2026.8.2 週報掲載の説教
【2026年5月17日の説教から】
『刺し貫かれた小羊』
ヨハネによる福音書19章31節〜42節
鈴木美津子
十字架の上で主イエスが語られた「成し遂げられた」という言葉は、すべての終わりではなく、神の救いの御業の完成を示すものであった。本日の箇所は、その後に何が起こったかを語っている。一見すると出来事は静かに、淡々と進んでいる。だがその中で、聖書の言葉がそのとおりに実現していることが示されている。
主イエスの足が折られなかったのは偶然ではない。「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現した出来事である。これは出エジプトの過越の小羊に関わる言葉であり、小羊の血によって滅びが過ぎ越され、民が守られたあの出来事と重なる。主イエスはその過越の小羊として、今ここにおいて現実となっている。
また兵士が主イエスのわき腹を刺したとき、血と水とが流れ出た。この出来事も預言の成就である。ヨハネはこれを目撃した者として証しし、私たちにこの出来事を見るように促している。主イエスは確かに刺し貫かれ、確かに死なれた。その死は単なる暴力ではなく、聖書に語られていた出来事として起こったものである。
その後、ヨセフとニコデモが主イエスの遺体を葬る。これまで人目を避けていた者たちが静かに動き出す。彼らの行為は特別なものではなく、遺体を包み墓に納めるという現実の営みである。しかしその中で聖書の言葉が実現していく。
このように、十字架の出来事は劇的な奇跡としてではなく、人の目には静かに進んでいく。その中で、神の言葉が現実となっている。ここにこの出来事の確かさがある。それは人の理解や思いによって支えられるものではなく、神が語られたことが歴史の中で真実として現れているからである。
教会はこの出来事の上に立つ。私たちは何かを付け加えるためではなく、このお方がなしてくださった事実の中に置かれている。この一週も、刺し貫かれた主のもとに立ち返りながら、それぞれの歩みへと進んでいく。
【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載
【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載
<主な決議事項・協議事項>
1.イースター募金送金先について
シロアムの友の会へ募金することとした。
2.イースター卵作りについて
4月4日(土)10時~ イースター卵作りを行う。受付に
用紙を置き、奉仕者5名を募ることとした。
3.日曜学校進級式について
4月5日(日)イースター礼拝後の報告時に進級式を行うこと
とした。
4.ペンテコステ礼拝について
信仰50周年大嶋幸子さんの祝いの品を事前に訊いておく。
礼拝後は「茶話会」を行うこととした。
5.来年度神学校卒業予定神学生の祈祷会奨励について
神学生北村幸啓(所属教会 旭川、 出席教会 世田谷千歳)
に依頼することとした。期日は未定
6.日曜学校礼拝開始時間変更に伴い、礼拝奏楽の練習時間を
9時45分〜10時15分までとすることとした。
・菅原正道牧師との昼食は長老2名が共にすることととした。(菊地晴子、森﨑千恵)
・当日の礼拝司式は長老 森﨑千恵が行う。
・礼拝では聖書協会共同訳を使用するので、鈴木美津子牧師が
プリントを準備する。
日本キリスト教会の教会に案内を送付する。
(ハガキ作成:森﨑千恵)
・合同礼拝とする。
・祝会の挨拶と開会・食前の祈祷:鈴木美津子牧師
・愛餐後DVD「ボンヘッファー」を上映する。
(DVD用意:執事薄田東正)
・閉会祈祷:長老菊地晴子
<主な決議事項・協議事項>
1.イースター募金送金先について
シロアムの友の会へ募金することとした。
2.イースター卵作りについて
4月4日(土)10時~ イースター卵作りを行う。受付に
用紙を置き、奉仕者5名を募ることとした。
3.日曜学校進級式について
4月5日(日)イースター礼拝後の報告時に進級式を行うこと
とした。
4.ペンテコステ礼拝について
信仰50周年大嶋幸子さんの祝いの品を事前に訊いておく。
礼拝後は「茶話会」を行うこととした。
5.来年度神学校卒業予定神学生の祈祷会奨励について
神学生北村幸啓(所属教会 旭川、 出席教会 世田谷千歳)
