2026.1.25 週報掲載の説教
<2025年10月12日の説教から>
『互いに愛し合いなさい』
ヨハネによる福音書13章31節~38節
牧師 鈴木美津子
本日の説教題である「互いに愛し合いなさい」は、聖書の中でもよく知られた言葉である。しかしヨハネによる福音書13章では、この言葉が、主イエスが十字架へ向かう直前、裏切りと闇が迫る緊迫した夜に語られたことが強調されている。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。そして夜であった(30)」と記されるように、それは罪と絶望が支配しようとする霊的な闇の中であった。そのただ中で語られた「互いに愛し合いなさい」は、単なる道徳的勧めではなく、命をかけた愛に基づく「新しい掟」である。
主イエスはこの場面で、「今や、人の子は栄光を受けた(31)」と語られた。ここでの栄光とは、人間的な成功や称賛ではなく、十字架における自己犠牲の愛によって示される神の栄光である。敗北や屈辱に見える出来事の中にこそ、神の救いの力が現れるという逆説が、福音の核心として示されている。
この「新しい掟」の新しさは、「わたしがあなたがたを愛したように」という基準にある。旧約の「隣人を愛せ」という教えを超え、主イエス自身の愛、すなわち仕え、赦し、命を与える愛が基準とされている。弟子たちは自分の力で愛するのではなく、まずこの愛を受ける者として招かれているのである。
さらに主イエスは、互いに愛し合うことが弟子であることのしるしになると言われる。教会は建物や制度によってではなく、愛に生きる姿によって世に証しされる共同体である。ペトロのつまずきが示すように、私たちは弱さや失敗を抱えているが、それでも主イエスの愛は私たちを見捨てず、再び立ち上がらせる。
共に読まれたイザヤ書42章6節は、神が僕を「諸国の光」とされる約束を語っている。この約束はイエス・キリストにおいて成就し、今や教会が愛によってその光を映す者として召されている。互いに支え合い、赦し合いながら歩む日々の中で、神の栄光は静かに、しかし確かに現されているのである。
2026.1.11 週報掲載の説教
2026.1.11 週報掲載の説教
<2025年10月5日の説教から>
『主よ、それは誰のことですか』
ヨハネによる福音書13章21節〜30節
鈴木 美津子
過越祭の夜、主イエスは弟子たちと最後の食卓を囲まれた。
静かな中で、主は「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている(21) と、言われる。
思いがけない言葉に驚いた弟子たちは、「主よ、それはだれのことですか(25)」と尋ねる。食卓の空気は一変した。弟子たちは自分の心の内を見つめざるをえなかったからである。
主イエスは、愛する弟子と裏切りを決意したユダを、共にそばに置かれた。光と闇、信頼と不信がひとつの食卓に並ぶ中で、主イエスは誰をも区別せず愛し抜かれた。ユダにも悔い改めの機会が与えられたが、彼はその愛を受け入れず、自ら闇へと歩み出た。「夜であった(30)」とは、光から離れた人間の心の闇を示している。神は私たちに「自由」を与えられた。それは思い通りに生きる力ではなく、愛と真実を選び取る責任ある力である。ユダはその自由を誤って用い、主を離れた。他方、主イエスは苦しみの中でも御父に従い、愛を選び抜かれた。ここに、自由の本来の姿が示されている。
旧約にも、兄弟によって銀貨で売られたヨセフ、友の裏切りを嘆く詩編の作者など、同じ痛みを通る者たちがいる。しかし神は、罪の出来事さえも御業の中で用い、救いへと変えていかれた。
ユダの裏切りもまた、十字架という救いの出来事へと導かれて
いく。
弟子の「主よ、それはだれのことですか(25)」という問いは、他の誰かを責めるためではなく、御言葉の前に立つ一人ひとりに、静かに心を向けさせる問いである。日々の小さな選択の中で、私たちは光に向かうのか、それとも闇を選ぶのかを問われている。
闇に出ていったユダの姿は、時に私たち自身の姿でもある。しかし主イエスの光は、その闇をも照らし、なお希望へと導かれる。与えられた自由を、愛と信仰の選びとして用い、主の光の中を歩む者でありたい。
<2025年10月5日の説教から>
『主よ、それは誰のことですか』
ヨハネによる福音書13章21節〜30節
鈴木 美津子
過越祭の夜、主イエスは弟子たちと最後の食卓を囲まれた。
静かな中で、主は「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている(21) と、言われる。
思いがけない言葉に驚いた弟子たちは、「主よ、それはだれのことですか(25)」と尋ねる。食卓の空気は一変した。弟子たちは自分の心の内を見つめざるをえなかったからである。
