聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記11章27節-12章9節

創世記11章27節-12章9節  2010年7月15日
 今日から創世記は族長物語に入ります。本来12章からアブラハム物語が始まるわけですけれども、私はこの箇所を読むときいつも11章27節から読むのが適当であると感じてまいりました。それはアブラハムが祝福に至るまでの前史がここに記されているからです。12章から、特に1節~4節は、神の祝福に満ちた言葉によってアブラハムは主の栄光の光に照らし出されます。
 けれども、このような祝福に包まれる以前、彼らはどのような歴史を辿ってきたのかについてしっかりと目を向けなければなりません。それが11章27節以降に書かれているのです。ここでは大変興味深いことが記されています。
アブラハムの父は「テラ」という人で、彼にはアブラム、ナホル、ハランという三人の息子達がおりました。しかし28節には、「ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ」とあるように、テラの息子、アブラハムの弟ハランが若くして死んでいるというのです。これはアブラハムの家族を根底から覆すような、苦しく、辛い、衝撃的な出来事であったことと思われます。親が生きている間に子が先に死ぬということは、生きていけないほどの苦しみがテラを襲ったということを意味いたします。またそのときハランには「ロト」という息子がおりましたから、幼い息子にとっても父を早くに亡くすという痛みを負っているわけです。ここにはハランの妻と父テラの妻の名前が出てきません。ですからこの時彼女たちは既に他界していた可能性もあるわけです。そしてアブラハムの妻サライについても書かれていますが、30節「サライは赴任の女で、子供ができなかった」とあります。ですからこれらの事から考えて見ますと、父テラもアブラハムも、テラの妻をなくし、ハランの妻を亡くし、息子であり兄弟であるハランを亡くすという苛酷で不条理な状況に翻弄されたアブラハムの家族の無力感を感じることができます。
更に追い討ちを掛けるように、30節「アブラハムの妻サライは不妊の女で、子供ができなかった」というのです。現代世界では、敢えて子どもを儲けない夫婦もおりますし、子どもがいるかいないかによって、その人の幸せそのものが決定される、という時代ではありません。しかしアブラハムの時代、子どもが生まれない事は、その家が祝福されていないことに直結しておりました。そのような時代でありました。テラの長男であったアブラハムは、当然跡継ぎとなる子どもが欲しかったはずですがそれは適わなかった。つまりアブラハムの家は、過去の悲しみに捕らわれ、将来にすらも希望を見出せず、絶望の中を生きていたと考えることが出来るのです。

 さらに31節には、彼らはウルを出発して、ハランという町まで来るとそこに留まり、32節「テラはハランで死んだ」と書かれております。テラは息子ハランが死んだ後、その心の痛手を負って、生まれ育った、賑やかで、華やかで、富に溢れた大都会を後にして旅立ちました。これまで築いてきた全生活を捨てて出てきたのです。けれども、テラは目的地に着く事が出来なかった。行こうと思えば行けたはずですが、テラはその道の途中、「ハラン」という町、亡くした息子と同じ名前の町を通りかかったのです。もしかするとテラはこの町に愛着と懐かしさを覚えたのかもしれません。そして目的地を忘れ、ハランに留まり続け、そこを離れることが出来ず、死ぬまでハランに住み続けた、と推測することも出来、そう考えるならば何とも悲しく、切ない話ではないかと思うのです。
 父の死によって、残されたアブラハムたちは、希望の欠片も見えない失意のどん底の中に立たされてしまいました。早くに弟を亡くし、自分の家も途絶え、愛する父までも亡くしたのです。その父は過去の悲しみから抜け出すことが出来ず、そこに執着しつつ亡くなっていったのですから、残されたアブラハムたちは、前向きな生き方など到底出来る筈もなく、絶望の底辺に、佇むだけの彼らがいたのです。
  しかし彼は驚くべき神の言葉を耳にするのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように、あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」
 アブラハムにとってこの神の言葉は、あまりにも突拍子もない言葉でした。絶望の中にある彼らに向かって語られる、場違いな「祝福の言葉」。まるで祝福の欠片もない状況の中で、神の希望が約束されたのです。
 もし私たちに同じ事が起こったとしたら、この言葉にどう反応するでしょうか。二つ返事で「はい、その言葉を信じます」と、簡単に信じることが出来るでしょうか。むしろその言葉を否定し、「それは何かの間違いでしょう」「そんな嘘を言って軽々しく慰めないで下さい」。むしろそのように、この言葉を聞くと思うのです。
 それは私たちが、自分の理解に縛られているからではないかと思います。「こんな苦しい状況で、そんな上手い話があるわけが無い」と。私たちは、自分の力や能力の中に、自分自身を押し込めます。だから現実的に考えて、それが可能か、不可能なのかを、自分の理性や理解力だけで捉えてしまうのです。「ああそれは私には無理だ」「私の力では太刀打ち出来ない」。「いくら神様でもそれは無理だ」などと。しかしそれは私たちが被造物の人間でありながら、創造主である神様を制限する事になりましませんでしょうか。
