荒れ野の真ん中で食糧難に喘いでおりました。そして民らは文句を言いだすのです。こんなだったらエジプトにいた方がマシだった。エジプトの奴隷の時の方がウマい肉鍋を食べられた。このように具体的に文句を言うのです。まさに人類が食糧調達の歴史を歩んできたように、彼らも又、その事で今まさに暴動が起こらんとしていたのです。

 しかし神は、この時マナとうずらを与えられました。この時一つのルールがありました。それは「一日分しか取ってはならない」ということです。安息日の時だけ二日分とって、それ以外は一日分だけにしなさい。明日を思い煩った者が二日分取ると、腐ってしまった、と書かれています。ここには民を養う神の姿が描かれます。その日一日の糧を与えて下さる神の姿です。

 けれども、この出来事についてモーセがあとから回顧している申命記の8章3節で、注目すべき言葉があります。旧約聖書294頁の上の段、申命記8章3節以下、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わった事のないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きる事をあなたに知らせるためであった」。このようにあります。つまり、マナの出来事というのは、人間の食糧確保、肉体の維持、空腹の解消を目的とするものではなくて、神はそれ以外の事柄を、第一義的に示そうとした出来事であった、という事であります。それは食料を与えることによって、実は、神の御言葉の意味と重さを知らしめる為の、マナの出来事であった、というので
あります。

 出エジプトの旅は、長く重苦しい旅でありました。距離にすると大した事のないところを、40年もの間の長きに渡り、行ったり来たり、放浪の旅を続けたのです。生まれたばかりの人は40歳になり、二十歳の若者は還暦を迎えるほどの長い期間彷徨っていたのでありました。彼らは何を感じて旅を続けたのでしょうか、自分の家も持たず、帰るところもなく、単調毎日が続くだけ。何となく繰り返される日々。昨日も今日もそう変わる事なく続く毎日。そのような旅であったと思うのです。40年の旅の最中に亡くなった人も大勢いたようですから、この出エジプトの旅は一体なんなのかと神に問いたくなるような、そんな思いの中にある長き旅であっただろうと思うのです。
 しかしこのようなイスラエルの民らと私たちは、全く掛け離れた存在なのでしょうか。そうではないと思うのです。私たちの毎日とは、いつもいつも新しい事で満たされ、新鮮な毎日に満ち溢れていれば良いと思いつつも、しかし、日ごと平凡単調な出来事の繰り返し、いつも新しいことを発見していたいと思いつつ、そうもいかない日々。ただ食べていく事のために汗水流す日々。三度の食事と掃除と洗濯をすれば、何となく一日が終わってしまうような毎日。嫌な上司に頭を下げ、働かない部下に心を痛める日々。ふと気がつくと、どうして毎日働いているのだろうか、どうして生きているのだろうか、とすら考えてしまう事しばしば、なのではないでしょうか。つまり、出エジプトの経験した旅と、我々の生涯には、非常に似通った部分があるのでは無いかと思うのです。

 主の祈りの中で、私たちは「われらの日用の糧を」と祈ります。この「日用」というのは「毎日の」と訳される言葉です。ですから「私たちの毎日のパンを下さい」と理解するのです。けれども、この「日用の」という言葉の持つ意味を、我々はいささか誤解している傾向にあるようです。つまり「日用の糧」というのは、「今、この時の糧を」をいう意味だけでは無いからです。毎日の単調な生活の中にあって、昨日の食事のように、今日もまた同じように恵まれた食事をお願いします。という、反復を促す「日用の」という意味ではないからです。
 ここで言われている「日用の」という言葉には、「差し迫っている次のこと」が示されています。つまり、朝この祈りをすれば、そのすぐ後に続く昼食や夕食の事を思い、夕べの祈りであれば次の朝の朝食を求める祈りとなります。差し迫った次の時の、つまり、明日の命を支える糧を与えてください、という意味が、ここに含まれるのです。

 明日の命は誰にも分かりません。今この次の瞬間であっても誰にも保障は出来ません。このような私たちのために、差し迫った次の命を生かす糧を下さい、と祈るのです。このように考えますと、「我らの日用の糧を今日も与え給え」、という祈りは、自分自身の限りある命を直視しながら、新しい命を求める祈りであると言えるのではないでしょうか。それは、ただ肉体の生と死に関わることだけでなく、いつ死ぬかと怯える事でもなく、少なくとも今日だけは生き延びさせて下さい、という消極的な祈りでもありません。それは、神の確かな養いのうちにいる事を確信させて下さい、という祈りであり、たとえ明日この肉体が滅びようとも、キリストによって神の国の永遠の命に生きる事を求める祈りなのです。

