この箇所でのキーワードは「人間の創造」であります。「主なる神は、土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」(2章7節)。先週も申し上げましたが、進化論と人間の創造の関係は、私たちにとってのチャレンジとなります。では現代的にこれをどう聞くのかということですが、私たちはこの話しによって進化論と信仰を二者択一にしてどちらかを切り捨てねばならない、と考える必要はありません。この記述は、史実としての物語ではなく、1章同様に、これも信仰告白の一つである、と考えてよいのではないかと思います。つまり象徴的に書かれている。人間は神とどのような関係にあるのか。男と女がどのような関係にあるのか。そして人間同士がどのような関係にあるのか、という事です。史実としての真実ではなく、真理について語られていると言い換えた方がよいでしょう。
今日は4節bからということになりましたが、これは先週も言いましたように、4資料説(ヴェルハウゼン仮説)によって、祭司文書(P資料)からヤハウェ文書(J資料)に変わっている境目が4節である、と考えられているためそのように区切らせて頂きました。7節では「主なる神は、土(アダマ)の塵で(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。1章27節で既に人は作られているのに、2章7節で重複している、と思われるかもしれませんが、それは先ほどのP文書とJ文書のように、資料が違っているからです。これを聖書自体の矛盾と捕えるのは、聊か早計であろうと思います。
8節ではエデンの園が設けられています。この「エデン」という詞の意味は、「歓喜」とか「喜び」という意味があるのではないかと言われています。しかしそれに対して、古代中近東の共通言語のアッカド語では「イディンヌ」という言葉がありまして、これが「荒れ野」という意味であり、「エデン」は「イディンヌ」に由来するとも言われております。勿論文脈から考えますと、エデンの園が荒れ野であるとは考えにくいのですが、言葉自体の由来としてはそうであるのかもしれません。エデンは大変豊かな場所としてイメージされています。そういう意味では歓喜の喜びの園である、というようがしっくりいくと思います。
ここに2本の木が生えています。「命の木」と「善悪の知識の木」です。この2本の木が具体的に何の木であるのかは記されておりません。しかし命の木はナツメヤシをイメージしていたのではないか言われます。中近東の暑い砂漠の中で、椰子の木とオレンジ色の椰子の実が命を満たすオアシスになります。砂漠という死の世界でナツメヤシは命の木として強い印象を持っていたのではないでしょうか。「マイムマイム」というフォークダンスがありますが、ヘブライ語で水の事を「マイーム」と言います。つまり「水だ水だー」と言って歓喜の踊りをする、というのがあのダンスであるということです。砂漠の国では、水に苦労しない日本人とは違った感覚の中を生きているわけです。
次に「善悪の知識の木」に関してですが、これを食べて人間は神との約束を破るものとなった、ということですが、伝統的にこの実は「リンゴ」であるとされることが多いと思いますが、どこにもリンゴであるとは書かれていません。その理由はラテン語に由来するようです。中世の教会ではラテン語が公用語でありまして、ラテン語でリンゴの事を「Malus」マルスと言います。これに対して最後のSをMに変えますと「Malum」マルムとなって「悪」を意味する言葉になる、ということです。そこで神の命令に背いたこと、つまり悪を犯した木の実、ということで「マルス」リンゴで表わされるようになった、と言われています。
10節以下には、4つの川の名前があります(ピション、ギボン、チグリス、ユーフラテス)。ここに著者(編者)にとっての世界観が示されています。神がこの世を造り、エデンの園から水が流れ出て全世界に広がっているという世界観です。ハビラ地方とはアラビア半島のことと言われます。ギボンは、クシュ地方の川と言われています。クシュがエチオピア周辺の事であるとするなら、ギボンはナイル川ではないかと考えられます。
次の15節にはこうあります。「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園の全ての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」。ここに「人間はなぜ創造されたのか」という命題の、答えの一つがあります。つまり「地を耕し、守ること」これが人間に与えられた使命である、というのです。地とは文字通り地の事、大地の事です。耕すとは、もともと「仕える」という意味の言葉であるということです。ヘブライ語には他にも耕すという言葉があるそうですが、それをあえて使わないで、「仕える」の意味の単語をあてているわけです。これは意図的なものと考えてよいと思います。つまり人間の生きる目的とは、地に仕えてこれを守ること。それが使命であり、目的である、ということです。1章26節にはこうありました「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海のうお、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。この「支配」という言葉がネックとなって、キリスト教会は自然破壊の思想を持っていると糾弾されます。現代の自然を破壊しているのは、これを支配してよい、と聖書に書かれてあるからだ、極めて人間主義的で暴力的になりやすい思想を持っているのだ、と批判されます。一キリスト者としてそのような批判は心の痛い言葉であります。しかし1章(つまりP文書)と2章(J文書)は対照的な解釈です。Pでは地を支配し、Jでは地に仕える。支配することと仕えることは、ある意味で矛盾したことでありますが、これが聖書の面白さです。一方的な概念の中でではなく、互いに矛盾しあうようなことを平気で並列させ、ここに書かれてある真意を読み取れ、と私たちにチャレンジを仕掛けているかのようでありましょう。