 しかしアブラハムは、神を制限しませんでした。神を自分の理解力の中に閉じ込めなかったのです。たとえそれが人間の目には不安であっても、不可能であると思えても、神を信頼し「わたしが示す地に行きなさい」という言葉に聞き従ったのです。だからこそ彼は絶望の中にあっても、希望に向かって旅立つことが出来たのです。
 間違ってはならない事は、「アブラハムが凄い信仰者なのだ」というのがこの箇所のメッセージではないという事です。つまりこの御言葉は、今ここにいる、私たちへの祝福であるということです。その事を忘れてはなりません。ともすればアブラハムは、諦めて終わる人生を送ることになったかもしれません。あんな辛い事もあった、こんな苦しい事もあった、人生なんてそんなものだ、と、諦めて世を投げ
捨てて生涯を終える事になっていたかもしれないのです。しかし神は、そのような人間の諦めの人生を、それでは終わらせないと、命を呼び覚ましてくださるのです。諦めて、生きる屍のような生きてしまいそうな私たちに、命を与え、祝福に満ちた生涯を与えてくださるのです。私たちは、苦しい時や、人生が分からなくなる時が大変多くありますけれども、そういう時こそ、神様は私たちに言葉を掛け、塵あくたのような私たちを呼び起こしてくださるのであります。そのためにも、何よりも御言葉を信じて聞く、という事が必要であります。折角の招待状が送られてきたのに、それを読まずに破り捨てたのでは、招待された意味がなくなってしまいます。神の言葉を聴いて、信じて、従うのです。それが信仰であります。信仰によってしか、苦難と困難が、希望となる道はあり得ないと思うのです。
 ハランを出発したときアブラムは既に75歳を越えていたと書かれております。言わば盛りを過ぎた年齢であり、現在でも「後期高齢者」という不思議な呼び名が付けられるそのような年齢であります。その中で、「信仰によって、『行き先も知らずに出発した』」(ヘブライ書11章8節)というのです。行き先の見えない不安の中、今後何が起こるか分からない不安な状況の中、彼らは意を決して、信仰という風を背に受けて、人生の中を漕ぎ出していったのです。
 アブラハムの旅の目的は何だったのでしょうか。それはまさしく「信じる」という事ではないでしょうか。ヘブル書11章8節-12節にはそのことが書かれています。
 注目したいのは、「信仰によって」という言葉が重ねられている事です。それは彼の人生が、信仰によってもたらされた事を示しています。8節には、「信仰によって、『行き先も知らずに出発した』」とあります。行き先の見えない旅ほど不安なものはありません。人間という生き物は、目的の無い行動を強いられると、精神が蝕まれていくと言われます。つまり「行き先も知らずに旅立つ」という行動は、その先にある神の約束を信じた行動なのです。だから「信仰によって」と言われるのです。
 9節~10節には「信仰によってアブラハムは、神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都を待望していた」と書かれております。アブラハムは、物質的に経済的に裕福な場所で生きる事ではなく、神の下に堅固な都に生きる事を選びました。この都こそが、真の生きる土台であると確信したのです。普通なら、世界を席巻するほどの大都市ウルに土地を持つ彼らが、裕福な暮らしを捨て、その土地を放棄することなど考えられません。しかし、神が建設した堅固な都、救いの約束に比べると、それは人間的な価値しかもたないのであります。
 11節には「不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました」とあります。75歳のアブラハムと65歳のサラの間には、神の約束があったにもかかわらず、その後25年間子が出来ませんでした。しかし100歳と90歳になったある日、殆んどあり得ない状態で、サラは子を産んだのです。その理由を聖書は続けてこう伝えます。「約束なさった方は、真実な方であると、信じていたからです」と。
 私たちの常識では90歳の女性が子を産むなど信じる事は出来ません。生物学的にもそのような前例がありません。しかしそれがなんでしょうか。私たちの常識とは何なのか。人間の知識・学問・科学などといったものが、一体なんだろうか。どうして私たちはそんな事に囚われ、そんな事のために、神を信じることを妨げられているのだろうか。聖書はそのように私たちに迫るのです。人間の常識と神の真実、正しいのはどちらなのか。どちらが信じるに価するのか。これらの問いがどれだけ愚かな問いであるかを、聖書は告げるのです。90歳のサラは、子を産みます。それが神の真実だからです。
 彼らは「信仰によって」深い苦しみから立ち上がり、「信仰によって」行き先を知らずに出発し、「信仰によって」約束が現実のものとなることを知るのです。彼の旅は、信じることを目的とした、信仰による、神の約束に向かう希望への旅であったということです。
 私たちは今の世の中を見渡すとき、何と信じる事の少ない世であろうかと呟くことの多い者たちです。日本という国を疑い、為政者たちを疑い、人生の行き先を疑わずにはおれない世の中です。嘘と、偽りと、疑念に満ちた世の中であると言えるでしょう。けれども、だからこそこのような時代で、このような私たちのために、祝福の言葉を与え、それを現実ものとしてくださる神を信じたいのです。この世が例え偽りと絶望に満ちていようとも、神の真実と希望は永遠に尽きる事がないからです。だからこそ信じようではありませんか。私たちの目を神様に向けて「希望に向かって」歩むこと。これが今日の箇所に与えられた、私たちへのメッセージであります

