2026.5.24 週報掲載の説教

2026.5.24 週報掲載の説教

神の息が吹き込まれるとき
          ―教会のはじまり

使徒言行録2章1節〜11節

鈴木美津子

 
本日の礼拝は、「教会のはじまり」の出来事であるペンテコステを覚えます。キリストの教会は、人が「始めよう」として始まったのではなく、神が働かれて始まりました。弟子たちは、聖霊が与えられるというイエス様の約束の言葉を受け、祈りつつ一つの場所にとどまっていました。しかし、その約束がどのように実現するのかは、まだ誰にも分かっていませんでした。それでも彼らは、神がなさることを信じて待っていたのです。ここに、教会の最初の姿があります。

―そのとき、突然、激しい風のような音が天から起こり、炎のような舌が一人一人の上にとどまりました。そして弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに語り始めます。この出来事は、人が起こしたものではなく、神ご自身が働かれた出来事でした。

外には、五旬祭のために様々な国から人々が集まっており、それぞれが自分の言葉で弟子たちの語る言葉を聞いて驚きます。ここで起こっているのは、違いがなくなることではなく、違いがあるまま、それぞれに届くという神の働きです。神は一人一人に合わせて、その人に分かる言葉でご自身のなさることを伝えておられます。

この出来事は突然のように見えますが、すでにエゼキエル書において「新しい心と新しい霊を与える」と約束されていました。神は人の心を新しくし、その中にご自身の霊を置くと語っておられたのです。ペンテコステは、その約束が実現した出来事でした。

キリストの教会はこの出来事によって始まり、今もなお神の働きによって立っています。私たちもまた、その中に置かれている者であるのです。自分の力によるのではなく、神が働いておられることに支えられて、御言葉に聞きつつ歩んでまいりましょう。

 

【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載

【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載

<主な決議事項・協議事項>

1.イースター募金送金先について

シロアムの友の会へ募金することとした。

2.イースター卵作りについて

4月4日(土)10時~ イースター卵作りを行う。受付に

用紙を置き、奉仕者5名を募ることとした。

3.日曜学校進級式について

4月5日(日)イースター礼拝後の報告時に進級式を行うこと

とした。

4.ペンテコステ礼拝について

信仰50周年大嶋幸子さんの祝いの品を事前に訊いておく。

礼拝後は「茶話会」を行うこととした。

5.来年度神学校卒業予定神学生の祈祷会奨励について

神学生北村幸啓(所属教会 旭川、 出席教会 世田谷千歳)

に依頼することとした。期日は未定

6.日曜学校礼拝開始時間変更に伴い、礼拝奏楽の練習時間を

9時45分〜10時15分までとすることとした。
  1. 3月29日(日)礼拝後、花壇の草取りを行うこととした。
8 .4月12日(日)上田教会との講壇交換の日について

・菅原正道牧師との昼食は長老2名が共にすることととした。(菊地晴子、森﨑千恵)

・当日の礼拝司式は長老 森﨑千恵が行う。

・礼拝では聖書協会共同訳を使用するので、鈴木美津子牧師が

プリントを準備する。
  1. 教会建設記念礼拝について4月19日(日)
・役割分担を確認した。長く礼拝を欠席している会員、近隣の

日本キリスト教会の教会に案内を送付する。

(ハガキ作成:森﨑千恵)

・合同礼拝とする。

・祝会の挨拶と開会・食前の祈祷:鈴木美津子牧師

・愛餐後DVD「ボンヘッファー」を上映する。

(DVD用意:執事薄田東正)

