2026.2.8 週報掲載の説教
<2025年11月23日説教から>
『共に住んでくださるイエス様』
ヨハネによる福音書14章15節~24節
牧師 鈴木美津子
ヨハネによる福音書14章15〜24節は、主イエスが十字架へ向かう直前、弟子たちの不安に真正面から向き合いながら語られた言葉である。主イエスは「心を騒がせるな」と励まし、「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られたが、その主イエスご自身が去ろうとしていることに、弟子たちは大きな戸惑いと恐れを覚えていた。主イエスがいなくなった後、どうしてその道を歩み続けることができるのか―その不安に対する答えとして語られたのが、本日の御言葉である。
主イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているなら、わたしの掟を守る(15)」と語られるが、これは弟子たちの力に期待した言葉ではない。むしろ、人は弱く、離れれば忘れてしまう存在であることを、主イエスはよく知っておられた。だからこそ主は、「別の弁護者」、すなわち聖霊を遣わすと約束されたのである。聖霊は「真理の霊」として、弟子たちと共に、そして彼らの内に住み、永遠に離れず支えてくださるお方である。主イエスが地上で弟子たちのそばにおられたように、今度は聖霊が内側から彼らを支え続けるのである。
その中心に置かれている約束が、「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない(18)」という言葉である。主イエスは復活の主として弟子たちの前に再び現れ、さらに昇天後も聖霊によって共におられる。―「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる(19)」―弟子たちの命と歩みは、自分の力ではなく、生ける主につながることによって保たれる。
主イエスはさらに、「父とわたしはその人と一緒に住む」と語られた。神は遠くにおられるのではなく、信じる者の内に住まわれる――これが福音の驚くべき約束である。掟を守る歩みも、努力や義務から生まれるのではなく、先に愛されている者として生きるところから実を結ぶ。
私たちは弱く、不安を抱え、立ち止まることがある。しかし「共に住んでくださる主」の約束があるゆえに、恐れの中でも歩み出すことができる。アドベントを前に、この約束を胸に、共におられる主を待ち望みつつ歩み出そう。
2026.2.1 週報掲載の説教
2026.2.1 週報掲載の説教
<2025年10月26日説教から>
『 道・真理・命に生きる』
ヨハネによる福音書14章1節~14節
牧師 鈴木美津子
宗教改革記念の主日に、私たちはヨハネによる福音書14章1〜14節の御言葉に聴いた。宗教改革者たちが取り戻そうとした中心は、人間の力や制度ではなく、イエス・キリストご自身であった。
「わたしは道であり、真理であり、命である」という主の言葉は、「キリストのみ・信仰のみ・恵みのみ」という改革の信仰を貫く福音の核心である。
この箇所は、十字架の前夜に語られた告別説教であり、弟子たちの心は大きく揺れ動いていた。頼みとしたペトロさえ主を否むと告げられ、将来の見通しは失われる。その嵐のような心に、主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい(1)」と語られた。これは根拠のない楽観ではなく、主ご自身という揺るがぬ土台に立つ者に与えられる平安である。私たちも病や孤独、将来の不安の中で心が波立つ時があるが、主は同じ言葉で今日も支えてくださる。
さらに主イエスは「父の家には住む所がたくさんある」と告げられる。罪によって居場所を失った人間に対し、十字架と復活によって「あなたのための場所はすでに備えられている」と宣言してくださるのである。これは遠い未来だけでなく、今ここで与えられる確かな安心の約束である。
トマスの「道が分からない」という問いに対し、主イエスは「わたしは道である」と答えられた。道とは方法論や規則ではなく、主ご自身に結ばれて歩むことである。隔てを越える橋は私たちの努力ではなく、主の十字架によってすでに開かれた。また主イエスは「真理」であり、見えない神の愛と誠実が隠されず示されたお方である。私たちが偶像にすがろうとする心を、真の礼拝へと導いてくださる。
さらに主イエスは「命」であり、死後の希望にとどまらず、今日を生き抜く力と、新しく生き直す力を与えてくださる。詩編119編の祈りに応えるように、主は今も私たちを道・真理・命に生かし、恐れの中にあっても確かな希望を与えながら、新しい一週へと送り出してくださるのである