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記11章1節-26節

創世記11章1節-26節 2010年7月8日
 バベルの塔の物語は、原初史の最後を飾るに相応しい大変有名な物語です。この話は、バベルという名前から想像されるように、古代バビロニアのジッグラドという巨大建造物がモチーフとなっていることは明白です。古代の都市文化の象徴であり、豊かさと権力のシンボルであるこの塔が、人間の建造物として如何にして建てられ、神によってどう崩壊を迎えたのか。そのようにメッセージは明確であり、大変分り易いように思われます。’「天にも届く建造物を作り、神になろうとした。だから言葉を混乱させ、散らされるという裁きを受けた。人間は神のようになろうとしてはいけない」‘。このように読まれることが多かったバベルの物語ですが、今日の私たちがこれをどう読むのか。注意深くこの箇所を紐解いてみたいと思います。
 3節では彼らが’「れんが」‘を使っています。またしっくいの代わりに’「アスファルト」‘が用いられています。これは当時の最先端の科学技術であると言ってよいと思います。彼らはこれ以上ない建築の粋を集めて、最先端の建造物を造ろうとしているのです。彼らは’「さあ天まで届く塔のある町を立て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」‘これがバベル建造の目的でした。
 因みに、バベルの塔のモチーフになっているジッグラドですが、ウルクの遺跡から出土した楔形文字の粘土板には、紀元前300年ごろのものですけれども、このような寸法であったと書かれているようです。
1階:90×90×33(m) 2階:78×78×17 3階:60×60×6 4階:51×51×6
5階:42×42×6     6階:33×33×6  7階:24×24×15
 この7階分の高さを合計すると、90メートルになり、1階部分の長さと同じ高さになることが分かります。大阪の通天閣が100メートル、函館の五稜郭タワーが107メートルですから、紀元前の話としては相当なものであることが分かると思います。
 このようなバベルの塔の物語ですけれども、冒頭でも申し上げたように、人間が全地に散らされたという事が裁きとして結論付けられるのが、これまでの受け取り方であったように思います。しかしそのことについて、今日の箇所の核心部分に迫ってみたいと思います。
 まず’「散らす」‘という言葉に注目してみたいのですが、この言葉は本来バビロン捕囚の文脈で用いられることが多く、(エゼキエル書11:17、20:34、20:41、28:25)、それゆえに否定的な用語として受け取られています。しかし今日の箇所の特に原初史の文脈で考えるならば一概にそうとは言えないことが分かるのです。特に10章32節には’「地上の諸民族は洪水ののち、彼らから分かれ出た」‘とあるように、’「分かれ出ること」‘が主によって祝福され、是認され、意図されていることが分かります。この’「分かれ出る」‘の言葉も’「散らす」‘と同じ語幹に由来する言葉です。また10章18節では’「カナン人の諸氏族が広がった」‘とも書かれておりまして、この文脈でも、’「広がる」‘こと自体は決して否定的に受け取られておらず、まして主の裁きが執行される内容にもなっておりません。
 この観点から見ますと、11章4節に記されている’「そして、全地に散らされることのないようにしよう」‘と話し合っている人間たちの言葉は、散らされることを恐れ、それを阻止しようという意図が働いていることが分かる。つまり主が’「散らされること」‘を良しとしている文脈の中でそれを阻止しようとしている人間がいるということですから、この4節の言葉は神への反逆の言葉と捉えることが出来るわけです。
 この流れで考えるならば、バベルの塔建設が罪である理由は、’「人間が一致するという罪」‘を犯しているからであると言えるでしょう。私たちは教会の一致、とか、信仰の一致などという言葉を良く聞きますから、「一致することが善である」と勘違いしがちであります。しかし「一致」という事柄それ自体は、極めてニュートラルな行為です。善を行うための一致もありますが、「同質性の固執する一致」であるとか「利己的な自己保全のための一致」であるならば、それは神の意に反した一致であると言えるでしょう。つまりこの物語が言わんとしていることは、神に不従順に結束したから、その裁きとして拡散される、という単純な構図ではなく、地の面に散らばっていくという「祝福の拡散」がここで言われているのです。
 バベルの塔の物語は、民の散らばりによって締め括られています。これまで創世記1章から失楽園、カインとアベル、ノアなどの様々な物語を読んでまいりましたが、これまで神は、裁きではなく最終的には救いと恵みの神であることが伝えられてきました。皮の衣を着せたこと、復讐されないように徴をつけたこと、箱舟で救い出したこと、など、その全ての締め括りが祝福だったわけです。しかしこのバベルの物語は、一見すると裁きで終わっているように見えてしまいます。神はとうとう諦めたのか。人間を救おうとする意思を失ったのか。そのように捉えることも出来るわけです。
 フォン・ラートというドイツの偉大な旧約学者は「旧約聖書神学Ⅰ」の中で「バベルの塔は恵みなしに終わるのである」(220頁)と結論付けているということです。彼はこの物語を、人間のエスカレートする罪の頂点と看做しているのでしょう。しかしラートは単に神が人類を見放したということではなく、12章からのアブラハム物語の「祝福」の言葉の中に、神の祝福を見ています。
 しかしバベルの塔が祝福なしに終わっている、という結論付けは、聊か早計であろうと思います。本当にこの物語は祝福なしに裁きの物語なのだろうかと。ですから、8節の「主は彼らをそこから全地に散らされたので」の言葉を、裁きではなく、「主の祝福として散らされる」と受け取ると、この物語の恵みが深くされると思うのです。
 つまりここで彼らは、4節にあるとおり、一つであること、同じであること、お互いの違いを認めないことの中に生きようとしていたのです。しかし私たち人間がお互いの違いを認めないことを主が本当に求めているのか、という事が問題となるのです。お互いに散らばっていくことは、バベルの建設工事を頓挫させるという意味で、裁きであったかもしれません。けれども同時に、人間はお互いに違いを見つけ、それを認め合い、多種多様な生き方と、文化を承認すると
いう新たな生命を、神は人間にお与えになったのではないでしょうか。つまり違いがあってよい、という祝福がここに示されているのです。むしろ一つであることの方が問題であると。色んな言語があってよい。色んな文化や民族があってよい。そういうお互いの違いを大切にしていき、多様性と相対性を認め合って生き、共存することこそ」が、神の祝福なのである、という事なのではないでしょうか。
 人間の長い歴史を紐解くと、多様性を蔑ろにし、否定し続けて人間は罪を犯し続けてきました。様々な立場や意見を、隠し、殺し、飲み込むことによって、人間は抑圧されてきたのです。大日本帝国も、アウシュビッツも、画一させられた言論統一と検閲の中で、多様性、自由発言の統制の中で、罪を犯してきたのです。我々人間が全く同じ考え、同じ言葉という事自体が異様なことなのです。世界を英語で統一しようとする大航海時代のイギリスも、大東亜共栄圏の旗印の下でなされた日本語教育も、アルザス・ロレーヌも、共産主義も、その全てが人間の罪の中にあると言ってよいと思うのです。みんな揃って君が代を歌い、日の丸を有難がることが、神の似姿としての人間の尊厳と生命を表しているのだろうか。そのことが問われるのであります。
 もちろん、一致することは決して「悪いこと」ではありません。しかし何のために一致するのかが問題なのです。「天まで届き、神に近づくため、有名になるために一致する」のか。「主のために一致する」のか。そのことが問われているのです。その意味では、「バーラル」と言われている、あえてなされている混乱それ自体も、神の祝福であると言えるのかもしれません。
 この箇所で私たちは、神の問いかけを聞きます。主と我々の関係は正確に保たれているのか。主の祝福を聞き取ることが出来ているのか。一見すると祝福ではない事柄の中に、主の真の祝福を見出す信仰があるのか。そのことが今、この21世紀の私たち信仰者に問われていることなのだと思うのです。忘れてはならないのは、私たちは如何なるときも主の祝福の中で生きている、ということです。ここから離れることなく、歩む道を示されたいと思うものであります。
 参考資料:J.C.L.ギブソン著「創世記Ⅰ」DSBシリーズ1 新教出版
      W.ブルックマン著「創世記」(現代聖書注解)教団出版   
      高柳富夫著   「今、聖書を読む」    梨の木舎 

