2025.4.20 週報掲載の説教

2025.4.20 週報掲載の説教

<2025年3月30日の説教から>

『母を弟子に託す ―新しい家族―』

ヨハネによる福音書19章25節〜27節

牧師 鈴木美津子

 
十字架のそばにいた4人の婦人たちは、ガリラヤから主イエスたちと共に行動していたと思われる。彼女たちは主イエスと弟子たちの身の回りの世話をしながら、しかし男の弟子たちと同じように、主イエスから直接、神の国の福音を聞き続け、弟子としての訓練を受けてきた者たちである。その中には、主イエスの母の姿もあった。男の弟子たちのほとんどは、早々に逃げ去ったが彼女たちは離れなかった。
しかし、十字架上の主イエスに対して、いったい何ができるのか。彼女たちにできることはただ見守ることだけ。それでも彼女たちは、その場から離れることができなかった。離れなかったのだ。どれほどつらかったことだろう。どれほど心が痛んだことだろう。特に、母の心を思うと辛くなる。しかし、母は、目を離さず、見守り続け、その苦しみを共有した。その場にもうひとり弟子がいたことが明らかになる。主イエスの「愛する弟子」であり、この福音書の著者と考えられているヨハネである。彼も4人の婦人たちと一緒に、主イエスの十字架のそばにいたのである。主イエスは、母を思いやり、言葉をかけた。母と弟子とを見て、母に「婦人よ、あなたの子です」と言われた。それから弟子に「見なさい。あなたの母です」と。自分が去った後の母の身を案じて、愛弟子に母を託したのである。弟子は主イエスの言葉どおり、「そのときから」主イエスの母を自分の家族、母と受け止め、引き取って面倒を見た。

しかし、この十字架上での主イエスの言葉は、肉親への配慮、愛、という以上に重要な意味をも含んでいる。それは、肉親以上の結びつきである「神の国、神の家族」ということである。主イエスは、信頼する信仰者である弟子に母を託した。あるいは、「わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と教えられたことを実現された、ということ。別の言い方をすれば、主イエスの十字架の死と復活は、それを信じる者を一つにするということである。具体的には、主イエスが死に、復活され、その主イエスが教会の頭となってくださったが故に、それを信じる一人一人は主イエスによって結ばれて共に神の家族となる。主イエスに結ばれた神の家族である。この神の家族としての交わりをこの教会の中心に据えて、これからも大切に歩みたいと願う。

2025.4.13 週報掲載の説教

2025.4.13 週報掲載の説教

<2025年2月23日の説教から>

『「わたしはある」というお方』

ヨハネによる福音書8章21節〜30節

牧師 鈴木美津子

 
主イエスは「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる(24」と警告された。「わたしはある」とは、「生ける真の神」の称号である。ですから24節は、「主イエスこそが生ける真の神である、ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」、という意味になる。つまり、主イエスを信じるか、信じないか、これが、人間が生きるか死ぬか、このいずれかを決めることである、ということであり、逆に言えば、主イエスこそが生ける真の神である、ということを信じれば、罪のうちに死ぬことはない、ということにもなる。これこそがキリスト教そのものである。キリスト教は、イエスが主であり、「わたしはある」という信仰の上に立っている。私たちが死から命へと移されている根拠もここにある。「わたしはある」、ここにこそ命がある。

この箇所で主イエスは三度、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と警告されたが、その罪は主イエスを信じないばかりか、主イエスを十字架の死へと引き渡すことへと至る。人間の罪は、神の御子イエス・キリストを十字架に上げるほどに、おぞましい。端的に言えば、人間の罪とは神を殺して自らを神とすることに極まる。しかし、その罪を覆ってしまうほどに神の恵みは豊かなものである。なぜなら、人間の敵意、殺意が最も燃え上がった所で、主イエスがご自分を神の御子であることを示されたからである。十字架の呪いの死を、それこそ陰府の最も暗いところに行くと信じられていた死を、主イエスはすべての人の身代わりとして死なれることで、ご自分がいつも父なる神の御心に適うことを行う御子であることを示された。ユダヤ人たちは、主イエスに対して「自殺でもするつもりなのだろうか」と嘲ったが、ある意味この言葉は当たっている。なぜなら、主イエスは十字架の死を御父の御心として受けとめ、自ら十字架の死を死なれたからである。そのようなことができたのは、このお方が、父なる神と共に歩まれた神の御子であるからだ。このことを信じるとき、私たちは自分の罪の外に出ることができる。わたしの罪のために十字架に上げられた神の御子を信じることによって、自らの罪から解放されて、主イエスの復活の命に生きることができるのである。