に依頼することとした。期日は未定
6.日曜学校礼拝開始時間変更に伴い、礼拝奏楽の練習時間を
9時45分〜10時15分までとすることとした。
- 3月29日(日)礼拝後、花壇の草取りを行うこととした。
・菅原正道牧師との昼食は長老2名が共にすることととした。(菊地晴子、森﨑千恵)
・当日の礼拝司式は長老 森﨑千恵が行う。
・礼拝では聖書協会共同訳を使用するので、鈴木美津子牧師が
プリントを準備する。
- 教会建設記念礼拝について4月19日(日)
日本キリスト教会の教会に案内を送付する。
(ハガキ作成:森﨑千恵)
・合同礼拝とする。
・祝会の挨拶と開会・食前の祈祷:鈴木美津子牧師
・愛餐後DVD「ボンヘッファー」を上映する。
(DVD用意:執事薄田東正)
・閉会祈祷:長老菊地晴子
2026.7.26 週報掲載の説教
2026.7.26 週報掲載の説教
【2026年5月10日の説教から】
『成し遂げられた救い』
ヨハネによる福音書19章17節〜30節
鈴木美津子
本日の御言葉は、十字架の上で主イエスが語られた「成し遂げられた」という言葉を中心に示している。この言葉は単なる終わりではない。力尽きて終わったという意味ではなく、神の救いの御業が完成したことを告げる言葉である。
主イエスは人々に引き渡されたが、ただ人の手に委ねられたままではない。「自ら十字架を背負い」とあるように、父なる神の御心の中で、この道を主体的に引き受けておられる。人に委ねられながらも、その歩みは神に向かって貫かれている。
十字架の上には「ユダヤ人の王」と記された罪状書きが掲げられる。本来は処刑理由を示すものであるが、人々はこれを書き換えようとした。しかしその言葉は書き換えられることなく残される。人が否定しようとしても、このお方が王であることは覆されない。王は玉座ではなく、十字架の上におられる。しかしその同じ場所で、人々は無関心の中にある。兵士たちは衣を分け合い、目の前の出来事の意味に心を向けない。一方で、十字架のそばに立つ者たちはその場にとどまり、主の言葉を受け取る。主は苦しみの中にあっても他者に向かい、新しい関係を与えられる。
さらに「渇く」という言葉において、詩編の祈りが重なる。主イエスはただ苦しんでいるのではなく、神に向かって叫びながら、なお神に向かっておられる。聖書の語ってきた祈りの道を、実際に歩まれているのである。
そして「成し遂げられた」と語られる。この出来事は偶然ではなく、これまで語られてきた神の約束がここで実現したことを意味する。救いは可能性ではなく、すでに成った事実である。
礼拝とは、この完成された救いの前に立つことである。私たちは何かを成し遂げるために集められるのではなく、すでに成し遂げられた御業によって立たされている。なお整えられている途上にあるまま、それぞれの歩みへと遣わされていくが、その土台は揺らがない。この御言葉に支えられて歩む一週間へと導かれていく。
【2026年5月10日の説教から】
『成し遂げられた救い』
ヨハネによる福音書19章17節〜30節
鈴木美津子
本日の御言葉は、十字架の上で主イエスが語られた「成し遂げられた」という言葉を中心に示している。この言葉は単なる終わりではない。力尽きて終わったという意味ではなく、神の救いの御業が完成したことを告げる言葉である。
主イエスは人々に引き渡されたが、ただ人の手に委ねられたままではない。「自ら十字架を背負い」とあるように、父なる神の御心の中で、この道を主体的に引き受けておられる。人に委ねられながらも、その歩みは神に向かって貫かれている。
十字架の上には「ユダヤ人の王」と記された罪状書きが掲げられる。本来は処刑理由を示すものであるが、人々はこれを書き換えようとした。しかしその言葉は書き換えられることなく残される。人が否定しようとしても、このお方が王であることは覆されない。王は玉座ではなく、十字架の上におられる。しかしその同じ場所で、人々は無関心の中にある。兵士たちは衣を分け合い、目の前の出来事の意味に心を向けない。一方で、十字架のそばに立つ者たちはその場にとどまり、主の言葉を受け取る。主は苦しみの中にあっても他者に向かい、新しい関係を与えられる。
さらに「渇く」という言葉において、詩編の祈りが重なる。主イエスはただ苦しんでいるのではなく、神に向かって叫びながら、なお神に向かっておられる。聖書の語ってきた祈りの道を、実際に歩まれているのである。