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記7章1節-24節

祈祷会奨励 創世記7章1節-24節 2010年6月17日
 ノアの物語の第2回目です。今日は創世記7章から御言葉に聞きたいと思います。まず前回のおさらいをしたいと思います。前回は「ノアが神に従う無垢な人であったから救われたのではない」と言いました。つまり彼の正しさと正義が彼を救ったのではない、ということです。これに対して、少なからず疑問が起こっているような雰囲気がありましたので、もう少し説明を加えたいと思います。
 J.C.L.ギブソンという旧約学者が、端的に語っているのがありましたのでご紹介します。
「ノアについて言うならば、ノアがちょっとした聖人君子で、彼が救われたのは彼が善であり彼の時代の人々が悪であったからだと思わされるかもしれない。ノアにはとがめられるべきことは何もなかった。あるいは英語訳のように『完全であった』。しかしノアに用いられた他の言葉は、ヘブル語では正しい行動、というよりもむしろ正しい態度、というニュアンスを帯びている。謎めいているエノクのように、ノアは『神と共に歩んだ』。ノアは神の側を選んだ。そしてノアは正しかった。この聖書の好む、『正しい』という言葉は、『自分自身を他人より良いと考える人ではなく、神と共にいて正しさの中におり、神がその人に対して正しい態度を取る人』を示す」
 このように書かれていました。つまりノアが正しい行いをしたからその行ないが彼を救った、というように「行い」や「行為」をダイレクトに救いに結びつけてしまっては「功なくして罪の赦しを得」「功績なしに罪が赦され」という信仰箇条の告白は意味を成さないものになってしまいます。私たちに与えられる救いは、功徳を積んでいく結果にもたらされるものではないことを覚えておきたいものです。勿論、神の下に自らを律して生きることは非常に大切なことです。それは神によって変えられる信仰者の姿であると言えます。それ自体の素晴らしさを認めた上でのことというわけですので、間違わないようにしたいところです。
 さて、このようなノアですが、7章からいよいよ箱舟への乗船と、洪水の開始が語られます。この7章を目を凝らして読んでみますと、幾つかの矛盾点にお気づきになるかと思います。まず、雨の降り続いた日は何日かということです。12節では「40日40夜」と言われておりますし、17節でも同じく「洪水は40日間地上を覆った」と書かれております。けれども24節には「水は150日の間、地上で勢いを失わなかった」とありますから、ここに矛盾が生ずるわけです。
 そしてもう一つは、箱舟に乗せる動物の数です。2節には「清い動物を全て7つがい、清くない動物をすべて1つがいずつ取りなさい」と書かれているのに対して、8節以下では「清い動物も清くない動物も、~すべて2つずつ」と書かれているのです。この大きな矛盾に関して、疑問を持つのではないかと思うわけです。
 結論から申しますと、再三申し上げているように、これはJ文書とP文書の、資料の違いという事です。「40日40夜と7つがい」の方がJ文書、「150日と2つずつ」の方がP文書ということになります。これが編み込みのように編纂されて、今のノア物語が形成されているのです。 
 しかしこのように一見矛盾することであっても、実はそうではない、という解釈もなされております。月本昭男という旧約学者が言っているのですが、P文書は全体を1年間の時間の枠組みの中に収めている、という見解です。つまり40日間雨が降り続き、150日間水がみなぎり、150日かけて水が引きます。そして最初の鳩を放って泊まるところがないので戻ってきますが、7日後にもう一度鳩を放ちます。オリーブの枝を持ってきたのを大地が乾いた徴として受け取り、それから7日間待ってから舟の扉を開ける、という経緯になっています。つまり40日+150日+150日+7日+7日=354日ということになりますが、これは当時の太陰暦の1年間とほぼ同じである、と月本氏は言います。
 また、ついの数に関しては、色々な見解があるわけですが、林嗣夫先生の「創世記」という本には(青少年のための聖書の学び「創世記」日キ教育委員会)次のように書かれております。’「~けれどもそういう役に立つ生き物だけでなく、神様はすべての生き物を一つがいずつ箱舟に入れ、絶えてしまわないようになさいました。その中には~いない方がいいと思われる~動物もいたでしょう。それでもノアは自分で勝手な判断をしないで、神様のご命令に従いました。勿論神様は人間に判断力を与え、それを使ってよい判断をするように導いてくださいます。しかし、ある時には、我々の常識をも判断をも超える命令を下されます」‘。このように書かれていました。つまり人間が正しいと判断することがいつも正しいわけではなく、心が罪に傾いている我々は、常に神様の御心に問い続けていかなければならないのだということです。「正しい人はいない、一人もいない」「善を行う者はいない。ただの一人もいない」(ローマ書3章10節)と言われているとおりです。
 さて今日の箇所7章の中から二つの言葉に注目してみたいと思います。
 まず一つ目は、’「ノアたちが箱舟に乗り込んだ後、箱舟は水のおもてを漂った」‘という18節の言葉です。この「漂った」という言葉の中には、主体がノア(つまり人間)の側にあるのではなく、神の側にあるということが示されています。この箱舟の漂流が意味することは、一切を神様に委ねていたということ。動力もなく、舵もない、ただ神の言葉によってその命令の中で、生きるも死ぬるもただ主にのみぞある、という事に身を置いて委ねる姿がここにあります。ここにノアが無垢だという所以があるのではないでしょうか。イエス・キリストは、神の国はこのような者たちのものである、と言って知恵も知識も、社会的な名誉もない小さな子どもを示しました。それは神が言われた通りに純粋に事を理解し、その通りに行なう、無垢なノアの姿を思い起こさせます。
 そして二つ目は、11節にある’「この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」‘という言葉です。この「大いなる深淵」という言葉は、実は天地創造の場面に出てきました。1章2節’「地は混沌であって、闇が深淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを動いていた」‘。そして1章7節’「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた」‘。つまりイメージとしては、水を真中から分けて上と下にギュッと押し込んで、押しとどめて、今もそれを制御している、ということです。もし神が
この押さえつけている手を外されたらどうなるのか。天地創造の時の混沌の状態、無秩序の中に飲み込まれてしまうというのです。原初に起こった状況はもう起こらないのではなく、神が制御をやめたとき、もう一度混沌が訪れる、ということです。つまり混沌という状況は、神の天地創造によって無くなったのではなく、神様が制御をやめればまた元に戻ってしまう、ということなのです。
 これは重要な神学的概念でして「継続的創造」(Creatio Continua)と言われています。私たちは神様の天地創造の箇所を読むとき、一度限りの出来事としてこれを読むのではないかと思います。つまり天地創造はもはや過去の出来事、私たちの生活に直接関係のない事柄であると考えてしまいがちなのです。しかし聖書は「そうではない」と言います。聖書は、神が現在も創造活動を継続されているということを語るのです。この継続的創造活動があればこそ、この世の中は天地創造以前にあった混沌の中に飲み込まれてしまうことがなく、私たちの世界は継続され、維持されているということなのです。
 ではこの世界で私たちはどう生きればよいのか。神様が継続され、未だ創造活動の中にあるこの世に対してどう生きればよいのだろうか、これを喚起し、問題提起を促しているのがこのノアの箱舟の物語であるように感じます。
 先週も言いましたが、メソポタミアなどの周辺諸国の類似の箱舟物語では、地上に人間が増えすぎてしまったために天上の神々が落ち着いて静かに過ごすことが出来なくなったため間引きしてしまおう、というのが洪水の原因でありました。しかし聖書は「人間の罪ゆえにである」とはっきりと述べます。また、6章1節-4節のネフィリム伝承が語るように、当時の王権に対する批判、体制批判がここに示されているわけです。このような世の中にし、人を人とも思わずに一部の人が世の中を牛耳っているこの世界に対して、神の御心が現されるように、という祈りがここに込められているのだと思います。
 ノアはアダムが死んだ後、初めて生まれた人ですから、言うならば、第二のアダムとして、人間の過ちが繰り返されるのではなく、善悪の木の実に手をかけることなく、神の命令に無垢に従って生きる生き方が現されているのです。これを読む我々は、果たしてどう生きればよいのでしょうか。単純にノアのように無垢に生きなさいということではなく、この世の中で、神の継続的創造活動に参与すること、関わることとは、現在の私たちにとって何を表しているのか。それは信仰者一人ひとりに与えられた、それぞれの生活の座において与えられる課題ではないでしょうか。そのことを今日の箇所から改めさせられます。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記4章1節-26節 2010年5月27日

 今日の箇所はカインとアベルの物語です。何度も聞いてきたことのあるこの話の中に込められた神様の言葉を共に聞きたいと思います。ブルッグマンという旧約学者はこの箇所について、「この世の中は、兄弟殺しが如何に醜悪で受け入れ難い行為であるかを知っている。わざわざ聖書に宣言させるまでもない。それゆえに我々は、この物語を道徳的な観点から取り扱うことによってつまらなくしてはいけない。」このように述べています。事実この箇所において兄弟殺しという事柄それ自体は、特にどのような仕方で、どのように行なわれたかについては述べられえておりませんで、8節のみによって手早く取り扱われております。つまりこの物語の語り手にとって重要なのは、人が罪を犯すこと、犯した罪が自らをどう蝕んでいくかということ。そして神と殺人者との関係、であります。