<2025年10月26日説教から>
『 道・真理・命に生きる』
ヨハネによる福音書14章1節~14節
牧師 鈴木美津子
宗教改革記念の主日に、私たちはヨハネによる福音書14章1〜14節の御言葉に聴いた。宗教改革者たちが取り戻そうとした中心は、人間の力や制度ではなく、イエス・キリストご自身であった。
「わたしは道であり、真理であり、命である」という主の言葉は、「キリストのみ・信仰のみ・恵みのみ」という改革の信仰を貫く福音の核心である。
この箇所は、十字架の前夜に語られた告別説教であり、弟子たちの心は大きく揺れ動いていた。頼みとしたペトロさえ主を否むと告げられ、将来の見通しは失われる。その嵐のような心に、主イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい(1)」と語られた。これは根拠のない楽観ではなく、主ご自身という揺るがぬ土台に立つ者に与えられる平安である。私たちも病や孤独、将来の不安の中で心が波立つ時があるが、主は同じ言葉で今日も支えてくださる。
さらに主イエスは「父の家には住む所がたくさんある」と告げられる。罪によって居場所を失った人間に対し、十字架と復活によって「あなたのための場所はすでに備えられている」と宣言してくださるのである。これは遠い未来だけでなく、今ここで与えられる確かな安心の約束である。
トマスの「道が分からない」という問いに対し、主イエスは「わたしは道である」と答えられた。道とは方法論や規則ではなく、主ご自身に結ばれて歩むことである。隔てを越える橋は私たちの努力ではなく、主の十字架によってすでに開かれた。また主イエスは「真理」であり、見えない神の愛と誠実が隠されず示されたお方である。私たちが偶像にすがろうとする心を、真の礼拝へと導いてくださる。
さらに主イエスは「命」であり、死後の希望にとどまらず、今日を生き抜く力と、新しく生き直す力を与えてくださる。詩編119編の祈りに応えるように、主は今も私たちを道・真理・命に生かし、恐れの中にあっても確かな希望を与えながら、新しい一週へと送り出してくださるのである
2026.1.25 週報掲載の説教
2026.1.25 週報掲載の説教
<2025年10月12日の説教から>
『互いに愛し合いなさい』
ヨハネによる福音書13章31節~38節
牧師 鈴木美津子
本日の説教題である「互いに愛し合いなさい」は、聖書の中でもよく知られた言葉である。しかしヨハネによる福音書13章では、この言葉が、主イエスが十字架へ向かう直前、裏切りと闇が迫る緊迫した夜に語られたことが強調されている。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。そして夜であった(30)」と記されるように、それは罪と絶望が支配しようとする霊的な闇の中であった。そのただ中で語られた「互いに愛し合いなさい」は、単なる道徳的勧めではなく、命をかけた愛に基づく「新しい掟」である。
主イエスはこの場面で、「今や、人の子は栄光を受けた(31)」と語られた。ここでの栄光とは、人間的な成功や称賛ではなく、十字架における自己犠牲の愛によって示される神の栄光である。敗北や屈辱に見える出来事の中にこそ、神の救いの力が現れるという逆説が、福音の核心として示されている。
この「新しい掟」の新しさは、「わたしがあなたがたを愛したように」という基準にある。旧約の「隣人を愛せ」という教えを超え、主イエス自身の愛、すなわち仕え、赦し、命を与える愛が基準とされている。弟子たちは自分の力で愛するのではなく、まずこの愛を受ける者として招かれているのである。
さらに主イエスは、互いに愛し合うことが弟子であることのしるしになると言われる。教会は建物や制度によってではなく、愛に生きる姿によって世に証しされる共同体である。ペトロのつまずきが示すように、私たちは弱さや失敗を抱えているが、それでも主イエスの愛は私たちを見捨てず、再び立ち上がらせる。
共に読まれたイザヤ書42章6節は、神が僕を「諸国の光」とされる約束を語っている。この約束はイエス・キリストにおいて成就し、今や教会が愛によってその光を映す者として召されている。互いに支え合い、赦し合いながら歩む日々の中で、神の栄光は静かに、しかし確かに現されているのである。
<2025年10月12日の説教から>
『互いに愛し合いなさい』
ヨハネによる福音書13章31節~38節
牧師 鈴木美津子
本日の説教題である「互いに愛し合いなさい」は、聖書の中でもよく知られた言葉である。しかしヨハネによる福音書13章では、この言葉が、主イエスが十字架へ向かう直前、裏切りと闇が迫る緊迫した夜に語られたことが強調されている。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。そして夜であった(30)」と記されるように、それは罪と絶望が支配しようとする霊的な闇の中であった。そのただ中で語られた「互いに愛し合いなさい」は、単なる道徳的勧めではなく、命をかけた愛に基づく「新しい掟」である。