そして「成し遂げられた」と語られる。この出来事は偶然ではなく、これまで語られてきた神の約束がここで実現したことを意味する。救いは可能性ではなく、すでに成った事実である。
礼拝とは、この完成された救いの前に立つことである。私たちは何かを成し遂げるために集められるのではなく、すでに成し遂げられた御業によって立たされている。なお整えられている途上にあるまま、それぞれの歩みへと遣わされていくが、その土台は揺らがない。この御言葉に支えられて歩む一週間へと導かれていく。
2026.7.12 週報掲載の説教
2026.7.12 週報掲載の説教
【2026年5月3日の説教から】
『十字架へ向かう王』
ヨハネによる福音書19章1節〜16節
鈴木美津子
本日の箇所において、総督ピラトは鞭打たれ、茨の冠をかぶせられた主イエスを指して「見よ、この男だ」と言う。この主イエスの姿は、力を失い辱められた一人の人にしか見えない。しかしヨハネ福音書は、この場面を単なる敗北としてではなく、このお方が誰であるかが現される場面として描いている。王のしるしである冠と衣は嘲りのために用いられているが、その逆説の中で、このお方こそ真の王であることが示されている。王の栄光は、力による支配ではなく、父なる神への従順とへりくだりの中に現れるのである。
人々はこの王を受け入れず、「十字架につけろ」と叫び、「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と言って、神の王を退け別の支配を選び取る。本来神を王と告白してきた民が、自らその告白を否定しているのである。ここに、人が見える力や分かりやすい拠りどころに寄りかかり、神を退けてしまう現実がある。そのような選びの中で、バラバが釈放され、主イエスが引き渡される。罪ある者が放たれ、罪のないお方が十字架へと進む。この出来事は単なる入れ替わりではなく、本来その場に立つべきであった者の位置に、このお方が立たれるという出来事である。イザヤ書が語る「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのため」という言葉がここに実現している。
この十字架は偶然ではなく、御子が自らを差し出された歩みである。したがってこれは敗北ではなく、民のために自らを与える真の王の道である。
私たちは今、十字架と復活の間に立たされている。その場としての礼拝において、自らの現実と赦しの恵みを知らされる。そして聖餐において、この贖いにあずかる。十字架によって赦され、復活の命に生かされる者として、この一週もそれぞれの場へ遣わされていく。
【2026年5月3日の説教から】
『十字架へ向かう王』
ヨハネによる福音書19章1節〜16節
鈴木美津子
本日の箇所において、総督ピラトは鞭打たれ、茨の冠をかぶせられた主イエスを指して「見よ、この男だ」と言う。この主イエスの姿は、力を失い辱められた一人の人にしか見えない。しかしヨハネ福音書は、この場面を単なる敗北としてではなく、このお方が誰であるかが現される場面として描いている。王のしるしである冠と衣は嘲りのために用いられているが、その逆説の中で、このお方こそ真の王であることが示されている。王の栄光は、力による支配ではなく、父なる神への従順とへりくだりの中に現れるのである。
人々はこの王を受け入れず、「十字架につけろ」と叫び、「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」と言って、神の王を退け別の支配を選び取る。本来神を王と告白してきた民が、自らその告白を否定しているのである。ここに、人が見える力や分かりやすい拠りどころに寄りかかり、神を退けてしまう現実がある。そのような選びの中で、バラバが釈放され、主イエスが引き渡される。罪ある者が放たれ、罪のないお方が十字架へと進む。この出来事は単なる入れ替わりではなく、本来その場に立つべきであった者の位置に、このお方が立たれるという出来事である。イザヤ書が語る「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのため」という言葉がここに実現している。