 そもそも人間世界において、「兄弟」という現実「姉妹」という現実は、それ自体喜びであり、厄介な問題ともなりえます。興味深いことに創世記は、全体を通して「兄弟」というテーマが、通奏低音として流れていることが分かります。アブラハムの系図では、イサク、ヤコブと続きますが、このヤコブの12人の兄弟が骨肉の争いを繰り広げることはご承知の通りであります。私たちが兄弟と共に生き、兄弟とのディレンマに満ちた歩みが与えられたことそれ自体が、神様からの恵みであり、また試練であるとも言えるのではないかと思うのです。

 さて、本文を見てみましょう。3章でエデンの園を追放されたアダムとエバが二人の子をもうけます。長男はカイン、次男はアベルでありました。カインは農夫に、アベルは羊飼いになったといいます。ユダヤにおいて通常長男が優勢に立つことは当たり前のことでしたから、この物語を読んだ人は誰もが、カインはアベルに対して優位な立場にいすることは当然のこと感じたのであろうと思います。

 カインという名前は、ヘブル語のカーナー「得る、造り出す」という動詞に由来しています。人の名前は神様での讃美として与えられるものと考えられていた文化の中にあって、カインという名前は喜び祝われた者を意味し、神様に存分に目を留められていることが分かります。つまり生命力の具現、生命への可能性が示されています。それに対してアベルという名前は「空気、無」という意味でありまして、生命の可能性のなさが示されています。この時点で聖書は、カインへの祝福が確証されたものという位置づけにするわけです。そして当然カイン自身も、自らの優位性と生命への可能性を自負する者として、すなわち長男として生きることの誇りと、同時に驕りを持っていたのでありましょう。そのため彼は、神様が自分の献げ物に目を留めなかったことに憤慨し、「激しく怒って顔を伏せた」のでありましょう。

 よく疑問にされることは、なぜカインの献げ物がいけなかったのか、ということでありますが、聖書にははっきりとその理由について語られておりません。一つの説として挙げられるのは、カインが単に「土の実りの物」を献げたのに対して、アベルは「羊の群れの中から越えた初子」を持ってきたからだ、とよく言われます。カロリー計算にうるさい現代人にとって、脂肪分はカットされるべきものという感覚があるかもしれませんが、飽食の民であるから言えることでありまして、砂漠の民、荒れ野の民からすれば、脂肪分は人間の摂取すべき大切な栄養源であり、大変に高価なものでありました。その高価なものを、さらにたくさんいる群れの中から良いものを選び出して献げたアベルの思いを神様が認めた、ということは想像に難くないことであろうと思います。しかし聖書は、状況証拠を残しつつも、明確な理由を述べておりません。実はここが大事なのではないかとも思います。つまり私たちはカインとアベルの行いの中に、どちらの中に非があり、どうすればそれを回避できたか、という因果関係を見つけ出そうとして聖書を読むと思います。なぜ神様はカインの献げ物を喜ばれなかったのだろう、神様がベジタリアンであればあるいはカインの方を喜ばれたのかもしれない、などとその理由付けをすると思うのです。しかし時として聖書は、私たち人間が求める合理的な説明や、納得のいく、説得力のある答えを提示してくれないことがあります。こうすれば神様は喜ばれる、と分かっているなら誰でもそのようにするでしょう。神様を信じていなくても、そうしておけば損は無い、無難に祀っておけとばかりに神様の好きなものを献げるでしょう。しかし今日の箇所が私たちに示すのは、神様の御心は分からない、ということであります。至極当たり前のことでありますが、意外とそのことを私たちは見落としがちです。どうすれば神が喜ばれるのか、何がすきなのか。そのことは聖書を読んでみても、ある程度しか分かりません。有限の私たちが、無限の存在である神様の細部にわたる思いを知ことなど到底不可能だということであります。

 つまり私たちは、神様の前にへりくだる、謙虚に身を慎む、ということしか出来ないと思うのです。神様の御心を何もかも知っている、と信じて疑わなかったのが、ファリサイ派の人たちです。イエス様はその彼らに否を唱えました。神の御心は神ご自身がお決めになる、と言って、律法主義的な神様の間違いを暴いたのです。
  
 私たちにとって神様とは、支え、守り、導いてくださる方であると同時に、絶対他者である方であります。私たちがどうあがいてもこれに太刀打ちできない、神の主権の下で働かれる絶対他者。これが我々の信じる神であるのです。その意味において、カインの献げ物を喜ばれなかったことは、神の下に正しく、私たちはそれを受け入れる民でしかありえないのです。その意味で、今日の箇所に対して私たちは、神様の行いの正しさや真偽を問うのではなく、絶対者である神様のなさった答えに対してカインがどう答えたのか、このことが重要になってくるのです。

 自分の献げ物に目を留められなかったカインに対して、6節で主は言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しくないなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。このように言われました。難しい表現ですのでこれを意訳するとこうなります。「良心にやましいことがなければ、落胆する必要はない。もしやましいことがあるなら、現在の自然な感情を、自分でコントロールせよ。野放しにされた感情は、あなたを罪へと巻き込んでいく」。このようになります。
つまりここでカインの中にやましさがあったと受け取ることも出来ます。カインの献げ物には心が無かった。神様への最も良いものを献げるという信仰がなかった。だからカインは感情を野放しにする方を選んだのではないでしょうか。

 最初の人間の死は、自然死ではなく、殺人でありました。このことが人間を象徴している、皮肉と言う事もできましょう。カインの兄弟殺しについては、8節のみに記されています。どうやって声を掛け、どのあたりの野原に連れて行き、何によって殺したのか、などの詳細な描写は省かれています。つまり最初に申し上げましたが、ここで重要なのは、カインの殺人それ自体ではなく、彼の罪に至る心なのです。

 9節~16節は「カインの裁判」と呼んでいる注解者がおりました。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と主は呼ばれました。しかしこれは本当にどこにいるのか分からなくて言ったのではなく、カインが自分の罪にどう向き合い、どう悔い改めていくかを促す言葉と捉えてよいと思います。

 カインは結果的に、さまよい人として追放されることになりました。アダムとエバがエデンから追放されたことも記憶に新しいのに、その長男が次男を殺し、同じく追放されてしまうわけです。これが人間の現実だと聖書は言います。林嗣夫先生は、この追放されたカインを「選びの民から外されたという意味で最初の異邦人である」と言っています。面白い解釈であると思いつつ、それもまた事実であるとも思います。しかしこの異邦人となったカインのために、神様はどうなさったでしょうか。選びの民から外れた、罪を犯した、しかも殺人という神の似姿としての人間を殺すという罪の最たるものを見せ付けられる出来事に対して、神のなさり方は、私たちの想像を遥かに超えるものとなりました。