主イエスは、愛する弟子と裏切りを決意したユダを、共にそばに置かれた。光と闇、信頼と不信がひとつの食卓に並ぶ中で、主イエスは誰をも区別せず愛し抜かれた。ユダにも悔い改めの機会が与えられたが、彼はその愛を受け入れず、自ら闇へと歩み出た。「夜であった(30)」とは、光から離れた人間の心の闇を示している。神は私たちに「自由」を与えられた。それは思い通りに生きる力ではなく、愛と真実を選び取る責任ある力である。ユダはその自由を誤って用い、主を離れた。他方、主イエスは苦しみの中でも御父に従い、愛を選び抜かれた。ここに、自由の本来の姿が示されている。
旧約にも、兄弟によって銀貨で売られたヨセフ、友の裏切りを嘆く詩編の作者など、同じ痛みを通る者たちがいる。しかし神は、罪の出来事さえも御業の中で用い、救いへと変えていかれた。
ユダの裏切りもまた、十字架という救いの出来事へと導かれて
いく。
弟子の「主よ、それはだれのことですか(25)」という問いは、他の誰かを責めるためではなく、御言葉の前に立つ一人ひとりに、静かに心を向けさせる問いである。日々の小さな選択の中で、私たちは光に向かうのか、それとも闇を選ぶのかを問われている。
闇に出ていったユダの姿は、時に私たち自身の姿でもある。しかし主イエスの光は、その闇をも照らし、なお希望へと導かれる。与えられた自由を、愛と信仰の選びとして用い、主の光の中を歩む者でありたい。
2026.1.4 週報掲載の説教
2026.1.4 週報掲載の説教
『光に導かれて』
マタイによる福音書2章1〜12節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
新しい年を迎えると、私たちはこれからの歩みを思い巡らすでしょう。期待と同時に、不安や先の見えなさを覚えることもあります。そのような中で、聖書は、東の国から来た博士たちの姿を通して、神に導かれて歩むとはどういうことかを語ります。
博士たちは、生まれた救い主を求めて旅に出ましたが、行き先のすべてを知っていたわけではありません。彼らを導いたのは、夜空に現れた一つの星でした。星は未来のすべてを照らす光ではありませんでしたが、歩き出し、歩み続けるために十分な「しるし」となりました。神は、完成された地図ではなく、信頼して歩むための光を与えられたのです。
しかし、救い主の誕生の知らせは、喜びだけでなく、不安や揺れも生み出しました。ヘロデ王はその知らせに動揺し、恐れに縛られました。聖書は、人の心の暗さを隠さずに描きます。けれども、救い主は私たちから何かを奪うためではなく、恐れから解き放つために来られました。
やがて、博士たちは聖書の言葉によって、救い主がベツレヘムに生まれることを知ります。しるしである星と、確かな御言葉とが重なり、彼らの歩みは導かれていきました。再び現れた星を見て、博士たちは大いに喜びます。神の導きは、途中で途切れることがないのです。博士たちは幼子イエスに出会い、ひれ伏して拝み、贈り物をささげました。それは功績の証ではなく、救い主に出会った喜びの応答でした。そして彼らは「別の道」を通って帰っていきます。救い主に出会うことは、歩みの向きそのものが変えられることでもあるのです。
教会は知っています。私たちを本当に導く光は、「しるし」そのものではなく、御言葉に示される救い主キリストご自身であるということを。神は、かつて出エジプトの民を雲と火で導かれ、博士たちを星で導かれました。そして今、聖書の言葉によって、キリストご自身によって、私たちを導いておられます。新年、私たちは「すべてを見せてください」と願うのではなく、「今日の一歩を照らしてください」と祈りつつ、御言葉の光に導かれて歩み出します。
『光に導かれて』
マタイによる福音書2章1〜12節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
新しい年を迎えると、私たちはこれからの歩みを思い巡らすでしょう。期待と同時に、不安や先の見えなさを覚えることもあります。そのような中で、聖書は、東の国から来た博士たちの姿を通して、神に導かれて歩むとはどういうことかを語ります。
博士たちは、生まれた救い主を求めて旅に出ましたが、行き先のすべてを知っていたわけではありません。彼らを導いたのは、夜空に現れた一つの星でした。星は未来のすべてを照らす光ではありませんでしたが、歩き出し、歩み続けるために十分な「しるし」となりました。神は、完成された地図ではなく、信頼して歩むための光を与えられたのです。
しかし、救い主の誕生の知らせは、喜びだけでなく、不安や揺れも生み出しました。ヘロデ王はその知らせに動揺し、恐れに縛られました。聖書は、人の心の暗さを隠さずに描きます。けれども、救い主は私たちから何かを奪うためではなく、恐れから解き放つために来られました。