2025.4.6 週報掲載の説教

2025.4.6 週報掲載の説教

<2025年2月16日の説教から>

『わたしは世の光である』

ヨハネによる福音書8章12節~20節

牧師 鈴木美津子

 
主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(12)」と言われた。「世の光」とは、「世を照らす光」ということである。ヨハネ福音書は「初めに言があった(1)」と始まるが、そのあとで、「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている(1:4-5)」と続く。あるいは「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(1:9)」とある。主イエスこそ、この世を照らす光、道しるべである。かつてイスラエルの民は、荒れ野で迷うことがないよう、火の柱という光が与えられた。それと同じように、あるいはもっと確かな仕方で、主イエスは、光として私たちの行く道を照らしてくださる。詩編119編に「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らすともしび」とある。主イエスの行いや言葉は、私たちには聖書を通して示されている。であるから聖書こそが主イエスの光を映し出している。聖書こそが光であるのだ。
また「世の光」は、「世を照らす光」であると同時に、「世を裁く光」でもある。私たちは、光を求めると同時に、光を恐れる。光は私たちの暗い部分、罪の部分を汚れた部分、闇の部分をも、否応なく照らし出すものであるからである。光は裁きを伴っているからである。

主イエスは「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている(14)」と語っておられる。これは、もちろんご自分が父なる神のもとから、この世界にやってきて、やがてまた父なる神のもとへ帰るということを指し示しているのであるが、主イエスは、その前に「苦しみを受け、十字架にかかって死ななければならない」ということも知っておられた。主イエスがそのようなお方であるからこそ、まことの世の光であるのだ。「イエス・キリストは世の光としてこの世に来られた」というのは、クリスマスの大きなメッセージであるが、それは最後の十字架をも含んでいることなのである。

主イエスは、私たちの罪をそのような形で担っていてくださるからこそ、裁きでは終わらない、救いをも指し示しておられるのである。主イエスこそがまことの人生の道しるべとしての光であるということをしっかりと心に留めたい。

2025.3.30 週報掲載の説教

2025.3.30 週報掲載の説教

<2025年2月9日の説教から>

『わたしもあなたを罪に定めない』

ヨハネによる福音書7章53節〜8章11節

牧師 鈴木美津子

 
あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい(7)」

これは、誰も予期していなかった言葉であろう。しかし、誰もこの言葉に対して、反論することはできない。人々は、一人去り、二人去りして、最後には誰もいなくなってしまった。
私たちは他人の欠点、罪、過ちというのはよく見えても、自分自身のことはなかなか見えないものである。見えないにもかかわらず、見えていると思い込んでいる。勝手に自分でもみ消して、ないもののようにしている。自分の罪は棚上げにして、他人を責めて、他人の罪を裁こうとする。ところが一番の問題は、自分自身の中にあるのではないか。そういう問いかけである。主イエスの言葉は、「あなたにはその資格があるのか」と問いつつ、「本当に彼女を裁くことができるものは誰か」を指し示している。彼らの中には、その資格のある人は誰もいなかった。最後に残ったのは、この女性と主イエスだけであった。
主イエスは、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか(10)」と問う。女性が「主よ、だれも」と言うと、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない(11)」と言われたのである。主イエスは、この女性の罪を決して水に流してしまったり、もみ消したりしようとしておられるのではない。また逆に律法を否定したり、無視しようとされたりしたのでもない。律法は律法として、神の意志は意志として、罪は罪として、厳然と存在する。それをあいまいにすることはできない。罪の赦しということと、罪の是認ということは違うということを心に留めなければならない。

「わたしもあなたを罪に定めない」ということは、実は「その裁きは、私が引き受ける」ということなのである。罪は裁かれなければならない。徹底的に罪が裁かれて、その中から赦しの宣告がなされるのである。

私たちは、キリスト者として生きる時に、どちらかと言えば、この「律法学者やファリサイ派の人々」のように、人を裁いてしまうものである。主イエスはそのような私たちの思いをもその身に引き受けて、間違いをただしながら十字架におかかりくださったのである。そのことを深く心に留めたいと思う。