 詩編145編14節15節は、今日の箇所に一つの示唆を与える重要な言葉があります。旧約聖書986頁の上の段ですが、(詩編145編15節)「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物を下さいます」。このように書かれております。しかしこの15節は14節と共に読む時、初めてその意味の深さが立ち上がってきます。145編14節「主は倒れようとする人を一人ひとり支え、うずくまっている人を起こして下さいます」。このように書かれております。そしてその後に、時に応じて食べ物が与えられる事が記されているのです。
 今、しっかりと立っていても、次の瞬間は誰にも分かりません。うずくまるかもしれないし、倒れてしまうかもしれない。しかしそのようなうずくまる時、私たちは、主イエス・キリストの父なる神が、そのようにかがみこんでくださる事を知っています。十字架という低さに降りて下さり、倒れてうずくまった私たちに対し、限りなく低くうずくまって下さり、私たちの倒れんとするこの体を支え、抱き起こして下さる神がおられるのです。あの十字架の上に居られるのです。
 「我らの日用の糧を今日も与え給え」。この祈りは、単に食料を求めているのではなく、主イエス・キリストによって、私たちは現在の命を保ち、これが滅びようとも尚も命を保ち続けて下さる事を求める祈りであるのです。この祈りは、決して卑近で卑しい事なのではなく、むしろ私たちの命が主によって守られるという願いと確信に基づいた祈りであります。主の祈りの後半の最初に、最も適切な祈りがなされているのだ。この事を覚えたいのです。

(浦和教会主日礼拝説教 2012年3月18日)

3月25日~31日

3月25日~3月31日の集会

◇U-19修養会(軽井沢)     3月26日(月)~28日(水)

◇浦和教会青年部1日修養会    3月27日(火) 午前 10:00

◇聖書の学びと祈り        3月28日(水) 午後 7:30
  箴言23章、24章

◇聖書の学びと祈り        3月29日(木) 午前 10:00
  出エジプト記28章

4月1日

  2012年4月1日(日)の礼拝<棕櫚の主日(受難週)>

◇日 時:4月1日(日)午前10:30~

◇説 教:「真理に属する者はキリストの言葉に聞く」

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:ヨハネによる福音書18章28節~38節

3月25日

  2012年3月25日(日)の礼拝

◇日 時:3月25日(日)午前10:30~

◇説 教:「汝、赦しの中に立て」(主の祈りⅣ)

◇説教者:三輪地塩(浦和教会)

◇聖 書:マタイ福音書6章12節

3月18日~24日

3月18日~3月24日の集会

◇中会教職者会(蒲田御園)  3月19日(月) 午後 2:00

◇第61回定期中会(鶴見)    3月20日(火) 午前 10:00

◇聖書の学びと祈り        3月21日(水) 午後 7:30
  ヨハネ7章1節~24節

◇聖書の学びと祈り        3月22日(木) 午前 10:00
  出エジプト記27章

マタイによる福音書6章10節 『天と地に生きる』(主の祈りⅡ)

浦和教会主日礼拝説教 マタイによる福音書6章10節 『天と地に生きる』(主の祈りⅡ)

 先週の金曜日、浦和教会において世界祈祷日礼拝がもられました。今年はマレーシアの教会の為に祈りを合わせ、「正義を来たらせたまえ」というテーマによってこの礼拝の時を送りました。歴史的には1887年にアメリカの長老派の女性たちが、様々な抑圧を受けている人たちを覚えて祈る事からこれが始まり、徐々に他教派の人たちにも広がっていきました。1920年になり、レントの第一金曜日を伝道のための合同祈祷日と定め、組織的な祈りの会となっていきます。第二次大戦後の1945年、和解と平和を求める祈りへと教派を超えて広がり、これが現在の世界祈祷日の始まりとなったわけであります。ですから発足してから125年も経っており、また日本でも1932年から80年間これが守られていたわけですから、決して最近はじめられたムーブメントとしての祈祷会ではないのです。これまで色々な国々の為に祈りを合わせてきました。インドネシア、ガイアナ、南アフリカ、ポーランド。決して祈りの対象は、発展途上国のみに絞られているわけではなく、様々な国の事情、問題や課題が克服され、より良い世の中を実現する為の、世界全体が神の御国の実現と栄光を現すためにこの会が開かれて来たのであります。

