2025.12.28 週報掲載の説教
新しい年に向かって』
フィリピの信徒への手紙3章12~14節
牧師 鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
本日は本年最後の主日礼拝として、イザヤ書43章18〜19節とフィリピの信徒への手紙3章12〜14節から御言葉に聴きます。先週、私たちはクリスマスを祝い、神が御子イエス・キリストをこの世に遣わされた恵みを受け取りました。クリスマスは一日限りの出来事ではなく、今もなお私たちの人生と歴史の中で続いている神の救いの始まりです。その恵みを胸に、年の終わりに立つ私たちは、この一年の歩みを神の御前にそのまま差し出します。成功や失敗を評価するのではなく、歩みのすべてを神に委ねる時だからです。
イザヤ書は、バビロン捕囚という絶望のただ中にあったイスラエルに、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う(18~19a)」と語ります。神は、荒れ野に道を、砂漠に大河を設けられるお方です。それは、整えられた場所ではなく、行き詰まりや乾きの中にこそ、新しい命を始められる神の御業です。私たちがこの一年を振り返り、荒れ野のように感じる歩みがあったとしても、神はその場所から新しい一歩を始めてくださいます。
フィリピの信徒への手紙で使徒パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません(12a)」と告白します。信仰とは完成を誇ることではなく、キリストに捕らえられ続ける歩みです。パウロは、過去に縛られることなく、前に向かって走り続けました。年末は成果を数える時ではなく、どこに向かって歩んでいるのか、その方向を確かめる時です。この問いは、私たち一人ひとりだけでなく、教会という群れにも向けられています。新しい年に向かって、荒れ野に道を備えられる神を信頼し、主イエスに向かって共に歩み続けて参りましょう。
2025.12.07 週報掲載の説教
2025.12.07 週報掲載の説教
『喜びの知らせ』
ルカによる福音書1章26節〜38節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
アドベント第二主日、二本目のろうそく「平和」の灯をともすとき、私たちは、救い主の到来が確かに近づいていることを覚えます。神様は、華やかで大きな場所ではなく、「小さく、弱く、取るに足りない」と見なされる町ベツレヘムやナザレを選ばれました。そして、その小さな町に住む一人の若い女性マリアを選び、救いの物語を始められました。
天使ガブリエルはマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる(28)」と告げます。これはマリアの功績への評価ではなく、「神様が先に選び、共にいてくださる」という恵みの宣言でした。マリアはすぐには受け入れられず、「どうしてそのようなことがありえましょうか(34)」と戸惑います。聖書は、こうした揺れや問いを「信仰が弱い」とは語りません。むしろ「主よ、これはどういうことですか」と問いつつ歩むところから信仰が始まると示しています。天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う(35)」と答えます。救いは人間の力ではなく、神様の働きによって実現するのです。私たちが弱さに立ちすくむときも、神様は「あなたには難しくても、わたしにはできる」と語りかけてくださいます。
マリアはすべてを理解したわけではありませんでしたが、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように(38)」と応えました。この静かな「はい」を通して、救いの歴史は大きく動き出します。クリスマスの福音は、一人の心に生まれたその「はい」から始まりました。
今日、私たちの弱さや不安のただ中にも、神様は語られます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」私たちも同じ恵みの言葉を受け取り、マリアのように静かに応える者とされたいと願います。「主よ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。」
アドベントの光は、クリスマスへの備えだけでなく、やがて
来られる主の再臨の希望を照らす光でもあります。神様の光が、
私たちの現在と未来に必ず差し込み、希望の道へと導いてくだ
さいます。
『喜びの知らせ』
ルカによる福音書1章26節〜38節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
アドベント第二主日、二本目のろうそく「平和」の灯をともすとき、私たちは、救い主の到来が確かに近づいていることを覚えます。神様は、華やかで大きな場所ではなく、「小さく、弱く、取るに足りない」と見なされる町ベツレヘムやナザレを選ばれました。そして、その小さな町に住む一人の若い女性マリアを選び、救いの物語を始められました。
