2025.10.19 週報掲載の説教

2025.10.19 週報掲載の説教

 
あなたの名を呼ぶイエス様
あなたは大切な存在です

ルカによる福音書19章1節〜10節

鈴木美津子

*本日の説教の要約です。

 
皆さん、自分の名前を呼ばれたとき、どんな気持ちになりますか。名前を呼ばれることは安心を与え、「私はここにいる」「私は忘れられていない」と感じさせてくれます。

今日の聖書に登場するザアカイもまた、名前を呼ばれた一人でした。彼は徴税人の頭として裕福でしたが、人々から「裏切り者」と嫌われ、宗教的にも「罪人」と呼ばれて孤独の中にいました。そのザアカイが、町に来られたイエス様を「どうしても見たい」と願い、木に登りました。群衆のざわめきの中で、イエス様は立ち止まり、彼を見上げて言われたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。

「おい、そこの人」ではなく、「ザアカイ」と名を呼ばれたのです。その一言は「あなたを知っている」「あなたは大切だ」というメッセージでした。孤独に縛られていたザアカイの心は解き放たれ、彼は喜んでイエス様を迎えました。

当時、人々は「罪人」との交わりを避けました。罪人の家に泊まることは評判を失う行為でした。しかしイエス様はその壁を越え、「あなたと共にいたい」と言われたのです。ザアカイの家は、誰も訪ねることのなかった孤独な家から、主が泊まられる家に変えられました。そのとき彼の人生も大きく変えられたのです。

ザアカイは「財産の半分を貧しい人に施し、不正に取ったものは四倍にして返す」と言いました。富に縛られていた人が、他者のために生きる人へと変えられたのです。イエス様は宣言されました。「今日、この家に救いが来た」。

「今日」からザアカイの新しい人生が始まりました。孤独から解放され、人と結び合い、神に愛されて生きる人生です。

イエス様は今も、一人ひとりの名前を呼んでおられます。
「あなたは大切だ。あなたは一人ではない」。この招きはあなたにも向けられています。イエス様と共に歩む新しい一歩を、今から始めてみませんか。

2025.10.12 週報掲載の説教

2025.10.12 週報掲載の説教

<2025年9月7日説教から>

主イエスの栄光

ヨハネによる福音書12章36節b〜43節

鈴木美津子

 
ヨハネ福音書は、冒頭から「光と闇」のテーマを描いている。「光」とは主イエスご自身、神の命と救いのしるしである。主イエスは「光のあるうちに歩きなさい」と語られたが、その直後に人々から身を隠された。光が隠されることは、十字架への道が始まることを意味している。

主イエスは多くの「しるし」を行い、神の栄光を現された。カナの婚宴のぶどう酒、病人の癒し、五千人の給食、生まれつきの盲人の癒し、そしてラザロの復活。これらはすべて「イエスは命の光である」ことを示す出来事であった。しかし多くの人々は信じなかった。自分の期待や利益に心を縛られ、真の光を見ようとしなかったからである。

ヨハネはこの不信仰を、イザヤの預言の成就として理解した。「苦難のしもべ」は人々に退けられ、軽蔑される姿で描かれている。その姿は十字架に向かう主イエスと重なった。また「心をかたくなにし、目を暗くせよ」というイザヤの言葉は、光を拒み続ける人間の心の現実を示している。光が差し込んでいるのに、その時に受け入れなければ本当に見えなくなってしまうのだ。こうした不信仰の現実は、当時の宗教指導者や議員たちの中にも現れた。

議員の中にも主イエスを信じる者はいたが、公に告白する者はいなかった。「神の誉れ」よりも「人の誉れ」を優先したからである。ここに信仰と不信仰の分岐点がある。信仰とは、心で信じるだけでなく、口で公に言い表し、行動で示すものである。

私たちもまた、人の評価や周囲の目を恐れて信仰を小さく隠してしまうことがあるのではないか。しかし主イエスは、人からの誉れを退け、神の誉れを愛し抜いて十字架の道を歩まれた。その十字架こそ神の栄光の現れであり、私たちへの救いのしるしである。
私たちは日々の生活の中で、光を選び取る決断へと招かれている。朝の光に心を開くとき、隣人への小さな思いやりを示すとき、そして祈りと御言葉に耳を傾けるとき、その一歩一歩が神の栄光に結びつく。弱さや迷いを抱える私たちも、光に照らされて新しい歩みへと導かれているのである。

