2026.7.5 週報掲載の説教
【2026年4月26日の説教から】
『真理の主イエス・キリスト』
ヨハネによる福音書18章28節〜40節
鈴木美津子
本日の箇所は、主イエスがローマ総督ピラトの前に立たれる場面である。人の目には、主イエスは裁かれる弱い存在のように見える。しかし福音書は、このお方こそ真の王であり、真理を示すお方であることを明らかにする。
宗教指導者たちは、過越の食事を守るために汚れを避けようとしながら、同時に主イエスを死に引き渡そうとしている。本来、神の前に正しくあろうとする行いが、神の子を退けることと結びついてしまっている。ここに信仰のねじれがある。神は行いの形だけではなく、その人がどこを向いているかをご覧になる。
ピラトは「あなたはユダヤ人の王なのか」と問うが、その関心は政治的な危険性にある。しかし主イエスは問いを問い返し、「あなた自身はどう受け止めているのか」と迫られる。信仰は、人から聞いたままではなく、自ら主の前に立って問われるところに始まる。
主イエスは言われる。「わたしの国は、この世には属していない」。それはこの世と無関係という意味ではなく、力によって成り立つ国ではないということである。主イエスは力で人を従わせる王ではなく、父なる神に従い、真理に立ち続ける王である。
さらに主イエスは、「真理について証しをするために来た」と語られる。真理とは理屈ではなく、イエス・キリストご自身である。その証しは、十字架へと向かう歩みにおいて示される。
しかし人々は主イエスではなくバラバを選ぶ。無実のお方が退けられ、罪ある者が放たれる。この出来事の中に、十字架のかたちがすでに現れている。
ピラトは「真理とは何か」と問いながら、その答えに向き合おうとはしない。この姿は私たちにも重なる。問いを持ちながら、その前に立ち続けることは容易ではないからである。
それでも主イエスは語られる。「わたしの声を聞く」と。教会はこの主イエスの言葉の前に立つところである。その言葉に導かれて歩むところに、信仰の道が開かれていく。
【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載
【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載
<主な決議事項・協議事項>
1.イースター募金送金先について
シロアムの友の会へ募金することとした。
2.イースター卵作りについて
4月4日(土)10時~ イースター卵作りを行う。受付に
用紙を置き、奉仕者5名を募ることとした。
3.日曜学校進級式について
4月5日(日)イースター礼拝後の報告時に進級式を行うこと
とした。
4.ペンテコステ礼拝について
信仰50周年大嶋幸子さんの祝いの品を事前に訊いておく。
礼拝後は「茶話会」を行うこととした。
5.来年度神学校卒業予定神学生の祈祷会奨励について
神学生北村幸啓(所属教会 旭川、 出席教会 世田谷千歳)
に依頼することとした。期日は未定
6.日曜学校礼拝開始時間変更に伴い、礼拝奏楽の練習時間を
9時45分〜10時15分までとすることとした。
・菅原正道牧師との昼食は長老2名が共にすることととした。(菊地晴子、森﨑千恵)
・当日の礼拝司式は長老 森﨑千恵が行う。
・礼拝では聖書協会共同訳を使用するので、鈴木美津子牧師が
プリントを準備する。
日本キリスト教会の教会に案内を送付する。
(ハガキ作成:森﨑千恵)
・合同礼拝とする。
・祝会の挨拶と開会・食前の祈祷:鈴木美津子牧師
・愛餐後DVD「ボンヘッファー」を上映する。
(DVD用意:執事薄田東正)
・閉会祈祷:長老菊地晴子
<主な決議事項・協議事項>
1.イースター募金送金先について
シロアムの友の会へ募金することとした。
2.イースター卵作りについて
4月4日(土)10時~ イースター卵作りを行う。受付に
用紙を置き、奉仕者5名を募ることとした。
3.日曜学校進級式について
4月5日(日)イースター礼拝後の報告時に進級式を行うこと
とした。
4.ペンテコステ礼拝について
信仰50周年大嶋幸子さんの祝いの品を事前に訊いておく。
礼拝後は「茶話会」を行うこととした。
