2026.9.13 週報掲載の説教

2026.9.13 週報掲載の説教

<2026年6月21日の説教から>

『主による再召命』

ヨハネによる福音書21章1節~14節

鈴木美津子

復活の主と出会った弟子たちは、なお自分たちがこれからどのように歩むべきか見えていなかった。そのような中、ペトロは「わたしは漁に行く」と言い、他の弟子たちも共に舟を出す。しかし、その夜は何もとれなかった。長年漁師として培った経験も技術もあった。それでも実りはなかった。この姿は、主に従ってきたにもかかわらず、十字架の出来事の中で自らの弱さと限界を知らされた弟子たちの姿である。同時に、努力しても思うようにいかず、自分の力の限界を知らされる私たち自身の姿でもある。

夜が明けるころ、復活の主はすでに岸辺に立っておられた。しかし弟子たちは気づかない。マグダラのマリアもそうであったように、主は私たちより先に近づいておられるにもかかわらず、私たちはすぐには気づくことができない。それでも主は声をかけ、「舟の右側に網を打ちなさい」と命じられる。その言葉に従ったとき、大漁となり、弟子たちは「主だ」と気づく。信仰とは、私たちが主を見つけ出すことではなく、主が先に私たちに語りかけ、御言葉によってご自身を示してくださる恵みである。

岸辺には炭火が起こされ、パンと魚が備えられていた。「炭火」は、ペトロが大祭司の中庭で三度主を否認した夜を思い起こさせる。主はその記憶を消し去るのではなく、その場所に共に立ち、責めることなく食卓へ招かれた。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」との招きは、失敗した者をなお受け入れ、養われる主の恵みを示している。また、湖畔のパンと魚は五千人の給食を思い起こさせ、「わたしが命のパンである」と語られた主が、今も弟子たちを養っておられることを示している。

この朝の出来事は、この後に続くペトロの再召命への備えである。主はまず養い、受け入れ、その後で託される。詩編23編が語る良い羊飼いのように、主は弱った者を養い、魂を生き返らせてくださる。教会もまた、そのような主に招かれ、赦され、養われながら歩む群れである。私たちの人生にも思い出したくない出来事や失敗はある。しかし復活の主は、そのような私たちを退けることなく、今日もなお「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださる。その招きの中で、私たちは再び歩み始めるのである。

【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載

【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載

<主な決議事項・協議事項>

1.イースター募金送金先について

シロアムの友の会へ募金することとした。

2.イースター卵作りについて

4月4日(土)10時~ イースター卵作りを行う。受付に

用紙を置き、奉仕者5名を募ることとした。

3.日曜学校進級式について

4月5日(日)イースター礼拝後の報告時に進級式を行うこと

とした。

4.ペンテコステ礼拝について

信仰50周年大嶋幸子さんの祝いの品を事前に訊いておく。

礼拝後は「茶話会」を行うこととした。

5.来年度神学校卒業予定神学生の祈祷会奨励について

神学生北村幸啓(所属教会 旭川、 出席教会 世田谷千歳)

に依頼することとした。期日は未定

6.日曜学校礼拝開始時間変更に伴い、礼拝奏楽の練習時間を

9時45分〜10時15分までとすることとした。
  1. 3月29日(日)礼拝後、花壇の草取りを行うこととした。
8 .4月12日(日)上田教会との講壇交換の日について

・菅原正道牧師との昼食は長老2名が共にすることととした。(菊地晴子、森﨑千恵)

・当日の礼拝司式は長老 森﨑千恵が行う。

・礼拝では聖書協会共同訳を使用するので、鈴木美津子牧師が

プリントを準備する。
  1. 教会建設記念礼拝について4月19日(日)
・役割分担を確認した。長く礼拝を欠席している会員、近隣の

日本キリスト教会の教会に案内を送付する。

(ハガキ作成:森﨑千恵)