天使ガブリエルはマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる(28)」と告げます。これはマリアの功績への評価ではなく、「神様が先に選び、共にいてくださる」という恵みの宣言でした。マリアはすぐには受け入れられず、「どうしてそのようなことがありえましょうか(34)」と戸惑います。聖書は、こうした揺れや問いを「信仰が弱い」とは語りません。むしろ「主よ、これはどういうことですか」と問いつつ歩むところから信仰が始まると示しています。天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う(35)」と答えます。救いは人間の力ではなく、神様の働きによって実現するのです。私たちが弱さに立ちすくむときも、神様は「あなたには難しくても、わたしにはできる」と語りかけてくださいます。
マリアはすべてを理解したわけではありませんでしたが、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように(38)」と応えました。この静かな「はい」を通して、救いの歴史は大きく動き出します。クリスマスの福音は、一人の心に生まれたその「はい」から始まりました。
今日、私たちの弱さや不安のただ中にも、神様は語られます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」私たちも同じ恵みの言葉を受け取り、マリアのように静かに応える者とされたいと願います。「主よ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。」
アドベントの光は、クリスマスへの備えだけでなく、やがて
来られる主の再臨の希望を照らす光でもあります。神様の光が、
私たちの現在と未来に必ず差し込み、希望の道へと導いてくだ
さいます。
2025.11.30 週報掲載の説教
2025.11.30 週報掲載の説教
『待ち望む光』
マタイによる福音書3章1~12節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
今日からアドベントが始まります。「アドベント」とは本来「到来」、つまり神様が来てくださるという意味です。私たちはこの季節、「来られる」イエス様をただ待つのではなく、歩みを整えながら待ち望む旅人のように心を備えます。
聖書は、信仰者を「地上では旅人であり、寄留者である」と語ります(ヘブライ11:13参照)。アドベントは、神様の約束に信頼して歩み始める季節です。
その歩みを「旅」にたとえるなら、私たちは三つの大切な視点を思い起こします。第一は「昔」―イエス様がベツレヘムに来てくださった出来事、第二は「現在」―日々の生活の中で主がそばにいてくださる恵み、第三は「未来」―イエス様が再び来てくださるという希望の約束です。この三つの時は、イエス・キリストという一本の光の道でつながっています。
預言者イザヤは、不安の中にあった民に「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる(イザヤ41:10)」と語りました。私たちの弱さや暗闇のただ中でも、神様は先に手を伸ばし、私たちを支え、歩みを導いてくださいます。また、洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた(2)」と呼びかけました。それは責める言葉ではなく、「光が近づいているから、光のほうへ向きを変えなさい」という優しい招きです。
アドベント第一主日の今日、私たちの心に一本の小さな光が灯されました。神様の救いは、いつも小さく、静かに始まります。ベツレヘムの小さな町、飼い葉桶の小さな場所、そして小さな命。神様は小さな光から救いを広げてくださるお方です。どうかこの小さな光を心に守りながら、来られるイエス様を待ち望むアドベントの歩みを、希望と共に始めましょう。
『待ち望む光』
マタイによる福音書3章1~12節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
今日からアドベントが始まります。「アドベント」とは本来「到来」、つまり神様が来てくださるという意味です。私たちはこの季節、「来られる」イエス様をただ待つのではなく、歩みを整えながら待ち望む旅人のように心を備えます。
聖書は、信仰者を「地上では旅人であり、寄留者である」と語ります(ヘブライ11:13参照)。アドベントは、神様の約束に信頼して歩み始める季節です。
その歩みを「旅」にたとえるなら、私たちは三つの大切な視点を思い起こします。第一は「昔」―イエス様がベツレヘムに来てくださった出来事、第二は「現在」―日々の生活の中で主がそばにいてくださる恵み、第三は「未来」―イエス様が再び来てくださるという希望の約束です。この三つの時は、イエス・キリストという一本の光の道でつながっています。
預言者イザヤは、不安の中にあった民に「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる(イザヤ41:10)」と語りました。私たちの弱さや暗闇のただ中でも、神様は先に手を伸ばし、私たちを支え、歩みを導いてくださいます。また、洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた(2)」と呼びかけました。それは責める言葉ではなく、「光が近づいているから、光のほうへ向きを変えなさい」という優しい招きです。
アドベント第一主日の今日、私たちの心に一本の小さな光が灯されました。神様の救いは、いつも小さく、静かに始まります。ベツレヘムの小さな町、飼い葉桶の小さな場所、そして小さな命。神様は小さな光から救いを広げてくださるお方です。どうかこの小さな光を心に守りながら、来られるイエス様を待ち望むアドベントの歩みを、希望と共に始めましょう。