やがて、博士たちは聖書の言葉によって、救い主がベツレヘムに生まれることを知ります。しるしである星と、確かな御言葉とが重なり、彼らの歩みは導かれていきました。再び現れた星を見て、博士たちは大いに喜びます。神の導きは、途中で途切れることがないのです。博士たちは幼子イエスに出会い、ひれ伏して拝み、贈り物をささげました。それは功績の証ではなく、救い主に出会った喜びの応答でした。そして彼らは「別の道」を通って帰っていきます。救い主に出会うことは、歩みの向きそのものが変えられることでもあるのです。
教会は知っています。私たちを本当に導く光は、「しるし」そのものではなく、御言葉に示される救い主キリストご自身であるということを。神は、かつて出エジプトの民を雲と火で導かれ、博士たちを星で導かれました。そして今、聖書の言葉によって、キリストご自身によって、私たちを導いておられます。新年、私たちは「すべてを見せてください」と願うのではなく、「今日の一歩を照らしてください」と祈りつつ、御言葉の光に導かれて歩み出します。
2025.12.28 週報掲載の説教
2025.12.28 週報掲載の説教
新しい年に向かって』
フィリピの信徒への手紙3章12~14節
牧師 鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
本日は本年最後の主日礼拝として、イザヤ書43章18〜19節とフィリピの信徒への手紙3章12〜14節から御言葉に聴きます。先週、私たちはクリスマスを祝い、神が御子イエス・キリストをこの世に遣わされた恵みを受け取りました。クリスマスは一日限りの出来事ではなく、今もなお私たちの人生と歴史の中で続いている神の救いの始まりです。その恵みを胸に、年の終わりに立つ私たちは、この一年の歩みを神の御前にそのまま差し出します。成功や失敗を評価するのではなく、歩みのすべてを神に委ねる時だからです。
イザヤ書は、バビロン捕囚という絶望のただ中にあったイスラエルに、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う(18~19a)」と語ります。神は、荒れ野に道を、砂漠に大河を設けられるお方です。それは、整えられた場所ではなく、行き詰まりや乾きの中にこそ、新しい命を始められる神の御業です。私たちがこの一年を振り返り、荒れ野のように感じる歩みがあったとしても、神はその場所から新しい一歩を始めてくださいます。
フィリピの信徒への手紙で使徒パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません(12a)」と告白します。信仰とは完成を誇ることではなく、キリストに捕らえられ続ける歩みです。パウロは、過去に縛られることなく、前に向かって走り続けました。年末は成果を数える時ではなく、どこに向かって歩んでいるのか、その方向を確かめる時です。この問いは、私たち一人ひとりだけでなく、教会という群れにも向けられています。新しい年に向かって、荒れ野に道を備えられる神を信頼し、主イエスに向かって共に歩み続けて参りましょう。
新しい年に向かって』
フィリピの信徒への手紙3章12~14節
牧師 鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
本日は本年最後の主日礼拝として、イザヤ書43章18〜19節とフィリピの信徒への手紙3章12〜14節から御言葉に聴きます。先週、私たちはクリスマスを祝い、神が御子イエス・キリストをこの世に遣わされた恵みを受け取りました。クリスマスは一日限りの出来事ではなく、今もなお私たちの人生と歴史の中で続いている神の救いの始まりです。その恵みを胸に、年の終わりに立つ私たちは、この一年の歩みを神の御前にそのまま差し出します。成功や失敗を評価するのではなく、歩みのすべてを神に委ねる時だからです。
イザヤ書は、バビロン捕囚という絶望のただ中にあったイスラエルに、「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う(18~19a)」と語ります。神は、荒れ野に道を、砂漠に大河を設けられるお方です。それは、整えられた場所ではなく、行き詰まりや乾きの中にこそ、新しい命を始められる神の御業です。私たちがこの一年を振り返り、荒れ野のように感じる歩みがあったとしても、神はその場所から新しい一歩を始めてくださいます。