・閉会祈祷:長老菊地晴子

2026.5.17 週報掲載の説教

2026.5.17 週報掲載の説教

<2026年3月1日の説教から>

世に遣わされる者として

ヨハネによる福音書17章6節〜19節

鈴木 美津子

 
主イエス・キリストは、十字架を前にして弟子たちのために祈り、彼らを「父から選び出され、子に託された者」として父の御前に差し出された。弟子たちは、これから起こる逮捕や十字架の出来事を十分に理解できておらず、恐れや迷いの中にあった。しかし主イエスは、その現実を知った上で、弟子たちを祈りの中に置かれた。ここに示されているのは、完成された者の集まりとしての教会ではなく、祈られて生きる者の共同体としての教会の姿である。
主イエスは弟子たちを「世から取り去る」ことを願わず、「悪い者から守る」ことを祈られた。教会は、世から離れて安全な場所に閉じこもる群れでも、世の価値観に流される群れでもない。世のただ中に置かれながら、神に守られて生きる群れである。その歩みを支える拠りどころは、人の決意や信仰の強さではなく、神の御言葉である。主イエスは「真理によって彼らを聖なる者としてください」と祈られ、聖別を、世を離れることではなく、世のただ中で神のものとして歩むこととして示された。悔い改めとは、感情の高まりではなく、御言葉に照らされて歩みの向きが整えられることである。
さらに主イエスは、父に遣わされたご自身のあり方に連なるかたちで弟子たちを世へ遣わされた。弟子たちが遣わされる根拠は、彼らの覚悟や熱心さにあるのではなく、主イエスご自身が先立って身をささげられた出来事にある。この「遣わし」は、重荷を一方的に背負わせる命令ではなく、主イエスの祈りと献身に支えられて歩む道への招きである。
民数記6章の祝福は、礼拝の終わりの区切りではなく、神の名を帯びて生活の場へと遣わされる者への派遣の祝福である。レント(受難節)の歩みの中で、私たちは主イエス・キリストの受難を思い起こすだけでなく、祈られて遣わされる者として、御言葉に支えられつつ世のただ中を歩むよう招かれているのである。

2026.5.10 週報掲載の説教

2026.5.10 週報掲載の説教

<2026年2月22日の説教から>

栄光を返す祈り

ヨハネによる福音書17章1節〜5節

鈴木 美津子

 
主イエスは、弟子たちに語るべき言葉を語り終えた後、天を仰いで父なる神に祈られる。その祈りは、苦難を前にした嘆願というよりも、御子がその歩み全体を父に委ねる祈りであり、十字架へと向かう決断そのものが祈りとして差し出されている姿である。

祈りの冒頭で語られる「時が来ました」との言葉は、単なる時間の経過ではなく、神の救いのご計画が現実の出来事として進み始める決定的な時を指している。それは栄光ある勝利の時ではなく、裏切り、裁き、嘲り、そして十字架へと至る時である。しかし主イエスは、その「時」を避けることを願われず、「子があなたの栄光を現すように」と祈られる。ヨハネ福音書において、神の栄光は十字架にかけられる御子の姿において最も深く示される場所。主イエスはご自身の苦しみと死を、父の栄光が現される場所として引き受けられるのである。

さらに主イエスは、父から与えられた「権能」について語られるが、それは人を支配する力ではなく、人を命へと向かわせる力であり、ご自身の命を差し出すことによって「永遠の命」を示す力である。永遠の命とは、時間の長さとしての命ではなく、父なる神と御子イエス・キリストを「知る」こと、すなわち神との関係の中に生きる命である。この関係は、人の理解や信仰の完成度によって決まるのではなく、イエス・キリストによって与えられる。

主イエスが「わたしは業を成し遂げた」と語られるとき、出来事としては十字架はまだ起こっていない。しかしそれは、父から託された使命について、もはや引き返さずに引き受け切っているという告白である。この歩みは、旧約聖書イザヤ書42章に描かれる「主の僕」の姿とも響き合い、力や人の評価によらず、神の御心に忠実に生きる歩みである。

この祈りの中に、理解しきれず揺らぐ弟子たちも委ねられている。ここに教会の姿が示されている。教会とは、すでに答えを持つ者の集まりではなく、問いを抱えつつ、祈られて歩む群れである。レントの歩みに招かれる私たちは、主の受難の道を遠くから眺めるのではなく、祈られて生きる者として、その道のただ中に立たされているのである。