2025.10.5 週報掲載の説教

2025.10.5 週報掲載の説教

<2025年8月24日説教から>

「光の子となるために」

ヨハネによる福音書12章27節~36節a

牧師  鈴木美津子

私たちは闇を恐れ、光を求める存在である。真っ暗な夜道や心の不安の中で、光は私たちに安心と希望を与える。旧約の預言者イザヤは「死の陰の地に住む者の上に光が輝く」と告げ、未来に来る救いと希望の光を示した。この光は単なる慰めではなく、神ご自身がもたらす救いのしるしであり、新約においてイエス・キリストにより成就した。

十字架を目前にした主イエスは「今、わたしは心騒ぐ」と語り、人としての苦悩を経験された。しかし主イエスは神の御心にゆだね、「御名の栄光を現してください」と祈られた。十字架を通してこそ、世界に命と光がもたらされ、人々を神へと引き寄せる救いが成し遂げられるのだ。主イエスの苦悩は、私たちの孤独や不安、痛みと重なる。だからこそ、主は私たちに寄り添い、光の道へ導いてくださる。

けれども人々は神の声を聞いても理解できず、期待との違いに戸惑った。私たちもまた、自分の思い通りの救いを望んでしまう。しかし神の救いは私たちの理解を超えて現れる。だからこそ、「光のあるうちに」光を信じ、身を委ねて歩むことが求められているのである。信仰とは、単なる知識ではなく、主イエスという光に自らをゆだね、導かれる方向へ歩み出すことにある。

主イエスを信じる者は「光の子」とされ、闇に支配されず、周囲に希望を照らす使命を担う。日々の思いやりの言葉や行動、弱い人を支える姿勢が光を放つ。どんなに暗い世界でも、光の子としての歩みは希望をもたらし、闇は決して光に勝てない。この光は特別なものではなく、私たちの生活の中に現れ、導き、周囲を照らす。

この光を信じ、小さな選択や行動に表すとき、世の中に希望の輪が広がる。私たちは今、世の光である主イエスを信じ、神に愛される「光の子」として歩むよう招かれている。光を信じて実践することこそ、私たちの喜びであり生きる力となる。光を信じて歩むとき、私たちは闇に怯えるのではなく、希望を抱いて前へ進むことができるのである。

2025.9.21 週報掲載の説教

2025.9.21 週報掲載の説教

<2025年8月17日の説教から>

命の広がり

ヨハネによる福音書12章20節〜26節

牧師 鈴木美津子

主イエスがエルサレムに入城されたとき、人々はローマから自分たちを解放する王を待ち望んでいた。しかし主は、軍事的な力で一民族を救うのではなく、全世界の人々に永遠の命を与える神の子として来られた。そのことを象徴する出来事が、過越祭に異邦人であるギリシア人が「イエスに会いたい」と願った場面である。ここに福音がユダヤ人の枠を越え、世界へと広がる転換点が示されている。このとき主イエスは、「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られた。栄光とは世の成功や名声を指すのではなく、十字架にかかって命を捨てることを意味していた。主イエスは「一粒の麦が地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と言われた。麦の殻が破れて初めて芽が出るように、主イエスの死によって神の命が全世界へ広がっていくからである。

さらに「自分の命を愛する者はそれを失う」と語られた。ここでいう「命を愛する」とは、自分だけを守ろうとする自己中心の生き方を意味する。自分の安定や利益を第一にして殻に閉じこもるなら、命は一粒のままである。しかし隣人のために仕えるとき、殻は破れ、そこから命があふれ出す。主イエスはその道を十字架と復活を通して示してくださった。

詩編67編は「神が私たちを祝福してくださいますように」と祈りながら、その祝福が自分たちの囲いの中に閉じこもるのではなく、「地の果てに至るまで」広がることを願っている。神の愛と祝福は決して私たちだけのものではなく、全ての人に及ぶもの。だからこそ、信仰者の歩みは「与えられた祝福を分かち合う」方向へと導かれる。私たちの日常においても、命を広げる小さな実践がある。家庭での祈り、困難を抱える人への励まし、社会での誠実な働き。その一つひとつが一粒の麦のように蒔かれ、やがて神の時に豊かな実を結ぶ。たとえすぐに成果が見えなくても、神は必ずその種を育ててくださる。

戦争や分断が続くこの世界にあって、和解と赦しを生み出すのは神の愛である。十字架において示された主イエスの自己犠牲の愛は、私たちを平和の器として用い、命を広げる力とする。今日、私たちもまた「一粒の麦」として、自らの殻を破り、隣人へ、社会へ、そして世界へと神の祝福を広げる歩みへと招かれている。