・合同礼拝とする。

・祝会の挨拶と開会・食前の祈祷:鈴木美津子牧師

・愛餐後DVD「ボンヘッファー」を上映する。

(DVD用意:執事薄田東正)

・閉会祈祷:長老菊地晴子

2026.9.6 週報掲載の説教

2026.9.6 週報掲載の説教

<2026年6月14日の説教から>

『この書が記された目的』

ヨハネによる福音書20章30節〜31節

鈴木美津子

ヨハネ福音書20章30〜31節は、この福音書全体の目的を語る箇所である。ヨハネは、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの何より命を受けるためである」と語る。ここでヨハネは、単なる歴史の記録を書いているのではない。この福音書を読む者が、イエス・キリストを信じ、命を受けるために書いているのである。

ヨハネ福音書は、「初めに言があった」という言葉で始まる。ヨハネは、イエス・キリストを単なる歴史上の人物としてではなく、天地創造に関わるお方として語っている。そして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語り、神ご自身がこの世界に来てくださったことを示す。苦しみや涙、罪と死の現実の中へ、神ご自身が来てくださったのである。

ヨハネ福音書は、数々の「しるし」を通して、このお方がどなたであるのかを示していく。水をぶどう酒に変え、病人を癒やし、多くの人々を養われた。特にラザロの記事では、「わたしは復活であり、命である」という言葉が語られる。主イエスは、涙を流される主として、人の悲しみのただ中に立たれた。そして、ラザロを墓から呼び出された。この出来事を通してヨハネが示しているのは、「このお方のうちに命がある」ということである。

しかしこのお方は、十字架へ進まれた。人々に拒まれ、弟子たちにも見捨てられた。それでも逃げることなく、ご自身の命を与えられた。ヨハネ福音書は、十字架を敗北ではなく、神の愛が最も現された時として語る。そして十字架で終わるのではなく、復活へ至る。復活の主は、マリアに、恐れる弟子たちに、疑うトマスに現れてくださった。

トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する。この告白は、ヨハネ福音書全体の結論とも言える。ヨハネ福音書は最初から最後まで、「イエス・キリストとは誰か」を語っているのである。そしてこの福音書は、今も御言葉を通して、私たちを復活の主へと導いている。

2026.8.30 週報掲載の説教

2026.8.30 週報掲載の説教

<2026年6月7日の説教から>

『平和を告げる復活の主』

ヨハネによる福音書20章19節〜29節

鈴木美津子

 
復活された主は、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちのところへ来られた。弟子たちは、マリアから「わたしは主を見ました」と聞いていたにもかかわらず、なお恐れの中にいた。十字架で主イエスが殺された以上、自分たちも捕らえられるかもしれない。その不安の中で、彼らは戸を閉ざしていたのである。

その弟子たちのただ中に、復活の主は立たれる。そして最初に語られたのは、「あなたがたに平和があるように」という言葉であった。これは単なる挨拶ではない。十字架によって隔てられていた神との関係が回復される、その平和の宣言である。弟子たちはイエスを見捨て、逃げ去った。しかし主は彼らを責めることから始められなかった。傷を負われたままの主として、彼らの中に立ち、平和を語られたのである。

さらに主は、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と、言われ、弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と語られた。ここには新しい創造の始まりが示されている。世界はなお不安と争いの中にある。しかし復活の主によって、新しい歩みが始められているのである。教会は、ただ安心して生活する場所ではない。復活の主の平和を受け、その平和を携えて遣わされる群れなのである。

しかし、その場にトマスはいなかった。彼は「この目で見て確かめなければ信じない」と言う。ヨハネ福音書は、その疑いと迷いを隠していない。トマスもまた、分からないまま、なお主を求めていたのである。八日の後、主は再び弟子たちの中に立ち、「平和があるように」と語られた。そしてトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する。復活の主は、恐れや迷いの中にある者を退けず、そのただ中に来てくださるお方なのである。