5.来年度神学校卒業予定神学生の祈祷会奨励について
神学生北村幸啓(所属教会 旭川、 出席教会 世田谷千歳)
に依頼することとした。期日は未定
6.日曜学校礼拝開始時間変更に伴い、礼拝奏楽の練習時間を
9時45分〜10時15分までとすることとした。
- 3月29日(日)礼拝後、花壇の草取りを行うこととした。
・菅原正道牧師との昼食は長老2名が共にすることととした。(菊地晴子、森﨑千恵)
・当日の礼拝司式は長老 森﨑千恵が行う。
・礼拝では聖書協会共同訳を使用するので、鈴木美津子牧師が
プリントを準備する。
- 教会建設記念礼拝について4月19日(日)
日本キリスト教会の教会に案内を送付する。
(ハガキ作成:森﨑千恵)
・合同礼拝とする。
・祝会の挨拶と開会・食前の祈祷:鈴木美津子牧師
・愛餐後DVD「ボンヘッファー」を上映する。
(DVD用意:執事薄田東正)
・閉会祈祷:長老菊地晴子
2026.6.21 週報掲載の説教
2026.6.21 週報掲載の説教
<2026年3月22日説教から>
『否認の闇の中で』
ヨハネによる福音書18章12節〜27節
鈴木美津子
本日の箇所は、イエス・キリストが捕らえられ、大祭司の屋敷の中で取り調べを受ける場面と、弟子のペトロが屋敷の外の庭で主イエスを否認する場面とが、交互に描かれている。内側ではイ主エスが人々の前に立たされ、外側ではペトロが人の輪の中で身を縮めている。この対照の中で、人の弱さと、主の揺るがない歩みとがはっきりと示されているのである。
主イエスは、大祭司の前で、これまでの教えと歩みを隠すことなく語られた。人目を避けた不当な取り調べの場であっても、何一つ言い逃れをせず、これまで公の場で語ってきた事実をそのまま示されたのである。下役に打たれても、怒りで打ち返すことはなさらず、「正しいことを言ったのなら、なぜ打つのか」と問い返された。イエスは、力で相手をねじ伏せるのではなく、暴力によって事を進めることの誤りを示しながら、正しさがどこにあるのかを明らかにしようとされたのである。
一方、外の庭にいたペトロは、人々の視線を気にしながら火のそばに立っていた。主イエスのもとへ向かうことも、完全に離れることもできず、その間に立ち尽くしていた。問いを重ねられる中で、ペトロはついに「知らない」と主を否んでしまう。これは、ただの言い逃れではなく、「関係がない」と口にしてしまう言葉であった。主イエスを大切に思っていながらも、恐れの中でその関係を守り切れない人間の現実が、ここに示されているのである。
しかし、弟子のつまずきによって、主の十字架への歩みが止まることはなかった。主イエスは、弟子たちの弱さを知ったうえで祈り、実際につまずいた後も見捨てることなく、復活の後にペトロを再び立ち上がらせてくださる。救いは、人の強さや忠実さによって支えられているのではない。主の変わらない忠実さによって支えられているのである。レントの歩みの中で、私たちは自分の弱さを見つめつつ、なお逃げずに歩み続けられた主の忠実さに立ち返るのである。
<2026年3月22日説教から>
『否認の闇の中で』
ヨハネによる福音書18章12節〜27節
鈴木美津子
本日の箇所は、イエス・キリストが捕らえられ、大祭司の屋敷の中で取り調べを受ける場面と、弟子のペトロが屋敷の外の庭で主イエスを否認する場面とが、交互に描かれている。内側ではイ主エスが人々の前に立たされ、外側ではペトロが人の輪の中で身を縮めている。この対照の中で、人の弱さと、主の揺るがない歩みとがはっきりと示されているのである。
主イエスは、大祭司の前で、これまでの教えと歩みを隠すことなく語られた。人目を避けた不当な取り調べの場であっても、何一つ言い逃れをせず、これまで公の場で語ってきた事実をそのまま示されたのである。下役に打たれても、怒りで打ち返すことはなさらず、「正しいことを言ったのなら、なぜ打つのか」と問い返された。イエスは、力で相手をねじ伏せるのではなく、暴力によって事を進めることの誤りを示しながら、正しさがどこにあるのかを明らかにしようとされたのである。