18節以下を見てみましょう。「人間が一人でいるのは良くない。彼の為に相応しい助け手を作ろう」と神が言います。そしてこの最初の人アダムが寝ている隙に、あばら骨を一本取り出して、もう一人の人を造った。それがアダムの助け手となる「女」となるわけです。これを根拠に古来キリスト教では、男が最初に作られて、女は後に作られた、と考えられてきたわけです。ある種の男尊女卑と言いますか、男性優位主義の家父長制度を確立させるわけで
す。しかしよくよくこの箇所を読んでみると、意外な事が分かります。つまり「最初に作られたアダムという人が『男であった』」、とは何処を探しても書かれていないわけです。「ただ『人を造った』」と言われているだけであります。最初の段階では「人」は男であるとはどこにも書かれていない。つまりもう一人、性の異なる人を造った時、初めて男と女という性区別が付けられたわけです。ですから男と女の誕生は同時である、と聖書は言っているのです。男性という性は女性という性がなければ成り立たず、その反対もまた然りであります。しかしアダムが後になって男性である事が明らかになると、最初からこれを男として読んでしまうという間違いが生じてしまうわけです。
ですからここには、男が優れているとも、女が優位であるとも書かれていません。男性も、女性も、元々は土の塵のような儚いものであるが、神が命の息を吹き込んで生きるものとなった。すなわち人間は神なしには存在し得ない生き物である。このような神と人間との関係性について語られているのであります。
次に注目したいのは、最後の節であります。人が男性と女性とに別れたのち、24節以下で次のように言われています。「それで人は、その父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。
高柳富夫氏は「二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」という一文に問題があると言います(「いま、聖書を読む」梨の木舎)。旧約聖書はヘブル語で書かれているのですが、ヘブル語では「しかし」と「そして」というのは同じ言葉が使われます。ですから文脈によって使い分ける必要があります。つまり「人前で裸になるのは恥かしい」という先入観をもってこの文を訳してしまうと、「二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」と訳されてしまうのです。しかし本来は「二人とも裸であった、だから恥ずかしいとは思わなかった」。と訳すことも出来るわけです。そしてそう解釈する人もおります。「裸である、だから恥ずかしくない」。と言うのはおかしく感じられます。しかしそれは「裸は恥ずかしい」という私たちの先入観があるからと言えます。
ではここで聖書が何を言っているかという事ですが、この「裸であるから恥かしくなかった」というのが、この男女が一対一で向き合う関係の質を持っていた、という事を示しているのであります。つまりお互いがお互いに対して全く警戒しない関係。何も身構えることなく、お互いに対して裸でいられる事が出来る関係にあったというのです。人間は自分を隠します。また、自分以上の自分を装って虚勢を張ろうとします。しかし人間の本来の関係はそのようなものではないと創世記は言っているわけです。お互いが、ありのままでいられる関係。それこそがふさわしい助け手としての人間同士の関係である、と聖書は言うのです。
24節には「父母を離れ」とありますが、最初の男女が父母を離れることなど起こりえませんから、これは明らかに矛盾ですが、創世記はそんなことはお構いなしに語ります。なぜなら創世記の出来事は、何度も言っておりますように、客観的な歴史事実を性格に語ることがその本分なのではなく、本質において男女の人間とはどのような者であるのか、が言いたいのです。
つまり、一対一で向かい合人間同士の男女の関係。父母といういわゆる血縁関係を離れて霊的関係に結ばされる人間の関係が重要なのだと言い換えても良いかも知れません。人間はこの世に仕えるために、この世を愛するために造られ、人間同士の本来の関係も又、神の名によって結ばされた者として愛し合うために造られた。このことが今日の2章で言われているのではないでしょうか。
聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記1章~2章4節a 2010年4月22日
創世記の概略
創世記という書名は、中国語の漢訳から来たものでそれを踏襲しています。
LXXでは「ゲネシス・コスムウ」、ウルガタでは「ゲネシス」、ヘブライ語聖書ではベレーシート(「初めに」の意)