 すなわちこうです。13節「カインは主に言った『私の罪は重すぎて負い切れません。今日あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会うものは誰であれ、私を殺すでしょう。』主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は誰であれ、7倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者が誰も彼を打つ事の無いように、カインにしるしをつけられた」。このうに神様は宣言なさいます。神様は、兄弟と和解をせず、一方的に殺すという行為に走ったこの一人の人間を、手放さなしませんでした。混乱の状態の中にあるカインをも主はお招きになります。神は彼に安全の保証としてのしるしを与え、遠く離れた場所においても祝福を受けることを確認させるのです。最後に旧約学者のブルッグマンの言葉を引用して終わりたいと思います。「聖書の信仰は明快である。兄弟に対する粗暴な振る舞いは、死に値する行為である。しかしそれにもかかわらず、生きる事を求める神の御旨は、死の判決を受けた者に対しても働いている。~神は殺人を犯す者に対しても関心を失っておらず、彼について諦めておられないことを告げているのである」(現代聖書注解「創世記」)。 

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記3章1節-24節(Ⅱ) 2010年5月20日

        
  蛇の誘惑を受けたエバは、決して食べてはならない「善悪の知識の木」から取って食べ、またアダムも同じくそれを口にしました。それによって彼らは自らが裸であることを悟り、イチジクの葉をつづり合わせて腰布とした、とあります。

  今日の箇所3章の後半は、神様が庭師であるアダムとエバを呼び、彼らに説明を求めていることが書かれています。前回も申し上げましたが、神様はまずアダムに説明を求め、彼はエバの責任(ひいてはエバを作った神様の責任にしている!)にし、エバは蛇の責任にしています。そして面白いことに、神様は蛇に対して説明を求めていないわけです。私たちはこの箇所を読むとき、なぜ蛇がアダムとエバを誘惑したのか、という疑問が沸き起こると思います。誘惑するということはこの蛇にとって何らかのメリットがなければそんな唆しはしないし、見つかった場合自分にもその罪が振り掛かるわけですから、理由無く危ない橋を渡らせることはしないと思います。考えれば考えるほど疑問が出てきますが、しかしこの話の中で重要なのは、そういう細かいことを追及することではなくて、誘惑した者が悪いのではなく、神様との約束(契約)を知りながらも破ってしまう人間という存在に関して知るということ。それがこの箇所の中心点なのです。私たちは誘惑する人と、誘惑される人、どちらにも非があると考えます。しかし今日の箇所が言っているのは、誘惑される側、人間の側の問題の追及です。これは1章26節の我々の存在の本質とも関係しています。つまり、私たちが神の似姿として創造された、ということです。神の似姿、すなわち神の尊厳をまとったと看做されている人間が、神の約束を遵守できないものとなってしまったことが問題なのです。

  神の似姿とは何か、ということが、1章を学んだ時に質問にあがりましたが、F.トリブルという旧約学者は「神の似姿とは、ちょうど月をさしている人差し指のようなものだ」と言います。「指そのものは月ではないけれども、その指が示す方向を見ていくと月を見ることが出来る。それと同じように男と女は神の形そのものではないけれども、男と女の関係を見ていくと神の像が何であるのかが分かる。そして神の像そのものは神ではないけれども、神の像とは何かを見ていくと神が分かる」。このように言います。 つまりここで問題になっているのは、男と女の関係の中で、責任の押し付け合いをしているこの関係性の中に神の似姿を示す指は存在しない、ということが暗示されているのではないかと思います。そのため、蛇の誘惑にではなく、誘惑に遭いそれに負けた神の似姿としての人間の責任を問うておられるのではないでしょうか。


 ここでもう一つ注目したいことは、神様が最初に約束されたことがここで起こっていないということです。つまり、2章17節「ただし善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」このような約束がされていました。しかしここでアダムたちは生きているわけです。必ず死んでしまう、といいながらも、彼らはこのあとも暫く生き続けます。これは何を意味しているのか。ということが疑問になると思います。神様は嘘を言われたのだろうか。それとも神様の勘違いだったのだろうか。そんな議論もなされます。

  しかしこれらの矛盾は、これまでに様々な聖書学者たちによって考えられてまいりました。そして大きく分けて5つの説に区分できる。
 ①死なない存在だった人間が死すべき存在となった。(E.Speiser U.Cassuto) 
 ②古代人はこのような矛盾に気づかなかった。(H.Gunkel C.Westermann) 
 ③神の寛容。(関根正雄)
 ④神との霊的な関係が絶たれる(並木浩一)。
 ⑤しかし関根清三は第5の説を提唱する。「~2:17において神が嘘を吐いた、との解釈であ       る。~勿論この問いは我々の神義論的拒否感を引き起こすが、嘘には少なくとも二つの位相      がある。即ち、己の利益のために吐く嘘と他人のことを想って吐く嘘である。」(日本聖書      学研究所 「聖書の使信と伝達」 聖書学論集23 山本書店)この見解は大変興味深い。な      るほど、熱いお茶の入った湯呑を触ろうとしている乳幼児に対し、母親は「火傷するから触      っちゃだめよ。」と、少々大袈裟に、実際は火傷をするような熱さでなくとも言うではない      か。それこそ「己の利益のために吐く嘘」ではなく、まさに「他人のことを想って吐く嘘」      であるように思える。


以上のようにいくつもの説があるわけですが、重要なことは、ここでは実際の生命的な断絶としての死がもたらされた、というよりも、『神様との関係との断絶』が語られているのではないか、ということであります。私たちは3章5節の「どれを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」の言葉が、一つのキーワードになっていることに注目したいのです。つまりここに示されているのは、人間が人間であることをやめて神のようになる、という人間が心の奥底で持つ高ぶり(おごり)の心であります。私たち人間の中には、人間であることよりも、神のようになりたい、という超人的な存在となる事を求める心があるということです。

 川端純四郎という先生が次のようなことを言いました。
 宗教というものは、大きく分けて3つのパターンによって成り立っている。仏教型、新興宗教型、キリスト教型の3つである。仏教型は「無の宗教」。つまり諦めの中と、人間が人間という存在に固執しない中に生きることによって解脱し、この世的な感覚から抜け出すことが出来るものである。そして2つ目の新興宗教型は、人間が人間の限界に挑戦し、人間であることから神の領域へと向かおうとする、超人になろうとする宗教である。これは特にオウム真理教が問題を起こした時に報道されていた通り、水の中で何分間息を止めていられるか、修行によって座禅のまま宙に浮くことが出来るのか、などのようなものである。しかしキリスト教型は和解の宗教と川端氏は言う。神との関係の修復、関係性の再構築。これが神との和解である。