2026.5.3 週報掲載の説教

2026.5.3 週報掲載の説教

<2026年2月8日の説教から>

悲しみは喜びに変わる

ヨハネによる福音書16章16節〜33節

牧師 鈴木美津子

ヨハネによる福音書16章後半は、十字架を前にした夜、主イエスが弟子たちに語られた最後の長い教えの締めくくりである。弟子たちは主イエスと同じ食卓を囲みながらも、迫害や別れ、散らされることが語られる中で、不安と戸惑いのただ中に置かれていた。主が語られた「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる(16)」という言葉も、弟子たちを安心させるものではなく、かえって混乱を深めた。弟子たちは主の前にいながら、その意味を直接問いかけることができず、互いの間で語り合うしかなかった。

主イエスは、その弟子たちの悲しみを、子を産む女性の苦しみにたとえられる。ここで主が語られるのは、苦しみが軽くなるということではない。出産の苦しみがそうであるように、悲しみは重く、説明し尽くせない現実である。しかしその苦しみが、新しい命へと結ばれる出来事の中に置かれるとき、後から別の光のもとで受け止め直される。弟子たちの別れや沈黙の悲しみもまた、神の救いから切り離された出来事ではなかった。

復活の後、「その日」には、弟子たちは主イエスの名によって、父なる神に祈る者とされる。祈りは、努力して身につける技術ではなく、復活によって新しく開かれた神との関係そのものである。問いが消えてしまうのではなく、恐れの中で抱え込まれていた問いが、信頼の中で神に向かって語られるようになる。

弟子たちは主イエスへの信仰を告白するが、その信仰はなお弱く、この先に起こる出来事に耐えきれるものではなかった。彼らはやがて主を置いて逃げてしまう。しかしそれでも、主は弟子たちを見捨てず、「わたしは既に世に勝っている」と語られる。ここにある平安と喜びは、人の信仰の強さや理解の深さに基づくものではなく、イエス・キリストご自身がすでに成し遂げておられる勝利に基づくものである。教会もまた弱さを抱えながら、この確かな約束に支えられて、慰めの中を歩み続けていく。

2026.4.26 週報掲載の説教

2026.4.26 週報掲載の説教

<2026年2月1日の説教から>

真理の霊に導かれて』を

ヨハネによる福音書16章1節〜15節

鈴木美津子

 
16章で、主イエスは十字架を前に、弟子たちにこれから起こる現実を率直に語られる。「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである(1)」。それは弟子たちを怖がらせるためではなく、苦しみの中でも自分たちがどこに立っているのかを見失わないためであった。

主イエスは、弟子たちが会堂から追放され、信仰ゆえに居場所を失う現実を告げる。しかも迫害は、神に仕えていると思い込む者たちによって起こる。しかし主イエスは、弟子たちがその時「こんなはずではなかった」とつまずかないために、前もって言葉を与えられた。

それでも弟子たちの心を占めていたのは、「世から憎まれる恐れ」以上に、「主イエスが去って行く」という深い悲しみであった。だが主イエスは驚くべきことを語られる。「わたしが去って行くことは、あなたがたのためになる(7)」。それは、主が不在になるということではなく、聖霊――真理の霊が遣わされ、神の臨在がより近いものとなる始まりであった。

真理の霊は、罪・義・裁きについて世を照らす。罪とはキリストを信じないこと、義とは十字架と復活を通して示されたキリストご自身、裁きとはすでに神の側で確定したこの世の支配者の敗北である。弟子たちは世を裁く者とされるのではなく、神の働きが起こる現場に立たされる者とされる。

すべてを一度に理解できなくても、真理の霊は歩みの中で少しずつ導いてくださる。教会もまた、自らの知恵や正しさによってではなく、真理の霊の導きによって支えられている。浦和教会は今、新しい体制のもとで、対立や力ではなく、十字架によって与えられた和解と命に立ち、真の平和を宣べ伝える教会として歩み始める。