 しかし21世紀になり既に12年目を迎えましたが、この世は徐々に良くなっていくどころか、様々な複雑な問題を抱えております。政治経済においても、国が破綻するという状況はかつて考えられなかったものでありますし、世界規模の温暖化、環境破壊、それから次世代エネルギーの問題、石油の枯渇。何よりも、なくなる事のない世界中で行われる紛争や戦争。どのように祈りを合わせても、世界の和解と平和を祈っても、この世は神の御心に反したものである以外の方法を取らず、罪に罪を重ねる人類社会が厳然として残るだけであります
 このような私たちの生きる世界の中で我々は祈るのです。『御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせ給え』と。今日はこの祈祷の言葉に思いを寄せ、学んでいきたいと思います。

 ここで祈られる「御国」と言うのは、ギリシャ語的には「あなたの国」、つまり「神の国」であります。私たちは「神の国が到来しますように」という祈りをしているのです。神の国というのは、この世の中の権力や、政治に左右されない、神が直接ご支配なさる国、を意味しております。
 主イエスが述べ伝えていたものは、まさに「神の国」でありました。主イエスの福音とは、神の国の到来であったわけです。

 しかしながら「神の国」とは一体どのような国の事なのでしょうか。ある注解者は、「神の国とは、終末の時、終わりの日に完成する、神がご支配される国のことである」としています。しかしそうなりますと、「神の国」は、私たち信仰者にとって現実的なものではなく、漠然とした、非現実的な場所のように思えてしまいます。いずれは来るかもしれないが、今目の前に無いのならば、私たちとは今のところ関係の無い場所。私たちの日常とは無縁の場所、このように思えてしまうのであります。

 しかし主イエスは「神の国」とはどのような場所であるかについて、色々なところで語っておられます。ルカ福音書17章20節~21節143頁の上の段でありますが、ここで主イエスは、神の国について最も明確に語っております。

 「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は見える形では来ない。ここにある、あそこにある、と言えるものでもない。実に神の国は、あなた方の間にあるのだ』」。と、このように言われております。つまり主イエスは、「あなた方の間に、あなた方の内に、神の国はあるのだ」と言っているのです。「国」という言葉を聞くと、国土、領土、国境線、などのような、物理的な領域の事を想像するかもしれません。もしくは、政治的・経済的な動きや、支配と被支配の関係、民主主義、王政、大統領制、などのように、組織や運動体としての「国」、私たちの外側にある、現象としての国を思い浮かべやすいと思います。しかし主イエスは、「あなた方の内に、あなた方の間にあるのだ」と述べているのです。

 この「あなた方の間」とは一体なんでしょうか。「あなた方の『心の中』」という事でしょうか。そう考えがちなのですが、実は違うのです。「あなた方の間、あなた方の中」というのは、決して心の中の精神的なものに限定されたものではありません。神の国は心の中の問題に限定する事柄ではないのです。

 例えば、神の国を心の中に限定してみましょう。するとこうなります。「この世の中は大変無秩序で、理不尽な事が多くあるから、神の支配の中にあるなどと、言えるわけがない。だから神の支配というのは、私たちの心の状態如何によって、つまり心の持ちようによって、神の国であると信じる事が出来る」という理解になるでしょう。しかしそうではないのです。

 私たちの「間」というのは、私たちの心の内、という意味ではなく、私とあなたと彼と彼女の間、つまり人間同士の間に、人間世界の中に既に神の国がある、という意味なのです。私たちの間には、共同する力があり、喜び合う関係を作り出す事も出来ます。しかし同時に、私たちの間では、諍いや争いがあり、差別や虐げの絶えない世の中であるとも言えるのです。それはちょうど、世界祈祷日で祈り合う170国の国々がありながら、その国同士が、政治的には武力行使をし人を殺め合う関係であるのと同じように。

 しかし忘れてはならない事は、「私たちの間に」誰が立っておられるか、であります。誰の犠牲の為に我々の命が存在し、誰が我々の仲保者であり、誰の血によって赦され、和解する事ができたのか。それこそが、イエス・キリストであります。私たちの間に立っておられるのは、主イエス・キリストであるという現実、その現実の中に、その事実の間に、私たちが存在するという事です。だからこそ、この主イエスの立っておられるところだからこそ、神の国、神の支配は既に来ていると、言っているわけです。神の国は主イエスのいまし給うところに現実に存在するのだと語るのです。

 つまり私たちが「御国を来たらせ給え」と祈る事によって、主イエスがますます近くにいて下さ
り、その事によってキリストの支配が本当に私たちに強く、生きたものとして迫ってくる事を願っているのであります。もっと深く言いますならば、先立って歩まれるキリストを見つめつつ、私たちの視線は十字架に向かいつつ、自らの欲望と自我を超えて、十字架の愛、十字架の和解と共に私たち人間の関係が成り立つという事であります。