2025.11.16 週報掲載の説教
2025.11.16 週報掲載の説教
<2025年9月28日の説教から>
『弟子の足を洗うイエス様』
ヨハネによる福音書13章1節〜20節
鈴木美津子
過越祭の前夜、主イエスは弟子たちを「この上なく愛し抜かれた(1)」。その愛は時間の終わりではなく、愛の極みまでの深さを意味する。主イエスは身分を捨て、上着を脱ぎ、たらいに水をくみ、弟子たち一人ひとりの足を洗われた。当時、客の足を洗うのは奴隷の務めであった。主イエスは神の子でありながら、最も低い者の姿をとり、仕える者となられた。
この行為は単なる奉仕ではなく、十字架へ向かう愛のしるしであった。旧約では祭司が務めに入る前に手足を洗って清めた。主の洗足は、新しい契約のもとで弟子たちを仕える者とする清めでもあった。ペトロは「わたしの足を決して洗わないでください」と言ったが、主イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もない(8)」と答えられた。ペトロの言葉には謙遜のように見えて、自分を守る傲慢さがあった。真の謙遜とは、神の愛を受け入れ、その愛に身を委ねること。主イエスは裏切るユダの足までも洗われた。愛と裏切りが同じ食卓に並んでも、主は変わらぬ愛で包まれた。愛の光が最も強く輝くところで、神の愛の真実が現れる。
主イエスは「わたしがしたように、互いに足を洗い合いなさい」と命じられた。これは互いに仕え、赦し、支え合うようにとの招きである。教会はこの愛の交わりの中に生かされている。私たちは赦される者として謙り、仕えるのである。
「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れる(20)」という主イエスの言葉は、御子と父なる神との深い一体性を示している。互いに仕え合うとき、そこに神の愛と交わりが現れる。主イエスの洗足は十字架の愛を先取りし、弱さや裏切りのただ中でも変わらぬ愛を示す。私たちもその愛に洗われた者として、赦しと奉仕に生きる者でありたい。
<2025年9月28日の説教から>
『弟子の足を洗うイエス様』
ヨハネによる福音書13章1節〜20節
鈴木美津子
過越祭の前夜、主イエスは弟子たちを「この上なく愛し抜かれた(1)」。その愛は時間の終わりではなく、愛の極みまでの深さを意味する。主イエスは身分を捨て、上着を脱ぎ、たらいに水をくみ、弟子たち一人ひとりの足を洗われた。当時、客の足を洗うのは奴隷の務めであった。主イエスは神の子でありながら、最も低い者の姿をとり、仕える者となられた。
この行為は単なる奉仕ではなく、十字架へ向かう愛のしるしであった。旧約では祭司が務めに入る前に手足を洗って清めた。主の洗足は、新しい契約のもとで弟子たちを仕える者とする清めでもあった。ペトロは「わたしの足を決して洗わないでください」と言ったが、主イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もない(8)」と答えられた。ペトロの言葉には謙遜のように見えて、自分を守る傲慢さがあった。真の謙遜とは、神の愛を受け入れ、その愛に身を委ねること。主イエスは裏切るユダの足までも洗われた。愛と裏切りが同じ食卓に並んでも、主は変わらぬ愛で包まれた。愛の光が最も強く輝くところで、神の愛の真実が現れる。
主イエスは「わたしがしたように、互いに足を洗い合いなさい」と命じられた。これは互いに仕え、赦し、支え合うようにとの招きである。教会はこの愛の交わりの中に生かされている。私たちは赦される者として謙り、仕えるのである。
「わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れる(20)」という主イエスの言葉は、御子と父なる神との深い一体性を示している。互いに仕え合うとき、そこに神の愛と交わりが現れる。主イエスの洗足は十字架の愛を先取りし、弱さや裏切りのただ中でも変わらぬ愛を示す。私たちもその愛に洗われた者として、赦しと奉仕に生きる者でありたい。
2025.11.9 週報掲載の説教
2025.11.9 週報掲載の説教
<2025年9月14日の説教から>
『命は神の言葉と共に』
ヨハネによる福音書12章44節~50節
牧師 鈴木 美津子
預言者イザヤは、「神の言葉は必ずその目的を果たし、命を生み出す」と語った。神の言葉は雨や雪のように大地を潤し、芽を出させ、実を結ばせる。ヨハネ福音書は、この言葉が主イエスのうちに実現したことを示す。御言葉が肉となり、私たちのただ中に来られた―それが主イエス・キリストである。
主イエスは「わたしを信じる者は、わたしを遣わされた方を信じるのである(44)」と言われた。御子を信じることは、父なる神を信じることにほかならない。主の語る言葉は、命をもたらす神の思いである。信じるとは、神の導きに自分を委ねること。怒りや不安に心が支配されそうなとき、御言葉に耳を傾け、その導きに従うとき、そこに信仰の行いがある。
主イエスはまた「わたしは光として世に来た」と言われた。光は、闇の中にある私たちを照らし、真の姿を映し出す。弱さや愚かさを明らかにしながらも、希望へ導く光である。自分に不利益をもたらす人を避けず、思いやりをもって向き合うとき、私たちは光の中を歩んでいる。