主イエスはこの場面で、「今や、人の子は栄光を受けた(31)」と語られた。ここでの栄光とは、人間的な成功や称賛ではなく、十字架における自己犠牲の愛によって示される神の栄光である。敗北や屈辱に見える出来事の中にこそ、神の救いの力が現れるという逆説が、福音の核心として示されている。
この「新しい掟」の新しさは、「わたしがあなたがたを愛したように」という基準にある。旧約の「隣人を愛せ」という教えを超え、主イエス自身の愛、すなわち仕え、赦し、命を与える愛が基準とされている。弟子たちは自分の力で愛するのではなく、まずこの愛を受ける者として招かれているのである。
さらに主イエスは、互いに愛し合うことが弟子であることのしるしになると言われる。教会は建物や制度によってではなく、愛に生きる姿によって世に証しされる共同体である。ペトロのつまずきが示すように、私たちは弱さや失敗を抱えているが、それでも主イエスの愛は私たちを見捨てず、再び立ち上がらせる。
共に読まれたイザヤ書42章6節は、神が僕を「諸国の光」とされる約束を語っている。この約束はイエス・キリストにおいて成就し、今や教会が愛によってその光を映す者として召されている。互いに支え合い、赦し合いながら歩む日々の中で、神の栄光は静かに、しかし確かに現されているのである。
2026.1.11 週報掲載の説教
2026.1.11 週報掲載の説教
<2025年10月5日の説教から>
『主よ、それは誰のことですか』
ヨハネによる福音書13章21節〜30節
鈴木 美津子
過越祭の夜、主イエスは弟子たちと最後の食卓を囲まれた。
静かな中で、主は「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている(21) と、言われる。
思いがけない言葉に驚いた弟子たちは、「主よ、それはだれのことですか(25)」と尋ねる。食卓の空気は一変した。弟子たちは自分の心の内を見つめざるをえなかったからである。
主イエスは、愛する弟子と裏切りを決意したユダを、共にそばに置かれた。光と闇、信頼と不信がひとつの食卓に並ぶ中で、主イエスは誰をも区別せず愛し抜かれた。ユダにも悔い改めの機会が与えられたが、彼はその愛を受け入れず、自ら闇へと歩み出た。「夜であった(30)」とは、光から離れた人間の心の闇を示している。神は私たちに「自由」を与えられた。それは思い通りに生きる力ではなく、愛と真実を選び取る責任ある力である。ユダはその自由を誤って用い、主を離れた。他方、主イエスは苦しみの中でも御父に従い、愛を選び抜かれた。ここに、自由の本来の姿が示されている。
旧約にも、兄弟によって銀貨で売られたヨセフ、友の裏切りを嘆く詩編の作者など、同じ痛みを通る者たちがいる。しかし神は、罪の出来事さえも御業の中で用い、救いへと変えていかれた。
ユダの裏切りもまた、十字架という救いの出来事へと導かれて
いく。
弟子の「主よ、それはだれのことですか(25)」という問いは、他の誰かを責めるためではなく、御言葉の前に立つ一人ひとりに、静かに心を向けさせる問いである。日々の小さな選択の中で、私たちは光に向かうのか、それとも闇を選ぶのかを問われている。
闇に出ていったユダの姿は、時に私たち自身の姿でもある。しかし主イエスの光は、その闇をも照らし、なお希望へと導かれる。与えられた自由を、愛と信仰の選びとして用い、主の光の中を歩む者でありたい。
<2025年10月5日の説教から>
『主よ、それは誰のことですか』
ヨハネによる福音書13章21節〜30節
鈴木 美津子
過越祭の夜、主イエスは弟子たちと最後の食卓を囲まれた。
静かな中で、主は「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている(21) と、言われる。
思いがけない言葉に驚いた弟子たちは、「主よ、それはだれのことですか(25)」と尋ねる。食卓の空気は一変した。弟子たちは自分の心の内を見つめざるをえなかったからである。
主イエスは、愛する弟子と裏切りを決意したユダを、共にそばに置かれた。光と闇、信頼と不信がひとつの食卓に並ぶ中で、主イエスは誰をも区別せず愛し抜かれた。ユダにも悔い改めの機会が与えられたが、彼はその愛を受け入れず、自ら闇へと歩み出た。「夜であった(30)」とは、光から離れた人間の心の闇を示している。神は私たちに「自由」を与えられた。それは思い通りに生きる力ではなく、愛と真実を選び取る責任ある力である。ユダはその自由を誤って用い、主を離れた。他方、主イエスは苦しみの中でも御父に従い、愛を選び抜かれた。ここに、自由の本来の姿が示されている。