2025.9.14 週報掲載の説教

2025.9.14 週報掲載の説教

<2025年8 月3日説教から>

真の王は子ろばに乗っておいでになる

ヨハネによる福音書12章12節〜12章19節

鈴木 美津子

 
主イエスは受難の週の初め、エルサレムへと入場された。過越祭を前に都エルサレムは巡礼者で溢れ帰っていた。群衆はなつめやしの枝を振りかざし、「ホサナ、イスラエルの王に」と熱狂的に主イエスを迎える。彼らは、病を癒し、死者をも復活させた主イエスの力に魅了され、ローマ帝国から解放し国を建て直す王としての姿を夢見ていたのだ。しかしその期待は、人間的な力と支配による勝利を求めるものに過ぎなかった。

主イエスがエルサレム入城に際し選ばれたのは軍馬ではなく「ろばの子」であった。ろばは権力や武力を象徴するものではなく、労苦と従順のしるしである。旧約ゼカリヤ書に「見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」と預言されていた通り、主イエスは平和の王として来られた。人々の期待とは異なる謙遜な姿によって、神の国のあり方を示されたのである。

しかし弟子たちでさえ、その意味をすぐには理解できなかった。群衆もまた誤解し、やがて「十字架につけよ」と叫ぶようになるのだ。人々の熱狂は簡単に憎しみに変わり、王として迎えられたお方は十字架へと追いやられていく。けれどもその誤解や拒絶さえも、神は御計画の中に用いられる。十字架と復活によって、主イエスは人類の罪を贖い、真の救いを実現されるのである。

「ホサナ」とは本来「どうか救ってください」という祈りの言葉である。群衆は政治的解放を願って叫んだが、その叫びは結果的に、神の救いを宣言する言葉となった。人間の思いや言葉の限界を超えて、神は御業を進められるからである。私たちは自分の弱さや愚かさに気を取られがちであるが、真に支配しておられるのは神である。主イエスが「ろばの子」に乗られた謙遜な姿は、力や暴力ではなく愛と平和による王の姿を指し示している。今も世界では戦争や争いが絶えない。だからこそ私たちは、「ホサナ、主よ、どうか救ってください」と真の平和の実現を切に祈り願い、この平和の王を信じ従い歩み続けるのである。

2025.9.7 週報掲載の説教

2025.9.7 週報掲載の説教

<2025年7月27日説教から>

「ナルドの香油」

ヨハネによる福音書11章54節~12章11節

牧師  鈴木美津子

ラザロの復活は人々に大きな驚きを与え、「救い主が来られた」との大きな期待が生まれた。しかしユダヤ当局は、ローマからの報復を恐れ、主イエスを殺すことを決議した。ラザロもまた、多くの人を主イエスに導いたとされて命を狙われることになった。過越祭を前にエルサレム全体が異常な緊張に包まれていた。

そのただ中でベタニアの家では、静かで温かい食卓が囲まれていた。マルタは給仕として仕え、ラザロは復活した者として生きていること自体が証しであった。そしてマリアは、純粋で高価なナルドの香油を惜しみなく主イエスの足に注ぎ、自分の髪でぬぐった。その香りは家中に広がった。

その価値は一年分の賃金に相当するほどであり、弟子ユダは「貧しい人々に施すべきだった」と批判した。ユダの言葉は、もっともらしく聞こえるが、彼の心は主ではなく金に向いていた。主イエスは「そのままにしておきなさい。これはわたしの葬りの日のためである」と語り、マリアの献身を受け入れた。

さらに主イエスは「貧しい人々はいつも共にいる。しかしわたしはいつもいるわけではない」と言われた。これは申命記にある「苦しむ者に手を大きく開け」という命令を前提とした言葉である。日常において貧しい人を助けるのは当然の務めである。その上で、今この時に主イエスに仕えることのかけがえのなさが強調されたのである。

マリアの献身は決して無駄ではなく、家を満たした香りとなり、やがて全世界に伝えられる証しとなった。それは今日の教会にまで続く「献身の香り」である。私たちもまた、主イエスに生かされている存在そのものを証しし、マリアのように惜しみなく愛を注ぐ者でありたいと願いたい。

不安と緊張に満ちた時代のただ中で、私たちの生活もまた

容易ではない。けれどもマリアがそうしたように、主に心を

注ぎ、与えられたものを感謝をもってささげるなら、その場

はキリストの香りに満ちる。だから、今週もまたこれからも

私たちの小さな歩みがその香りを放つものとなることを願う

のである。