フィリピの信徒への手紙で使徒パウロは、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません(12a)」と告白します。信仰とは完成を誇ることではなく、キリストに捕らえられ続ける歩みです。パウロは、過去に縛られることなく、前に向かって走り続けました。年末は成果を数える時ではなく、どこに向かって歩んでいるのか、その方向を確かめる時です。この問いは、私たち一人ひとりだけでなく、教会という群れにも向けられています。新しい年に向かって、荒れ野に道を備えられる神を信頼し、主イエスに向かって共に歩み続けて参りましょう。
2025.12.07 週報掲載の説教
2025.12.07 週報掲載の説教
『喜びの知らせ』
ルカによる福音書1章26節〜38節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
アドベント第二主日、二本目のろうそく「平和」の灯をともすとき、私たちは、救い主の到来が確かに近づいていることを覚えます。神様は、華やかで大きな場所ではなく、「小さく、弱く、取るに足りない」と見なされる町ベツレヘムやナザレを選ばれました。そして、その小さな町に住む一人の若い女性マリアを選び、救いの物語を始められました。
天使ガブリエルはマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる(28)」と告げます。これはマリアの功績への評価ではなく、「神様が先に選び、共にいてくださる」という恵みの宣言でした。マリアはすぐには受け入れられず、「どうしてそのようなことがありえましょうか(34)」と戸惑います。聖書は、こうした揺れや問いを「信仰が弱い」とは語りません。むしろ「主よ、これはどういうことですか」と問いつつ歩むところから信仰が始まると示しています。天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う(35)」と答えます。救いは人間の力ではなく、神様の働きによって実現するのです。私たちが弱さに立ちすくむときも、神様は「あなたには難しくても、わたしにはできる」と語りかけてくださいます。
マリアはすべてを理解したわけではありませんでしたが、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように(38)」と応えました。この静かな「はい」を通して、救いの歴史は大きく動き出します。クリスマスの福音は、一人の心に生まれたその「はい」から始まりました。
今日、私たちの弱さや不安のただ中にも、神様は語られます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」私たちも同じ恵みの言葉を受け取り、マリアのように静かに応える者とされたいと願います。「主よ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。」
アドベントの光は、クリスマスへの備えだけでなく、やがて
来られる主の再臨の希望を照らす光でもあります。神様の光が、
私たちの現在と未来に必ず差し込み、希望の道へと導いてくだ
さいます。
『喜びの知らせ』
ルカによる福音書1章26節〜38節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
アドベント第二主日、二本目のろうそく「平和」の灯をともすとき、私たちは、救い主の到来が確かに近づいていることを覚えます。神様は、華やかで大きな場所ではなく、「小さく、弱く、取るに足りない」と見なされる町ベツレヘムやナザレを選ばれました。そして、その小さな町に住む一人の若い女性マリアを選び、救いの物語を始められました。
天使ガブリエルはマリアに「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる(28)」と告げます。これはマリアの功績への評価ではなく、「神様が先に選び、共にいてくださる」という恵みの宣言でした。マリアはすぐには受け入れられず、「どうしてそのようなことがありえましょうか(34)」と戸惑います。聖書は、こうした揺れや問いを「信仰が弱い」とは語りません。むしろ「主よ、これはどういうことですか」と問いつつ歩むところから信仰が始まると示しています。天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う(35)」と答えます。救いは人間の力ではなく、神様の働きによって実現するのです。私たちが弱さに立ちすくむときも、神様は「あなたには難しくても、わたしにはできる」と語りかけてくださいます。
マリアはすべてを理解したわけではありませんでしたが、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように(38)」と応えました。この静かな「はい」を通して、救いの歴史は大きく動き出します。クリスマスの福音は、一人の心に生まれたその「はい」から始まりました。