旧約にも、兄弟によって銀貨で売られたヨセフ、友の裏切りを嘆く詩編の作者など、同じ痛みを通る者たちがいる。しかし神は、罪の出来事さえも御業の中で用い、救いへと変えていかれた。
ユダの裏切りもまた、十字架という救いの出来事へと導かれて
いく。
弟子の「主よ、それはだれのことですか(25)」という問いは、他の誰かを責めるためではなく、御言葉の前に立つ一人ひとりに、静かに心を向けさせる問いである。日々の小さな選択の中で、私たちは光に向かうのか、それとも闇を選ぶのかを問われている。
闇に出ていったユダの姿は、時に私たち自身の姿でもある。しかし主イエスの光は、その闇をも照らし、なお希望へと導かれる。与えられた自由を、愛と信仰の選びとして用い、主の光の中を歩む者でありたい。
2026.1.4 週報掲載の説教
2026.1.4 週報掲載の説教
『光に導かれて』
マタイによる福音書2章1〜12節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
新しい年を迎えると、私たちはこれからの歩みを思い巡らすでしょう。期待と同時に、不安や先の見えなさを覚えることもあります。そのような中で、聖書は、東の国から来た博士たちの姿を通して、神に導かれて歩むとはどういうことかを語ります。
博士たちは、生まれた救い主を求めて旅に出ましたが、行き先のすべてを知っていたわけではありません。彼らを導いたのは、夜空に現れた一つの星でした。星は未来のすべてを照らす光ではありませんでしたが、歩き出し、歩み続けるために十分な「しるし」となりました。神は、完成された地図ではなく、信頼して歩むための光を与えられたのです。
しかし、救い主の誕生の知らせは、喜びだけでなく、不安や揺れも生み出しました。ヘロデ王はその知らせに動揺し、恐れに縛られました。聖書は、人の心の暗さを隠さずに描きます。けれども、救い主は私たちから何かを奪うためではなく、恐れから解き放つために来られました。
やがて、博士たちは聖書の言葉によって、救い主がベツレヘムに生まれることを知ります。しるしである星と、確かな御言葉とが重なり、彼らの歩みは導かれていきました。再び現れた星を見て、博士たちは大いに喜びます。神の導きは、途中で途切れることがないのです。博士たちは幼子イエスに出会い、ひれ伏して拝み、贈り物をささげました。それは功績の証ではなく、救い主に出会った喜びの応答でした。そして彼らは「別の道」を通って帰っていきます。救い主に出会うことは、歩みの向きそのものが変えられることでもあるのです。
教会は知っています。私たちを本当に導く光は、「しるし」そのものではなく、御言葉に示される救い主キリストご自身であるということを。神は、かつて出エジプトの民を雲と火で導かれ、博士たちを星で導かれました。そして今、聖書の言葉によって、キリストご自身によって、私たちを導いておられます。新年、私たちは「すべてを見せてください」と願うのではなく、「今日の一歩を照らしてください」と祈りつつ、御言葉の光に導かれて歩み出します。
『光に導かれて』
マタイによる福音書2章1〜12節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
新しい年を迎えると、私たちはこれからの歩みを思い巡らすでしょう。期待と同時に、不安や先の見えなさを覚えることもあります。そのような中で、聖書は、東の国から来た博士たちの姿を通して、神に導かれて歩むとはどういうことかを語ります。
博士たちは、生まれた救い主を求めて旅に出ましたが、行き先のすべてを知っていたわけではありません。彼らを導いたのは、夜空に現れた一つの星でした。星は未来のすべてを照らす光ではありませんでしたが、歩き出し、歩み続けるために十分な「しるし」となりました。神は、完成された地図ではなく、信頼して歩むための光を与えられたのです。
しかし、救い主の誕生の知らせは、喜びだけでなく、不安や揺れも生み出しました。ヘロデ王はその知らせに動揺し、恐れに縛られました。聖書は、人の心の暗さを隠さずに描きます。けれども、救い主は私たちから何かを奪うためではなく、恐れから解き放つために来られました。
やがて、博士たちは聖書の言葉によって、救い主がベツレヘムに生まれることを知ります。しるしである星と、確かな御言葉とが重なり、彼らの歩みは導かれていきました。再び現れた星を見て、博士たちは大いに喜びます。神の導きは、途中で途切れることがないのです。博士たちは幼子イエスに出会い、ひれ伏して拝み、贈り物をささげました。それは功績の証ではなく、救い主に出会った喜びの応答でした。そして彼らは「別の道」を通って帰っていきます。救い主に出会うことは、歩みの向きそのものが変えられることでもあるのです。