さらに主イエスは「わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来た(47)」と言われた。神の言葉は私たちを責めるためでなく、救い、立ち上がらせるために語られている。真の裁きとは、光を拒み、自ら闇を選ぶ人間の現実である。だからこそ、私たちは愛と祈りをもって隣人のために生きるよう招かれている。
主イエスはまた「父の命令は永遠の命である(50)」と言われた。この「命令」とは、命を与える神の言葉そのもの。御言葉を受け入れるとき、その瞬間から永遠の命が始まる。たとえ忙しくて聖書を開けない日があっても、祈りの中で御言葉を思い起こすとき、希望と力が与えられる。光であるキリストのうちにとどまり、この一週間も御言葉と共に歩もう。
<2025年9月14日の説教から>
『命は神の言葉と共に』
ヨハネによる福音書12章44節~50節
牧師 鈴木 美津子
預言者イザヤは、「神の言葉は必ずその目的を果たし、命を生み出す」と語った。神の言葉は雨や雪のように大地を潤し、芽を出させ、実を結ばせる。ヨハネ福音書は、この言葉が主イエスのうちに実現したことを示す。御言葉が肉となり、私たちのただ中に来られた―それが主イエス・キリストである。
主イエスは「わたしを信じる者は、わたしを遣わされた方を信じるのである(44)」と言われた。御子を信じることは、父なる神を信じることにほかならない。主の語る言葉は、命をもたらす神の思いである。信じるとは、神の導きに自分を委ねること。怒りや不安に心が支配されそうなとき、御言葉に耳を傾け、その導きに従うとき、そこに信仰の行いがある。
主イエスはまた「わたしは光として世に来た」と言われた。光は、闇の中にある私たちを照らし、真の姿を映し出す。弱さや愚かさを明らかにしながらも、希望へ導く光である。自分に不利益をもたらす人を避けず、思いやりをもって向き合うとき、私たちは光の中を歩んでいる。
さらに主イエスは「わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来た(47)」と言われた。神の言葉は私たちを責めるためでなく、救い、立ち上がらせるために語られている。真の裁きとは、光を拒み、自ら闇を選ぶ人間の現実である。だからこそ、私たちは愛と祈りをもって隣人のために生きるよう招かれている。
主イエスはまた「父の命令は永遠の命である(50)」と言われた。この「命令」とは、命を与える神の言葉そのもの。御言葉を受け入れるとき、その瞬間から永遠の命が始まる。たとえ忙しくて聖書を開けない日があっても、祈りの中で御言葉を思い起こすとき、希望と力が与えられる。光であるキリストのうちにとどまり、この一週間も御言葉と共に歩もう。
2025.11.2 週報掲載の説教
2025.11.2 週報掲載の説教
『悲しみの中にある希望 』
マタイによる福音書5章4節
鈴木 美津子
*本日の説教の要約です。
本日は召天者記念礼拝です。私たちは先に天に召された方々を思い起こし、その生涯を覚え、神さまに感謝します。
主イエスは「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と語られました。悲しみは大切な絆を思い出させます。涙が流れることも、あまりに大きな悲しみのために涙すら出ないこともあります。沈黙もまた愛の表れであり、神はそのすべてをご存じです。
召された方々はそれぞれ賜物を与えられ、祈りや奉仕を担い、教会や家庭を支えました。その働きは神の御手に覚えられています。悲しみと共に感謝があふれ、その感謝は私たちが信仰を受け継ぐ力ともなります。
聖書は「死」は終わりではなく、神に迎え入れられる入り口だと語ります。やがて私たちも、神の定められた良き日に新しい命に生きるときが来ます。そのとき、先に召された方々と再会できるのです。これは願望ではなく、復活の主イエス・キリストの勝利に基づく確かな約束です。
ご遺族の皆さま、神は流された涙をすべてご存じです。その歩みは孤独ではありません。神が共におられ、私たちも共にあります。どうかこの希望に支えられて、これからの日々を歩んでいただきたいと願います。
『悲しみの中にある希望 』
マタイによる福音書5章4節
鈴木 美津子
*本日の説教の要約です。
本日は召天者記念礼拝です。私たちは先に天に召された方々を思い起こし、その生涯を覚え、神さまに感謝します。
主イエスは「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と語られました。悲しみは大切な絆を思い出させます。涙が流れることも、あまりに大きな悲しみのために涙すら出ないこともあります。沈黙もまた愛の表れであり、神はそのすべてをご存じです。
召された方々はそれぞれ賜物を与えられ、祈りや奉仕を担い、教会や家庭を支えました。その働きは神の御手に覚えられています。悲しみと共に感謝があふれ、その感謝は私たちが信仰を受け継ぐ力ともなります。
聖書は「死」は終わりではなく、神に迎え入れられる入り口だと語ります。やがて私たちも、神の定められた良き日に新しい命に生きるときが来ます。そのとき、先に召された方々と再会できるのです。これは願望ではなく、復活の主イエス・キリストの勝利に基づく確かな約束です。
ご遺族の皆さま、神は流された涙をすべてご存じです。その歩みは孤独ではありません。神が共におられ、私たちも共にあります。どうかこの希望に支えられて、これからの日々を歩んでいただきたいと願います。