この十字架は偶然ではなく、御子が自らを差し出された歩みである。したがってこれは敗北ではなく、民のために自らを与える真の王の道である。
私たちは今、十字架と復活の間に立たされている。その場としての礼拝において、自らの現実と赦しの恵みを知らされる。そして聖餐において、この贖いにあずかる。十字架によって赦され、復活の命に生かされる者として、この一週もそれぞれの場へ遣わされていく。
2026.7.5 週報掲載の説教
2026.7.5 週報掲載の説教
【2026年4月26日の説教から】
『真理の主イエス・キリスト』
ヨハネによる福音書18章28節〜40節
鈴木美津子
本日の箇所は、主イエスがローマ総督ピラトの前に立たれる場面である。人の目には、主イエスは裁かれる弱い存在のように見える。しかし福音書は、このお方こそ真の王であり、真理を示すお方であることを明らかにする。
宗教指導者たちは、過越の食事を守るために汚れを避けようとしながら、同時に主イエスを死に引き渡そうとしている。本来、神の前に正しくあろうとする行いが、神の子を退けることと結びついてしまっている。ここに信仰のねじれがある。神は行いの形だけではなく、その人がどこを向いているかをご覧になる。
ピラトは「あなたはユダヤ人の王なのか」と問うが、その関心は政治的な危険性にある。しかし主イエスは問いを問い返し、「あなた自身はどう受け止めているのか」と迫られる。信仰は、人から聞いたままではなく、自ら主の前に立って問われるところに始まる。
主イエスは言われる。「わたしの国は、この世には属していない」。それはこの世と無関係という意味ではなく、力によって成り立つ国ではないということである。主イエスは力で人を従わせる王ではなく、父なる神に従い、真理に立ち続ける王である。
さらに主イエスは、「真理について証しをするために来た」と語られる。真理とは理屈ではなく、イエス・キリストご自身である。その証しは、十字架へと向かう歩みにおいて示される。
しかし人々は主イエスではなくバラバを選ぶ。無実のお方が退けられ、罪ある者が放たれる。この出来事の中に、十字架のかたちがすでに現れている。
ピラトは「真理とは何か」と問いながら、その答えに向き合おうとはしない。この姿は私たちにも重なる。問いを持ちながら、その前に立ち続けることは容易ではないからである。
それでも主イエスは語られる。「わたしの声を聞く」と。教会はこの主イエスの言葉の前に立つところである。その言葉に導かれて歩むところに、信仰の道が開かれていく。
【2026年4月26日の説教から】
『真理の主イエス・キリスト』
ヨハネによる福音書18章28節〜40節
鈴木美津子
本日の箇所は、主イエスがローマ総督ピラトの前に立たれる場面である。人の目には、主イエスは裁かれる弱い存在のように見える。しかし福音書は、このお方こそ真の王であり、真理を示すお方であることを明らかにする。
宗教指導者たちは、過越の食事を守るために汚れを避けようとしながら、同時に主イエスを死に引き渡そうとしている。本来、神の前に正しくあろうとする行いが、神の子を退けることと結びついてしまっている。ここに信仰のねじれがある。神は行いの形だけではなく、その人がどこを向いているかをご覧になる。
ピラトは「あなたはユダヤ人の王なのか」と問うが、その関心は政治的な危険性にある。しかし主イエスは問いを問い返し、「あなた自身はどう受け止めているのか」と迫られる。信仰は、人から聞いたままではなく、自ら主の前に立って問われるところに始まる。
主イエスは言われる。「わたしの国は、この世には属していない」。それはこの世と無関係という意味ではなく、力によって成り立つ国ではないということである。主イエスは力で人を従わせる王ではなく、父なる神に従い、真理に立ち続ける王である。
さらに主イエスは、「真理について証しをするために来た」と語られる。真理とは理屈ではなく、イエス・キリストご自身である。その証しは、十字架へと向かう歩みにおいて示される。
しかし人々は主イエスではなくバラバを選ぶ。無実のお方が退けられ、罪ある者が放たれる。この出来事の中に、十字架のかたちがすでに現れている。
ピラトは「真理とは何か」と問いながら、その答えに向き合おうとはしない。この姿は私たちにも重なる。問いを持ちながら、その前に立ち続けることは容易ではないからである。