2025.3.16 週報掲載の説教

2025.3.16 週報掲載の説教

<2025年2月2日の説教から>

『主イエスを巡る対立』

ヨハネによる福音書7章40節〜58節

牧師 鈴木美津子

 
メシアはダビデの子孫で、ダビデの村ベツレヘムから出ると聖書に書いてあるではないか。(42)

メシアはガリラヤから出るのではなく、ダビデの子孫で、ダビデの村ベツレヘムから出る。この群衆とファリサイ派の主張に対して、私たちは反対するものではない。むしろ、マタイ福音書やルカ福音書の降誕物語を知っている私たちはアーメンとさえ言えるだろう。しかし、ヨハネ福音書は、主イエスがベツレヘムから生まれたことを記さずに、ガリラヤから出たものとして記している。この福音書は、ユダヤ人の誤解を誤解のままに放っておくような書き方をしているのである。なぜ、この福音書はそのような書き方をしたのか。

一つ考えられることは、ヨハネ福音書が主イエスの生まれをガリラヤでもベツレヘムでもないと考えていたということである。

私たちは、アドベントの期間をイエス様のお誕生を祝うクリスマスを待ち望んで喜んで準備をする。その喜びはどこから来るのか。そのことを考える時、私たちはヨハネが強調したいことがわかるであろう。主イエスのお誕生から2000年余もの間、キリストの教会はクリスマスをお祝いしてきた。それは主イエスがベツレヘムで生まれたからであろうか。確かに主イエスはベツレヘムで生まれました。しかし、究極的に言えばそうではない。クリスマスの喜びはどこから来るのか。クリスマスの喜びはベツレヘムからではなく、天から来る。永遠の神の独り子が私たちを救うために、私たちと同じ人となって生まれてくださった。そこにクリスマスの究極的な喜びがある。もし主イエスがユダヤ人たちが考えていたようにただの人間であったのであれば、ベツレヘムから生まれようとも、クリスマスの喜びはなかったであろう。クリスマスの大いなる喜びは、神が私たちを救うために、愛する独り子を人として遣わしてくださったことに尽きるのである。クリスマスの大いなる喜びは天から来ることを覚えて、私たちは毎年クリスマスを待ち望むのである。

2025.3.9 週報掲載の説教

2025.3.6 週報掲載の説教

<2025年1月26日の説教から>

『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい』

ヨハネによる福音書7章37節〜39節

牧師 鈴木美津子

 
仮庵の祭りのモチーフの一つは「水」である。この祭りの期間中、シロアムの池から汲んだ水を神殿に運ぶ行列が途絶えず、人々はその行事に陶酔していた。主イエスは、サマリアの女に、飲んでもすぐにまた乾く物理的な水から永遠の命に至る水を教えたように、この祭りのその行事で使われる物理的な水を用いて、永遠の命に至る水、つまり聖霊なる神を示された。ただの水に偶像崇拝的に陶酔する彼らに、真に礼拝しなければならない真の水が何であるかを示されたのである。

「生きた水」と訳された言葉は、正確に訳せば「生きている水」となる。常に湧き出で、流れ、躍動する水、命の源であり、命そのものである水。聖霊なる神が「生きている水」と喩えられる。また、「流れ出るようになる」とは、未来形をとっていて、この事態はまだ起こっていないが、やがて実現する、という意味である。39節の「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである」とは、それを説明しているかのようである。

「イエスの栄光」とは、十字架から始まる救いの御業の実現で、具体的には、十字架、復活、昇天、この出来事全体である。ですから、逆に言えば、主イエスが栄光を受けられると、“霊”が降る、ということである。これはペンテコステの出来事の予告をするそのための未来形である。ペンテコステ以降、聖霊が降り、信仰者の中に聖霊が泉の水源のように住まい給う、そこから、汲めども尽きぬ永遠の命の水が溢れ続ける、これはこの聖霊が与えられるという約束である。ですから、ペンテコステ以降のキリスト者には、必ず聖霊が与えられている。私たちもまた「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、その一人であるのだ。

主イエスの十字架と復活を信じる信仰者には、聖霊が降り、それぞれの中に住んでくださって「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と、この永遠の命の保証が与えられる。主イエスが実現してくださった十字架と復活での救いを、私たちに適用して下さるのが、聖霊なる神である。