2026.8.23 週報掲載の説教

2026.8.23 週報掲載の説教

<2026年5月31日の説教から>

マリアの名を呼ばれる復活の主

ヨハネによる福音書20章1節〜18

牧師 鈴木美津子

 
主イエスは十字架にかけられ、死んで、墓に葬られた。弟子たちは深い悲しみと戸惑いの中にあった。そのあとに迎えた朝、マグダラのマリアは、まだ暗いうちに墓へ向かった。墓に着くと、入り口をふさいでいた大きな石が取りのけられていた。マリアは驚く。しかし、何が起こったのかは、まだ分からない。マリアは弟子たちのもとへ走り、「主が墓から取り去られた」と告げる。

ペトロともう一人の弟子も墓へ向かい、中を見る。体を包んでいた布は残されていた。しかし、それでもなお、彼らには復活が分からない。ヨハネ福音書は、「二人はまだ理解していなかった」と語る。見ているのに分からない。そこにあっても気づかない。この復活の記事は、そのようなところから始まっている。

弟子たちは帰っていくが、マリアはその場にとどまり、泣き続ける。振り向くと、一人の人が立っている。しかし、それが主イエスであるとは分からない。主イエスは死んでしまった、そのように思い込んでいるからである。主を求めているのに、その主に気づくことができない。

そのとき、主イエスは「マリア」と名を呼ばれる。ただその一言で、すべてが変わる。マリアは、「ラボニ」と応える。自分で見いだしたのではない。主が先に呼ばれ、その呼びかけによって気づかされたのである。

さらに主イエスは、マリアを弟子たちのもとへ遣わされる。「わたしは主を見ました」と語る者とされたのである。ここから、一人に語られた主の言葉が、人から人へと広がっていく。教会の歩みは、この出来事から始まっている。

私たちもまた、自分でたどり着いたのではない。主に呼ばれてここに立たされている。どのような時にも、主は私たちの名を知り、呼びかけておられるのである。

2026.8.9 週報掲載の説教

2026.8.9 週報掲載の説教

『隣人となるということ ―平和はここから始まる―』

ルカによる福音書10章25〜37節

鈴木美津子

*本日の説教の要約です。

8月になると、私たちは広島、長崎、そして敗戦の日を覚え、平和について考える機会が多くなります。世界に目を向ければ、今なお戦争や争いによって多くの人々が苦しみの中を生きています。私たちは、「いつになったら平和になるのだろう」と願い、祈ります。しかし本日の御言葉は、私たちに「平和はどこから始まるのだろう」と問いかけています。

律法学者はイエス様に、「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねました。その問いの背景には、「誰まで愛すればよいのか」という思いがありました。そこでイエス様は、「良いサマリア人」のたとえを語られます。祭司もレビ人も倒れている人を見ながら通り過ぎました。しかし、当時ユダヤ人と対立していたサマリア人は、その人に近づき、傷の手当てをし、自分のろばに乗せ、宿まで連れて行き、回復するまで世話を頼み、費用まで支払いました。

イエス様は、「誰が私の隣人か」との問いに直接答えられませんでした。代わりに、「誰がその人の隣人となったか」と問い直されます。隣人とは、最初から決まっている人ではありません。目の前にいる人に近づき、その人を大切にするとき、私たちはその人の隣人となるのです。

しかし、このたとえは、ただ「あなたも良いサマリア人になりなさい」という教えではありません。まず、イエス様ご自身が私たちの隣人となってくださったという福音が語られています。罪によって神から離れ、自分では立ち上がることのできなかった私たちのもとへ、主は近づいてくださいました。そして十字架によって罪を担い、新しい命を与えてくださいました。その主の愛に生かされる者として、「行って、あなたも同じようにしなさい」と招かれているのです。

平和は、遠いところから始まるのではありません。まずイエス様が私たちを愛してくださったことから始まります。そして、その愛に生かされて、目の前にいる一人を大切にするところから、神が願われる平和は少しずつ広がっていくのです。