 牧師の加藤常昭氏は、「神の国はを、『キリスト教会』と言い換える事も可能である」と言いました。これは大胆な言い方であるな、と思いました。確かに教会は神の国の先取りとしてこの地上に建てられ、教会はキリストの体である、と私たちは告白していますから、教会の頭がキリストであり、その肢体となって教会の関係性から考えるならば、教会は本来神の国を写す鏡ある、と言えるのかもしれません。この見解は非常に正しい見解であると思います。しかしながら、この世の教会は、何と未完成な場所であろうかと思います。地上に建てられた教会の何と欠けの多い事であろうかと思うのです。教会は聖なる神の国を写す器でありながら、罪人の共同体という、一見矛盾する事柄を内包する場所であるのです。

 しかし、私たちは、神の国である教会に託された、最も重要な働きに目を向けたいのです。それは「罪の赦し」であります。この世に建てられた、非常に卑近な場所。罪人たちが依然として罪人である場所。愛を説き、又、説かれながら愛せず、悔い改めを説き、又、説かれながら悔い改めない人々の集う場所。それが現実の教会の姿であります。しかしこの教会こそが、神の真の赦しを携えて、自らが罪人として、罪赦された罪人として、他の罪人たちに福音を伝え、救いの言葉を伝えようとするのです。それは人間の思いによって赦すのではなく、人間の権威によって救うのでもありません。神の赦しは「キリストの名によっての赦し」であり、キリストの十字架によって私たちが赦されている事を伝える福音なのであります。すなわちここに神の国が既に来ていると言えるのです。罪赦されるはずのないような状況の中で、又、原罪を抱えた私たちの現実の中で、神がこの我々をお赦しになって下さっている。この赦しこそが、神の国であります。神の国は、キリストの十字架の赦しによって真実性を帯びて神の輝きを照らして行くのであります。「御国を来たらせ給え」と私たちが祈る時、そこにはキリストの臨在を思いつつ、私たちの視線はキリストの十字架の愛に向けられるのです。この祈りは、未来の事を祈り求めるのではなく、今ある現実の中に、神の国がある事を認め、その神の国が、神ご自身がそう願ってお造りになられたものであるように、と祈る祈りであります。現実世界は人間的であるが、神の国性を帯びたものとなるようにと
祈る、信頼の告白でもあるのです。

 だからこそ私たちは、その御国が真のものとなるように願い、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るのです。「御心」という言葉は、「あなたの心」つまり、「神の意に適うこと」「神が良しとされる事」であります。天地創造の時、神は御自分の創造なされたものを見て「良しとされた」と何度も書かれております。 

 神はこの世をご自分目に「良いものとして」お造りになられました。地上も、天体も、植物も、動物も、そして人間も、全ての被造物が作られた目的に従って神に仕え、神をほめたたえ、神との繋がりを持つ交わりを喜び、神の平和が支配する世界として、お造りになったのです。しかし現実の私たちの世界は、如何なる物であるのか。それは創世記3章に記されている通りです。人間は誘惑に駆られ、誘惑に負け、神の命令に背くものであった。神に背を向け、創造の秩序を破壊する人間となってしまった。ヨハネによる福音書1章に書かれている通り、「キリストという光を理解できない闇の世界」とさせてしまった。そのような世界に対して、尚も神は、その御心をなそうとして自らと人間との交わりの道を開き、本当の和解を与え、生き得るものとして、命の可能性を与えて下さったのです。主イエス・キリスト誕生、十字架、復活の出来事は、罪の私たちに、その生きる可能性を示して下さった出来事に他なりません。今はレントの時ですが、レントは単に神の苦しみを覚える時だけなのではなく、その苦しみによって本来死すべき我々が生きるべき道を与えられた事を想起する時でもあると思います。

 私たちが祈る時、それは「イエス・キリストにおいて、神との関係が回復され、神に仕え、神を讃え、この世に豊かな平和と輝きが与えられますように」という意味を持つのであります。

 「御心の天になるごとく、地にもなさせ給え」という祈りは、「人間の力によって天の国を地上に作り出そう」という祈りではなく、「神に対する反抗的な思いが捨てられ、神の意志への従順と、神と人との関係が回復され、あらゆる罪を悔い改めさせられ、主に私の罪を裁いて頂き、さらに私のうちに神の御心に従う力と、勇気と、希望をお与えください」という祈りであるのです。
 
 この祈りによって私たちは、人間中心の思いを変えられ、神の御腕の力に信頼し、それ故に私たちが他者との和解をし、他者を愛し、他者と共同する事の出来るものとして、イエス・キリストに罪贖われた者として生きるたい、という願いであり、また。告白でもあるのです。