それでも主イエスは語られる。「わたしの声を聞く」と。教会はこの主イエスの言葉の前に立つところである。その言葉に導かれて歩むところに、信仰の道が開かれていく。
2026.6.21 週報掲載の説教
2026.6.21 週報掲載の説教
<2026年3月22日説教から>
『否認の闇の中で』
ヨハネによる福音書18章12節〜27節
鈴木美津子
本日の箇所は、イエス・キリストが捕らえられ、大祭司の屋敷の中で取り調べを受ける場面と、弟子のペトロが屋敷の外の庭で主イエスを否認する場面とが、交互に描かれている。内側ではイ主エスが人々の前に立たされ、外側ではペトロが人の輪の中で身を縮めている。この対照の中で、人の弱さと、主の揺るがない歩みとがはっきりと示されているのである。
主イエスは、大祭司の前で、これまでの教えと歩みを隠すことなく語られた。人目を避けた不当な取り調べの場であっても、何一つ言い逃れをせず、これまで公の場で語ってきた事実をそのまま示されたのである。下役に打たれても、怒りで打ち返すことはなさらず、「正しいことを言ったのなら、なぜ打つのか」と問い返された。イエスは、力で相手をねじ伏せるのではなく、暴力によって事を進めることの誤りを示しながら、正しさがどこにあるのかを明らかにしようとされたのである。
一方、外の庭にいたペトロは、人々の視線を気にしながら火のそばに立っていた。主イエスのもとへ向かうことも、完全に離れることもできず、その間に立ち尽くしていた。問いを重ねられる中で、ペトロはついに「知らない」と主を否んでしまう。これは、ただの言い逃れではなく、「関係がない」と口にしてしまう言葉であった。主イエスを大切に思っていながらも、恐れの中でその関係を守り切れない人間の現実が、ここに示されているのである。
しかし、弟子のつまずきによって、主の十字架への歩みが止まることはなかった。主イエスは、弟子たちの弱さを知ったうえで祈り、実際につまずいた後も見捨てることなく、復活の後にペトロを再び立ち上がらせてくださる。救いは、人の強さや忠実さによって支えられているのではない。主の変わらない忠実さによって支えられているのである。レントの歩みの中で、私たちは自分の弱さを見つめつつ、なお逃げずに歩み続けられた主の忠実さに立ち返るのである。
<2026年3月22日説教から>
『否認の闇の中で』
ヨハネによる福音書18章12節〜27節
鈴木美津子
本日の箇所は、イエス・キリストが捕らえられ、大祭司の屋敷の中で取り調べを受ける場面と、弟子のペトロが屋敷の外の庭で主イエスを否認する場面とが、交互に描かれている。内側ではイ主エスが人々の前に立たされ、外側ではペトロが人の輪の中で身を縮めている。この対照の中で、人の弱さと、主の揺るがない歩みとがはっきりと示されているのである。
主イエスは、大祭司の前で、これまでの教えと歩みを隠すことなく語られた。人目を避けた不当な取り調べの場であっても、何一つ言い逃れをせず、これまで公の場で語ってきた事実をそのまま示されたのである。下役に打たれても、怒りで打ち返すことはなさらず、「正しいことを言ったのなら、なぜ打つのか」と問い返された。イエスは、力で相手をねじ伏せるのではなく、暴力によって事を進めることの誤りを示しながら、正しさがどこにあるのかを明らかにしようとされたのである。
一方、外の庭にいたペトロは、人々の視線を気にしながら火のそばに立っていた。主イエスのもとへ向かうことも、完全に離れることもできず、その間に立ち尽くしていた。問いを重ねられる中で、ペトロはついに「知らない」と主を否んでしまう。これは、ただの言い逃れではなく、「関係がない」と口にしてしまう言葉であった。主イエスを大切に思っていながらも、恐れの中でその関係を守り切れない人間の現実が、ここに示されているのである。
しかし、弟子のつまずきによって、主の十字架への歩みが止まることはなかった。主イエスは、弟子たちの弱さを知ったうえで祈り、実際につまずいた後も見捨てることなく、復活の後にペトロを再び立ち上がらせてくださる。救いは、人の強さや忠実さによって支えられているのではない。主の変わらない忠実さによって支えられているのである。レントの歩みの中で、私たちは自分の弱さを見つめつつ、なお逃げずに歩み続けられた主の忠実さに立ち返るのである。