一方、外の庭にいたペトロは、人々の視線を気にしながら火のそばに立っていた。主イエスのもとへ向かうことも、完全に離れることもできず、その間に立ち尽くしていた。問いを重ねられる中で、ペトロはついに「知らない」と主を否んでしまう。これは、ただの言い逃れではなく、「関係がない」と口にしてしまう言葉であった。主イエスを大切に思っていながらも、恐れの中でその関係を守り切れない人間の現実が、ここに示されているのである。
しかし、弟子のつまずきによって、主の十字架への歩みが止まることはなかった。主イエスは、弟子たちの弱さを知ったうえで祈り、実際につまずいた後も見捨てることなく、復活の後にペトロを再び立ち上がらせてくださる。救いは、人の強さや忠実さによって支えられているのではない。主の変わらない忠実さによって支えられているのである。レントの歩みの中で、私たちは自分の弱さを見つめつつ、なお逃げずに歩み続けられた主の忠実さに立ち返るのである。
2026.6.14 週報掲載の説教
<2026年3月15日説教>
『杯を受けるイエス様』
ヨハネによる福音書18章1節~11節
鈴木美津子
ヨハネによる福音書18章は、17章で語られたイエス・キリストの祈りが、出来事として動き始める場面である。主イエスは弟子たちのために祈られたが、その祈りは言葉だけにとどまらず、ご自身の行動として現れていく。祈られたことを、主ご自身が身をもって引き受けて歩まれるのである。
主イエスは、捕らえられる危険が高いと知りながら、弟子たちと共に園に入られた。逃げることもできたが、あえてその場にとどまり、ご自身から前に進み出て名乗られる。捕らえられる場面でありながら、なお主として立っておられる姿が示されている。また、「この人々は去らせなさい」と語り、ご自身の身を差し出すことで弟子たちを守られた。これは、ヨハネ17章で語られた「一人も失わない」という祈りが、具体的な出来事として現れた姿である。
剣を抜いたペトロに対し、主イエスは「剣をさやに納めなさい」と語られた。主イエスの救いの歩みは、暴力によって切り開かれる道ではなく、ご自身が傷を引き受けることによって命を生かす道である。そして「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と語られ、十字架へと向かう歩みを、父なる神の御心として引き受けられる。
ここで旧約聖書ゼカリヤ書13章7節の「撃たれる羊飼い」の預言が重なる。羊飼いが撃たれ、羊が散らされる現実のただ中に、神の救いの御業は進められていく。弟子たちが恐れの中で散らされていく現実を知りながら、なお主イエスはこの杯を受けられた。この杯は、主イエスお一人の苦しみではなく、私たちの弱さと崩れやすさを引き受ける杯である。主イエスがこの杯を飲み切ってくださったゆえに、私たちは罪赦され、なお神のもとに保たれ、再び歩み出す者とされているのである。
『杯を受けるイエス様』
ヨハネによる福音書18章1節~11節
鈴木美津子
ヨハネによる福音書18章は、17章で語られたイエス・キリストの祈りが、出来事として動き始める場面である。主イエスは弟子たちのために祈られたが、その祈りは言葉だけにとどまらず、ご自身の行動として現れていく。祈られたことを、主ご自身が身をもって引き受けて歩まれるのである。
主イエスは、捕らえられる危険が高いと知りながら、弟子たちと共に園に入られた。逃げることもできたが、あえてその場にとどまり、ご自身から前に進み出て名乗られる。捕らえられる場面でありながら、なお主として立っておられる姿が示されている。また、「この人々は去らせなさい」と語り、ご自身の身を差し出すことで弟子たちを守られた。これは、ヨハネ17章で語られた「一人も失わない」という祈りが、具体的な出来事として現れた姿である。
剣を抜いたペトロに対し、主イエスは「剣をさやに納めなさい」と語られた。主イエスの救いの歩みは、暴力によって切り開かれる道ではなく、ご自身が傷を引き受けることによって命を生かす道である。そして「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と語られ、十字架へと向かう歩みを、父なる神の御心として引き受けられる。