教会は知っています。私たちを本当に導く光は、「しるし」そのものではなく、御言葉に示される救い主キリストご自身であるということを。神は、かつて出エジプトの民を雲と火で導かれ、博士たちを星で導かれました。そして今、聖書の言葉によって、キリストご自身によって、私たちを導いておられます。新年、私たちは「すべてを見せてください」と願うのではなく、「今日の一歩を照らしてください」と祈りつつ、御言葉の光に導かれて歩み出します。
2025.12.28 週報掲載の説教
2025.12.28 週報掲載の説教
新しい年に向かって』
フィリピの信徒への手紙3章12~14節
牧師 鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
本日は本年最後の主日礼拝として、イザヤ書43章18〜19節とフィリピの信徒への手紙3章12〜14節から御言葉に聴きます。先週、私たちはクリスマスを祝い、神が御子イエス・キリストをこの世に遣わされた恵みを受け取りました。クリスマスは一日限りの出来事ではなく、今もなお私たちの人生と歴史の中で続いている神の救いの始まりです。その恵みを胸に、年の終わりに立つ私たちは、この一年の歩みを神の御前にそのまま差し出します。成功や失敗を評価するのではなく、歩みのすべてを神に委ねる時だからです。
イザヤ書は、バビロン捕囚という絶望のただ中にあったイスラエルに、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う(18~19a)」と語ります。神は、荒れ野に道を、砂漠に大河を設けられるお方です。それは、整えられた場所ではなく、行き詰まりや乾きの中にこそ、新しい命を始められる神の御業です。私たちがこの一年を振り返り、荒れ野のように感じる歩みがあったとしても、神はその場所から新しい一歩を始めてくださいます。
フィリピの信徒への手紙で使徒パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません(12a)」と告白します。信仰とは完成を誇ることではなく、キリストに捕らえられ続ける歩みです。パウロは、過去に縛られることなく、前に向かって走り続けました。年末は成果を数える時ではなく、どこに向かって歩んでいるのか、その方向を確かめる時です。この問いは、私たち一人ひとりだけでなく、教会という群れにも向けられています。新しい年に向かって、荒れ野に道を備えられる神を信頼し、主イエスに向かって共に歩み続けて参りましょう。
新しい年に向かって』
フィリピの信徒への手紙3章12~14節
牧師 鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
本日は本年最後の主日礼拝として、イザヤ書43章18〜19節とフィリピの信徒への手紙3章12〜14節から御言葉に聴きます。先週、私たちはクリスマスを祝い、神が御子イエス・キリストをこの世に遣わされた恵みを受け取りました。クリスマスは一日限りの出来事ではなく、今もなお私たちの人生と歴史の中で続いている神の救いの始まりです。その恵みを胸に、年の終わりに立つ私たちは、この一年の歩みを神の御前にそのまま差し出します。成功や失敗を評価するのではなく、歩みのすべてを神に委ねる時だからです。
イザヤ書は、バビロン捕囚という絶望のただ中にあったイスラエルに、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う(18~19a)」と語ります。神は、荒れ野に道を、砂漠に大河を設けられるお方です。それは、整えられた場所ではなく、行き詰まりや乾きの中にこそ、新しい命を始められる神の御業です。私たちがこの一年を振り返り、荒れ野のように感じる歩みがあったとしても、神はその場所から新しい一歩を始めてくださいます。
フィリピの信徒への手紙で使徒パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません(12a)」と告白します。信仰とは完成を誇ることではなく、キリストに捕らえられ続ける歩みです。パウロは、過去に縛られることなく、前に向かって走り続けました。年末は成果を数える時ではなく、どこに向かって歩んでいるのか、その方向を確かめる時です。この問いは、私たち一人ひとりだけでなく、教会という群れにも向けられています。新しい年に向かって、荒れ野に道を備えられる神を信頼し、主イエスに向かって共に歩み続けて参りましょう。