創世記は1章~11章までを原初史(始源史)と言われ、天地創造からノアの洪水までをそう呼んでいます。12章から最後の50章までを「父祖たちの物語」と言い、中でも12章1節~25章18節がアブラハム物語、25章19節~36章43節がヤコブ物語、37章~50章がヨセフ物語と呼ばれています。
創世記の位置づけに関しては、モーセ五書、恐らく紀元前6世紀末から5世紀前半であると見られます。この書物は(特にモーセ五書全体を通して)、特定の人によって書かれたものではなく、それまで言い伝えられてきたもの、また新たに書き加えたもの、既に出来上がっていた文学作品(ヨセフ物語)等を組合わせて編纂されたものと考えられています。
学問的には、ヤハウィスト資料(J)、エロヒスト資料(E)、祭司資料(P)の3資料によって書かれています。
ヤハウィスト(J)=人間の罪に対し神の救済の働きを主に叙述している。神名ヤハウェ。
エロヒスト (E)=「父祖の神」として幻や夢を通して人に神が顕現する(断片的)。神名エロヒーム
祭司 (P)=祭儀、祭司、系図や年代に関心を持ち、ワンパターンの定型的な表現や数字、人 名、地名を用いて、世界の宗教的、時間的、空間的秩序を叙述する特徴を持つ。神名 はエロヒームを用いるが、父祖に対しては「全能の神」エル・シャッダイが使われる
創世記は聖書の第一の書物として、聖書全体のプロローグです。この書物は、私たちが根源的に持っている大命題が見事に提示されています。例えば、神の存在とは何か、人間とは何か、世界とは何か、なぜ人生には悩みや悲しみがあるのか、なぜ人間には罪があるのか、その罪をもって私たちはどう生きればよいのか、など、聖書の根本主題がここに提示されている、と言ってよいのではないかと思います。
冒頭の1章1節は印象深い出だしになっています。「初めに神は天地を創造された」。ここで面白いのは、神の存在証明などを一切せず、「神は」と語りだしているということです。神様はいるのか、いないのか、どこにどうやって存在するのか、というようなことを述べず、神の存在そのものは自明のこと、明白な根本事実として語りだしています。
2節「神は言われた。『光あれ』。こうして光があった。この言葉には大変に深い思想が込められていると思います。神様は1日に一つずつ作業を進めていきまして、少しずつこの世界をお造りになっていくわけですけれども、その一番初めに光をお造りになった、というわけです。天地創造はこのあと、2日目に空と海を創造し、3日目に海と陸を、そして4日目に天体を創造する、という具合に続いていくわけです。4日目に天体を造っているのに、1日目に光が作られている、というのは、どこと無く矛盾を感じるかもしれません。
私たちは光は天体から、夜は月や灯火から与えられるものであると考えています。しかし聖書はそうではないと言います。この1日目で言われている光というのは天体の光ではなく、もっと根源的なものであると考えているわけです。
またこの光を創造した力が「言葉」であったということもまた興味深いことです。ヨハネ福音書に冒頭にある「はじめに言葉があった」と始まるこの4節に「言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」と書かれていますが、この聖書の根本の光、このことを想起させられます。また、詩編には「御言葉はわが足の灯火」という言葉がありますように、光は秩序であり、道しるべであり、また希望であります。それが神の言葉の根源であるということが創世記の中から読み取ることが出来ると思います。
3日目に海と陸、4日目に天体、5日目に水中と空の動植物の創造が語られます。ここにあるのは、4日目の天体、イスラエルにも大きな誘惑であった天体崇拝と関連して、太陽、月、星のランクを落としているのだと考えられています。6日目には神の形にかたどって人間が創造されたと書かれています。しかし今日はこのことに触れずに、来週に持ち越したいと思います。
さて、今日の話を終えるにあたって、一つ注目しておきたいことがあります。それは今日の箇所の最も印象的な言葉、1章1節です。
初めに神が天地を創造される以前はどうなっていたのだろうか、という疑問が浮かびます。しかしこれこそが私たちの神様の根本であり、また中心でもあるメッセージが込められています。すなわち「神は無から有をお造りになった」ということです。無から有を造るというのは、物質的な事柄として考えることに留まらず、私たちの心のうちの、また生活のうちで与えられる、全ての無が有に転じさせる、その根源的な力をお持ちである、ということを覚えたいのです。
つまり、私たちはこの世の中に生き、生活し、紆余曲折ありながらも歩んでいく者たちでありますが、その中には多くの不毛な出来事も含まれることであろうと思います。人間がその人生の中で必ず併せ持つ、全ての無の出来事。ここから何も生み出されることは無い、と思われる出来事。ここには何の幸せもなく、何の生きがいもないと思われる状況があります。しかし聖書の神は、創世記の1章1節の言葉によって私たちに語り掛けます。「私はあなたの無から有を創造する」と。
私たちに振り掛かり押し寄せる、全ての挫折、失望、不毛な思い、絶望感の全てを、神はご存知であり、さらに神は、その無から有を創造なさる方である。そのことを信じ、また信じさせられる出来事こそが、「天地創造」であるのです。