ここで旧約聖書ゼカリヤ書13章7節の「撃たれる羊飼い」の預言が重なる。羊飼いが撃たれ、羊が散らされる現実のただ中に、神の救いの御業は進められていく。弟子たちが恐れの中で散らされていく現実を知りながら、なお主イエスはこの杯を受けられた。この杯は、主イエスお一人の苦しみではなく、私たちの弱さと崩れやすさを引き受ける杯である。主イエスがこの杯を飲み切ってくださったゆえに、私たちは罪赦され、なお神のもとに保たれ、再び歩み出す者とされているのである。
2026.6.7 週報掲載の説教
2026.6.7 週報掲載の説教
<2026年3月8日説教>
『一つとなるための祈り』
ヨハネによる福音書17章20節〜26節
鈴木美津子
ヨハネ福音書17章20〜26節には、十字架へと向かわれる直前の夜、イエス・キリストがささげられた祈りが記されている。主イエスは、
その場にいた弟子たちのためだけでなく、「彼らの言葉によって
わたしを信じる人々」のためにも祈られた。すなわち、後の時代を生きる私たちもまた、この祈りの視野の中に含まれているのである。私たちは自分の意思で信仰の場に来たように感じることがあるが、その背後にはすでに主イエスの祈りがある。私たちはまず「祈られている者」として、この礼拝の場に集められているのである。
主イエスが祈られた中心は、「一つとなる」ことであった。しかし、ここで語られている「一つ」とは、考え方や感じ方が同じになること
ではない。父なる神と子なるイエス・キリストが、それぞれでありな
がら深く結ばれておられる関係が示されているように、違いを抱えた
まま、なお神のもとで結ばれることが「一つ」である。教会の一致とは、私たちが努力して作り出す成果ではなく、主イエスの祈りの中で父な
る神に委ねられ、与えられる恵みである。
さらに主イエスは、「世が、あなたがわたしを遣わされたことを信
じるためである」と祈られた。これは、教会がうまくまとまった姿を
見せることによって人が信仰を持つ、という意味ではない。教会が
「キリストを中心とする群れ」として生かされること自体が、結果と
して世に向けた証しとなるのである。
詩編133編もまた、「共に座る」ことを、人間の努力の成果ではなく、上から与えられる恵みとして語っている。油や露のたとえが示すように、一致は人の側で作り出すものではなく、神から注がれる祝福である。レントの歩みの中で、私たちは自分を整えきってから歩み出すのではなく、まず祈られている者として、同じ十字架のもとに立たされている恵みを受け取りつつ、それぞれの場所へと遣わされていくのである。
<2026年3月8日説教>
『一つとなるための祈り』
ヨハネによる福音書17章20節〜26節
鈴木美津子
ヨハネ福音書17章20〜26節には、十字架へと向かわれる直前の夜、イエス・キリストがささげられた祈りが記されている。主イエスは、
その場にいた弟子たちのためだけでなく、「彼らの言葉によって
わたしを信じる人々」のためにも祈られた。すなわち、後の時代を生きる私たちもまた、この祈りの視野の中に含まれているのである。私たちは自分の意思で信仰の場に来たように感じることがあるが、その背後にはすでに主イエスの祈りがある。私たちはまず「祈られている者」として、この礼拝の場に集められているのである。
主イエスが祈られた中心は、「一つとなる」ことであった。しかし、ここで語られている「一つ」とは、考え方や感じ方が同じになること
ではない。父なる神と子なるイエス・キリストが、それぞれでありな
がら深く結ばれておられる関係が示されているように、違いを抱えた
まま、なお神のもとで結ばれることが「一つ」である。教会の一致とは、私たちが努力して作り出す成果ではなく、主イエスの祈りの中で父な
る神に委ねられ、与えられる恵みである。
さらに主イエスは、「世が、あなたがわたしを遣わされたことを信
じるためである」と祈られた。これは、教会がうまくまとまった姿を
見せることによって人が信仰を持つ、という意味ではない。教会が
「キリストを中心とする群れ」として生かされること自体が、結果と
して世に向けた証しとなるのである。