今日、私たちの弱さや不安のただ中にも、神様は語られます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」私たちも同じ恵みの言葉を受け取り、マリアのように静かに応える者とされたいと願います。「主よ、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。」
アドベントの光は、クリスマスへの備えだけでなく、やがて
来られる主の再臨の希望を照らす光でもあります。神様の光が、
私たちの現在と未来に必ず差し込み、希望の道へと導いてくだ
さいます。
2025.11.30 週報掲載の説教
2025.11.30 週報掲載の説教
『待ち望む光』
マタイによる福音書3章1~12節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
今日からアドベントが始まります。「アドベント」とは本来「到来」、つまり神様が来てくださるという意味です。私たちはこの季節、「来られる」イエス様をただ待つのではなく、歩みを整えながら待ち望む旅人のように心を備えます。
聖書は、信仰者を「地上では旅人であり、寄留者である」と語ります(ヘブライ11:13参照)。アドベントは、神様の約束に信頼して歩み始める季節です。
その歩みを「旅」にたとえるなら、私たちは三つの大切な視点を思い起こします。第一は「昔」―イエス様がベツレヘムに来てくださった出来事、第二は「現在」―日々の生活の中で主がそばにいてくださる恵み、第三は「未来」―イエス様が再び来てくださるという希望の約束です。この三つの時は、イエス・キリストという一本の光の道でつながっています。
預言者イザヤは、不安の中にあった民に「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる(イザヤ41:10)」と語りました。私たちの弱さや暗闇のただ中でも、神様は先に手を伸ばし、私たちを支え、歩みを導いてくださいます。また、洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた(2)」と呼びかけました。それは責める言葉ではなく、「光が近づいているから、光のほうへ向きを変えなさい」という優しい招きです。
アドベント第一主日の今日、私たちの心に一本の小さな光が灯されました。神様の救いは、いつも小さく、静かに始まります。ベツレヘムの小さな町、飼い葉桶の小さな場所、そして小さな命。神様は小さな光から救いを広げてくださるお方です。どうかこの小さな光を心に守りながら、来られるイエス様を待ち望むアドベントの歩みを、希望と共に始めましょう。
『待ち望む光』
マタイによる福音書3章1~12節
鈴木美津子
*本日の説教の要約です。
今日からアドベントが始まります。「アドベント」とは本来「到来」、つまり神様が来てくださるという意味です。私たちはこの季節、「来られる」イエス様をただ待つのではなく、歩みを整えながら待ち望む旅人のように心を備えます。
聖書は、信仰者を「地上では旅人であり、寄留者である」と語ります(ヘブライ11:13参照)。アドベントは、神様の約束に信頼して歩み始める季節です。
その歩みを「旅」にたとえるなら、私たちは三つの大切な視点を思い起こします。第一は「昔」―イエス様がベツレヘムに来てくださった出来事、第二は「現在」―日々の生活の中で主がそばにいてくださる恵み、第三は「未来」―イエス様が再び来てくださるという希望の約束です。この三つの時は、イエス・キリストという一本の光の道でつながっています。
預言者イザヤは、不安の中にあった民に「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる(イザヤ41:10)」と語りました。私たちの弱さや暗闇のただ中でも、神様は先に手を伸ばし、私たちを支え、歩みを導いてくださいます。また、洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた(2)」と呼びかけました。それは責める言葉ではなく、「光が近づいているから、光のほうへ向きを変えなさい」という優しい招きです。
アドベント第一主日の今日、私たちの心に一本の小さな光が灯されました。神様の救いは、いつも小さく、静かに始まります。ベツレヘムの小さな町、飼い葉桶の小さな場所、そして小さな命。神様は小さな光から救いを広げてくださるお方です。どうかこの小さな光を心に守りながら、来られるイエス様を待ち望むアドベントの歩みを、希望と共に始めましょう。