 前前回から言っていることですが、彼らは裸であった「ので」恥ずかしがりはしなかった、という読み方が採用されるならば、この二人はお互いに向き合って、素直な関係の中に生き、そして支えあうために神様は男と女を創造された、と言う事ができます。しかし善悪の知識の木の実を食べ、彼らはお互いに隠しあう存在となりました。そしてお互いのみならず、神様からも自らの身を隠す
者となりました。10節「彼は答えた。あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから」。アダムはこのような自己意識を持つのです。つまりここに「必ず死んでしまう」という主の約束された言葉の真実の意味があると思うのです。蛇が問題にしていたのは、生物学的な生命活動の停止としての死でありました。しかし神様が問題にしていたのは、神と人との関係の死であったということです。それは神と人間との関係の崩壊であり、人間が神から授かった人間性を喪失した、ということなのです。ここに人間の原罪があり、この罪の中に人間は生きる存在となってしまった、というのです。
 この原罪を持ってしまった人間に対して神様は14節で、「このようなことをしたお前は、~呪われるものとなった」と言い、男と女に別々の苦しみを課せられます。なぜ女性は苦しんで子供を産むのか。なぜ男性は地を耕して生涯ひたいに汗して働き、遂には死んで塵に帰るのか、の理由がここに示されています。それが15節から19節に書かれている内容です。
 この中で一つだけ言うべきことは、16節の「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む」。という翻訳は実は間違っているのではないか、と言われだしたということです。以前この箇所の言葉は完全な人間への神の呪いとして考えられてきました。しかし現在の研究によりますと、ここには神の呪いと同時に、神の祝福が語られている、という読み方です。
 ここでは「孕みの苦しみ」とか「苦しんで子を産む」のように、孕みと苦しみ、出産と苦しみを続けて訳されています。これは直訳ですと、「あなたの苦しみと妊娠を大いに増す。あなたは苦しみの中で息子たちを産む」となる、というのです。つまりここでいう「苦しみ」は出産の苦しみではなく、生活上の諸々の労苦としての苦しみであると。そういう多くの労苦があっても、その中で神の祝福としての妊娠、子供たちの出産が約束されているということであるから、ここに祝福があるのだ、という解釈であります。創世記が書かれた当時のユダヤ人にとって父権制社会が当たり前ですし、妊娠は神の祝福、子ができないのは神の呪い、という直接的な価値感覚の中で生きていましたから、妊娠は言葉上それだけで祝福なわけです。ですから出産の苦しみが神の戒めを破ったことに対する罰である、という理解は修正されねばならない、とある学者たちは言うわけです。
 そして最後の20節~24節に、この女性が「エバ」と名付けられたと記されています。理由は彼女が全て命あるものの母となったからであると言います。(ハッバー(ヘブル)「命」)。彼女は命との強い結びつきが意識されてエバと名付けられました。なぜ彼女が命と強く結びついているのかは明らかではありませんが、おそらく2章23節の言葉、アダムとの関係つまり人間同士の関係と、神との関係を、罪と生命の中で問おうとする、という意味で、彼女は人間の本質としての「命」をその名前に受けた、のではないでしょうか。
 そのアダムとエバですが、彼らは結果的に、罪を犯しました。そしてエデンの園からの追放。つまり失楽園の出来事を迎えるわけです。23節「主なる神は彼をエデンの園から追い出し~」とあるように、神様は2人を追放したということです。約束を破ったペナルティーは失楽園でありました。しかし私たちは一つの言葉に注目したいのです。それは、23節の追放の言葉の前に、21節「主なる神は、アダムと女に、皮のころもを作って着せられた」。このようにあります。これは明らかに審きを越えた神様の保護であります。神様は彼らの罪をほったらかしに致しません。厳しく追及なさり、罰を与えられます。しかし裁くと同時に保護するのです。これが創世記の著者の神理解であります。神は裁いて追放して、あとは知りません、というのではなく、人間に対して、神様はどこまでも人格関係の中に立とうとなさっている、ということです。人間は神の前から身を隠し、避けてやり過ごそうとします。しかし神は人間に向きあうのです。逃亡しようとした人間に対して、向き合おうとしない我々に対して、その関係に否定せず、むしろ保護されるというのです。ここに創世記の書かれた状況による、神理解が示されています。神は捨て置かれない。たとえバビロン捕囚に遭って人質となろうとも、この捕らわれた我々は神に捨てられたわけではなく、今尚、神の保護を受ける存在足りえるのだ。犯した罪は非常に大きい。神との約束からの離反。破戒を行なった人間がいる。しかし神はそのような私たちですらも守られ、愛される方であるわけです。「神はその一人子を世の中にお与えになったほどに、世を愛された」と言われる神がここにおられる。このことを覚えたいと思います。

聖書の学びと祈りの会 聖書研究ー創世記2章4節b‐25節 2010年5月6日

  この箇所でのキーワードは「人間の創造」であります。「主なる神は、土の塵で人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」(2章7節)。先週も申し上げましたが、進化論と人間の創造の関係は、私たちにとってのチャレンジとなります。では現代的にこれをどう聞くのかということですが、私たちはこの話しによって進化論と信仰を二者択一にしてどちらかを切り捨てねばならない、と考える必要はありません。この記述は、史実としての物語ではなく、1章同様に、これも信仰告白の一つである、と考えてよいのではないかと思います。つまり象徴的に書かれている。人間は神とどのような関係にあるのか。男と女がどのような関係にあるのか。そして人間同士がどのような関係にあるのか、という事です。史実としての真実ではなく、真理について語られていると言い換えた方がよいでしょう。

  今日は4節bからということになりましたが、これは先週も言いましたように、4資料説(ヴェルハウゼン仮説)によって、祭司文書(P資料)からヤハウェ文書(J資料)に変わっている境目が4節である、と考えられているためそのように区切らせて頂きました。7節では「主なる神は、土(アダマ)の塵で(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。1章27節で既に人は作られているのに、2章7節で重複している、と思われるかもしれませんが、それは先ほどのP文書とJ文書のように、資料が違っているからです。これを聖書自体の矛盾と捕えるのは、聊か早計であろうと思います。

  8節ではエデンの園が設けられています。この「エデン」という詞の意味は、「歓喜」とか「喜び」という意味があるのではないかと言われています。しかしそれに対して、古代中近東の共通言語のアッカド語では「イディンヌ」という言葉がありまして、これが「荒れ野」という意味であり、「エデン」は「イディンヌ」に由来するとも言われております。勿論文脈から考えますと、エデンの園が荒れ野であるとは考えにくいのですが、言葉自体の由来としてはそうであるのかもしれません。エデンは大変豊かな場所としてイメージされています。そういう意味では歓喜の喜びの園である、というようがしっくりいくと思います。