詩編133編もまた、「共に座る」ことを、人間の努力の成果ではなく、上から与えられる恵みとして語っている。油や露のたとえが示すように、一致は人の側で作り出すものではなく、神から注がれる祝福である。レントの歩みの中で、私たちは自分を整えきってから歩み出すのではなく、まず祈られている者として、同じ十字架のもとに立たされている恵みを受け取りつつ、それぞれの場所へと遣わされていくのである。
2026.5.24 週報掲載の説教
2026.5.24 週報掲載の説教
『神の息が吹き込まれるとき
―教会のはじまり』
使徒言行録2章1節〜11節
鈴木美津子
本日の礼拝は、「教会のはじまり」の出来事であるペンテコステを覚えます。キリストの教会は、人が「始めよう」として始まったのではなく、神が働かれて始まりました。弟子たちは、聖霊が与えられるというイエス様の約束の言葉を受け、祈りつつ一つの場所にとどまっていました。しかし、その約束がどのように実現するのかは、まだ誰にも分かっていませんでした。それでも彼らは、神がなさることを信じて待っていたのです。ここに、教会の最初の姿があります。
―そのとき、突然、激しい風のような音が天から起こり、炎のような舌が一人一人の上にとどまりました。そして弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに語り始めます。この出来事は、人が起こしたものではなく、神ご自身が働かれた出来事でした。
外には、五旬祭のために様々な国から人々が集まっており、それぞれが自分の言葉で弟子たちの語る言葉を聞いて驚きます。ここで起こっているのは、違いがなくなることではなく、違いがあるまま、それぞれに届くという神の働きです。神は一人一人に合わせて、その人に分かる言葉でご自身のなさることを伝えておられます。
この出来事は突然のように見えますが、すでにエゼキエル書において「新しい心と新しい霊を与える」と約束されていました。神は人の心を新しくし、その中にご自身の霊を置くと語っておられたのです。ペンテコステは、その約束が実現した出来事でした。
キリストの教会はこの出来事によって始まり、今もなお神の働きによって立っています。私たちもまた、その中に置かれている者であるのです。自分の力によるのではなく、神が働いておられることに支えられて、御言葉に聞きつつ歩んでまいりましょう。
『神の息が吹き込まれるとき
―教会のはじまり』
使徒言行録2章1節〜11節
鈴木美津子
本日の礼拝は、「教会のはじまり」の出来事であるペンテコステを覚えます。キリストの教会は、人が「始めよう」として始まったのではなく、神が働かれて始まりました。弟子たちは、聖霊が与えられるというイエス様の約束の言葉を受け、祈りつつ一つの場所にとどまっていました。しかし、その約束がどのように実現するのかは、まだ誰にも分かっていませんでした。それでも彼らは、神がなさることを信じて待っていたのです。ここに、教会の最初の姿があります。
―そのとき、突然、激しい風のような音が天から起こり、炎のような舌が一人一人の上にとどまりました。そして弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに語り始めます。この出来事は、人が起こしたものではなく、神ご自身が働かれた出来事でした。
外には、五旬祭のために様々な国から人々が集まっており、それぞれが自分の言葉で弟子たちの語る言葉を聞いて驚きます。ここで起こっているのは、違いがなくなることではなく、違いがあるまま、それぞれに届くという神の働きです。神は一人一人に合わせて、その人に分かる言葉でご自身のなさることを伝えておられます。
この出来事は突然のように見えますが、すでにエゼキエル書において「新しい心と新しい霊を与える」と約束されていました。神は人の心を新しくし、その中にご自身の霊を置くと語っておられたのです。ペンテコステは、その約束が実現した出来事でした。
キリストの教会はこの出来事によって始まり、今もなお神の働きによって立っています。私たちもまた、その中に置かれている者であるのです。自分の力によるのではなく、神が働いておられることに支えられて、御言葉に聞きつつ歩んでまいりましょう。