  ここに2本の木が生えています。「命の木」と「善悪の知識の木」です。この2本の木が具体的に何の木であるのかは記されておりません。しかし命の木はナツメヤシをイメージしていたのではないか言われます。中近東の暑い砂漠の中で、椰子の木とオレンジ色の椰子の実が命を満たすオアシスになります。砂漠という死の世界でナツメヤシは命の木として強い印象を持っていたのではないでしょうか。「マイムマイム」というフォークダンスがありますが、ヘブライ語で水の事を「マイーム」と言います。つまり「水だ水だー」と言って歓喜の踊りをする、というのがあのダンスであるということです。砂漠の国では、水に苦労しない日本人とは違った感覚の中を生きているわけです。
次に「善悪の知識の木」に関してですが、これを食べて人間は神との約束を破るものとなった、ということですが、伝統的にこの実は「リンゴ」であるとされることが多いと思いますが、どこにもリンゴであるとは書かれていません。その理由はラテン語に由来するようです。中世の教会ではラテン語が公用語でありまして、ラテン語でリンゴの事を「Malus」マルスと言います。これに対して最後のSをMに変えますと「Malum」マルムとなって「悪」を意味する言葉になる、ということです。そこで神の命令に背いたこと、つまり悪を犯した木の実、ということで「マルス」リンゴで表わされるようになった、と言われています。
 
  10節以下には、4つの川の名前があります(ピション、ギボン、チグリス、ユーフラテス)。ここに著者(編者)にとっての世界観が示されています。神がこの世を造り、エデンの園から水が流れ出て全世界に広がっているという世界観です。ハビラ地方とはアラビア半島のことと言われます。ギボンは、クシュ地方の川と言われています。クシュがエチオピア周辺の事であるとするなら、ギボンはナイル川ではないかと考えられます。

  次の15節にはこうあります。「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園の全ての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』」。ここに「人間はなぜ創造されたのか」という命題の、答えの一つがあります。つまり「地を耕し、守ること」これが人間に与えられた使命である、というのです。地とは文字通り地の事、大地の事です。耕すとは、もともと「仕える」という意味の言葉であるということです。ヘブライ語には他にも耕すという言葉があるそうですが、それをあえて使わないで、「仕える」の意味の単語をあてているわけです。これは意図的なものと考えてよいと思います。つまり人間の生きる目的とは、地に仕えてこれを守ること。それが使命であり、目的である、ということです。1章26節にはこうありました「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海のうお、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。この「支配」という言葉がネックとなって、キリスト教会は自然破壊の思想を持っていると糾弾されます。現代の自然を破壊しているのは、これを支配してよい、と聖書に書かれてあるからだ、極めて人間主義的で暴力的になりやすい思想を持っているのだ、と批判されます。一キリスト者としてそのような批判は心の痛い言葉であります。しかし1章(つまりP文書)と2章(J文書)は対照的な解釈です。Pでは地を支配し、Jでは地に仕える。支配することと仕えることは、ある意味で矛盾したことでありますが、これが聖書の面白さです。一方的な概念の中でではなく、互いに矛盾しあうようなことを平気で並列させ、ここに書かれてある真意を読み取れ、と私たちにチャレンジを仕掛けているかのようでありましょう。

  18節以下を見てみましょう。「人間が一人でいるのは良くない。彼の為に相応しい助け手を作ろう」と神が言います。そしてこの最初の人アダムが寝ている隙に、あばら骨を一本取り出して、もう一人の人を造った。それがアダムの助け手となる「女」となるわけです。これを根拠に古来キリスト教では、男が最初に作られて、女は後に作られた、と考えられてきたわけです。ある種の男尊女卑と言いますか、男性優位主義の家父長制度を確立させるわけで
す。しかしよくよくこの箇所を読んでみると、意外な事が分かります。つまり「最初に作られたアダムという人が『男であった』」、とは何処を探しても書かれていないわけです。「ただ『人を造った』」と言われているだけであります。最初の段階では「人」は男であるとはどこにも書かれていない。つまりもう一人、性の異なる人を造った時、初めて男と女という性区別が付けられたわけです。ですから男と女の誕生は同時である、と聖書は言っているのです。男性という性は女性という性がなければ成り立たず、その反対もまた然りであります。しかしアダムが後になって男性である事が明らかになると、最初からこれを男として読んでしまうという間違いが生じてしまうわけです。
ですからここには、男が優れているとも、女が優位であるとも書かれていません。男性も、女性も、元々は土の塵のような儚いものであるが、神が命の息を吹き込んで生きるものとなった。すなわち人間は神なしには存在し得ない生き物である。このような神と人間との関係性について語られているのであります。
 
  次に注目したいのは、最後の節であります。人が男性と女性とに別れたのち、24節以下で次のように言われています。「それで人は、その父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。
 高柳富夫氏は「二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」という一文に問題があると言います(「いま、聖書を読む」梨の木舎)。旧約聖書はヘブル語で書かれているのですが、ヘブル語では「しかし」と「そして」というのは同じ言葉が使われます。ですから文脈によって使い分ける必要があります。つまり「人前で裸になるのは恥かしい」という先入観をもってこの文を訳してしまうと、「二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」と訳されてしまうのです。しかし本来は「二人とも裸であった、だから恥ずかしいとは思わなかった」。と訳すことも出来るわけです。そしてそう解釈する人もおります。「裸である、だから恥ずかしくない」。と言うのはおかしく感じられます。しかしそれは「裸は恥ずかしい」という私たちの先入観があるからと言えます。

  ではここで聖書が何を言っているかという事ですが、この「裸であるから恥かしくなかった」というのが、この男女が一対一で向き合う関係の質を持っていた、という事を示しているのであります。つまりお互いがお互いに対して全く警戒しない関係。何も身構えることなく、お互いに対して裸でいられる事が出来る関係にあったというのです。人間は自分を隠します。また、自分以上の自分を装って虚勢を張ろうとします。しかし人間の本来の関係はそのようなものではないと創世記は言っているわけです。お互いが、ありのままでいられる関係。それこそがふさわしい助け手としての人間同士の関係である、と聖書は言うのです。

  24節には「父母を離れ」とありますが、最初の男女が父母を離れることなど起こりえませんから、これは明らかに矛盾ですが、創世記はそんなことはお構いなしに語ります。なぜなら創世記の出来事は、何度も言っておりますように、客観的な歴史事実を性格に語ることがその本分なのではなく、本質において男女の人間とはどのような者であるのか、が言いたいのです。

  つまり、一対一で向かい合人間同士の男女の関係。父母といういわゆる血縁関係を離れて霊的関係に結ばされる人間の関係が重要なのだと言い換えても良いかも知れません。人間はこの世に仕えるために、この世を愛するために造られ、人間同士の本来の関係も又、神の名によって結ばされた者として愛し合うために造られた。このことが今日の2章で言われているのではないでしょうか。