2025.11.9 週報掲載の説教

2025.11.9 週報掲載の説教

<2025年9月14日の説教から>

命は神の言葉と共に

ヨハネによる福音書12章44節~50節

牧師 鈴木 美津子

預言者イザヤは、「神の言葉は必ずその目的を果たし、命を生み出す」と語った。神の言葉は雨や雪のように大地を潤し、芽を出させ、実を結ばせる。ヨハネ福音書は、この言葉が主イエスのうちに実現したことを示す。御言葉が肉となり、私たちのただ中に来られた―それが主イエス・キリストである。
主イエスは「わたしを信じる者は、わたしを遣わされた方を信じるのである(44)」と言われた。御子を信じることは、父なる神を信じることにほかならない。主の語る言葉は、命をもたらす神の思いである。信じるとは、神の導きに自分を委ねること。怒りや不安に心が支配されそうなとき、御言葉に耳を傾け、その導きに従うとき、そこに信仰の行いがある。
主イエスはまた「わたしは光として世に来た」と言われた。光は、闇の中にある私たちを照らし、真の姿を映し出す。弱さや愚かさを明らかにしながらも、希望へ導く光である。自分に不利益をもたらす人を避けず、思いやりをもって向き合うとき、私たちは光の中を歩んでいる。
さらに主イエスは「わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来た(47)」と言われた。神の言葉は私たちを責めるためでなく、救い、立ち上がらせるために語られている。真の裁きとは、光を拒み、自ら闇を選ぶ人間の現実である。だからこそ、私たちは愛と祈りをもって隣人のために生きるよう招かれている。
主イエスはまた「父の命令は永遠の命である(50)」と言われた。この「命令」とは、命を与える神の言葉そのもの。御言葉を受け入れるとき、その瞬間から永遠の命が始まる。たとえ忙しくて聖書を開けない日があっても、祈りの中で御言葉を思い起こすとき、希望と力が与えられる。光であるキリストのうちにとどまり、この一週間も御言葉と共に歩もう。

2025.11.2 週報掲載の説教

2025.11.2 週報掲載の説教

『悲しみの中にある希望 』

マタイによる福音書5章4節

鈴木 美津子

 
*本日の説教の要約です。

 
本日は召天者記念礼拝です。私たちは先に天に召された方々を思い起こし、その生涯を覚え、神さまに感謝します。

主イエスは「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と語られました。悲しみは大切な絆を思い出させます。涙が流れることも、あまりに大きな悲しみのために涙すら出ないこともあります。沈黙もまた愛の表れであり、神はそのすべてをご存じです。

召された方々はそれぞれ賜物を与えられ、祈りや奉仕を担い、教会や家庭を支えました。その働きは神の御手に覚えられています。悲しみと共に感謝があふれ、その感謝は私たちが信仰を受け継ぐ力ともなります。

聖書は「死」は終わりではなく、神に迎え入れられる入り口だと語ります。やがて私たちも、神の定められた良き日に新しい命に生きるときが来ます。そのとき、先に召された方々と再会できるのです。これは願望ではなく、復活の主イエス・キリストの勝利に基づく確かな約束です。

ご遺族の皆さま、神は流された涙をすべてご存じです。その歩みは孤独ではありません。神が共におられ、私たちも共にあります。どうかこの希望に支えられて、これからの日々を歩んでいただきたいと願います。

2025.10.26 主日礼拝の案内

2025.10.26 主日礼拝の案内

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。

わたしを通らなければだれも父のもとに行くことができない。」

(ヨハネによる福音書14章6節)

 
週 報 81巻 43号 2025.10.26

 
主 日 礼 拝<宗教改革記念日・神学校日>

午前 10:30               奏楽 田 中 愛

 
<神の招き>

 
招 詞  ローマの信徒への手紙3章23節~24節

 
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 
24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
 
讃 詠 *546 聖なるかな
聖なるかな 聖なるかな
聖なるかな 主なるかみ
むかしいまし いまいまし
とわにいます 主をたたえん
アーメン
罪の告白と赦し 詩編130編1節~8節

 
1【都に上る歌。】
深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
2 主よ、この声を聞き取ってください。
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
3 主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら
主よ、誰が耐ええましょう。
4 しかし、赦しはあなたのもとにあり
人はあなたを畏れ敬うのです。
5 わたしは主に望みをおき
わたしの魂は望みをおき
御言葉を待ち望みます。
6 わたしの魂は主を待ち望みます
見張りが朝を待つにもまして
見張りが朝を待つにもまして。
7 イスラエルよ、主を待ち望め。
慈しみは主のもとに
豊かな贖いも主のもとに。
8 主は、イスラエルを
すべての罪から贖ってくださる。
 
讃美歌  *30  あさかぜ静かに吹きて

 
あさかぜしずかにふきて、 小鳥もめさむるとき、

きよけき朝よりきよく、 うかぶは神のおもい。

アーメン

 
<神の言葉>

 
聖 書 詩編119編33節〜40節     (旧約P.960)

 
(ヘー)
33 主よ、あなたの掟に従う道を示してください。
最後までそれを守らせてください。
34 あなたの律法を理解させ、保たせてください。
わたしは心を尽くしてそれを守ります。
35 あなたの戒めに従う道にお導きください。
わたしはその道を愛しています。
36 不当な利益にではなく
あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
37 むなしいものを見ようとすることから
わたしのまなざしを移してください。
あなたの道に従って
命を得ることができますように。
38 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。
わたしはあなたを畏れ敬います。
39 わたしの恐れる辱めが
わたしを避けて行くようにしてください。
あなたは良い裁きをなさいます。
40 御覧ください
わたしはあなたの命令を望み続けています。
恵みの御業によって
命を得させてください。
 
 
ヨハネによる福音書14章1節~14節(新約P.196)

 
1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 
2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 
3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 
4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 
5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 
6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 
7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 
8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 
9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 
10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 
11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 
12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 
13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 
14 わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
 
祈 り                  三 浦 勇 二

 
讃美歌  *284 主の尊きみ言葉は

1 主のとうとき みことばは わが生命(いのち)の もといなり たよるわれは 安けしや 世にまたなき みことばよ

2  ただ我のみ汝(な)が神ぞ おそれず行け ためらわで 力つよき 我が腕(かいな) なれにそいて はなれじ

3 なやみの火は燃え上がり なげきの河 あふるとも めぐみの手に すがりなば つねに勝ちて あまりあらん

4 老いの坂を のぼりゆき かしらの雪 積もるとも 変わらぬ 我が愛におり 安けくあれ 我が民よ

 
説 教  「道・真理・命に生きる」   鈴木 美津子

 
 
<神への応答>

 
讃美歌 *494 わがゆく道いついかに

1 わが行(ゆ)く道 いついかに なるべきかは

つゆ知らねど 主は御心 成し給わん 備え給う

主の道を 踏みて行かん 一筋に

 
2 心猛(たけ)く たゆまざれ 人は変わり

世は移れど 主は御心 成し給わん 備え給う

主の道を 踏みて行かん 一筋に

 
3 荒海(あらうみ)をも うち開き

砂漠(すなはら)にも マナを降らせ 主は御心

成し給わん 備え給う 主の道を 踏みて行かん 一筋に

 
 
使徒信条

 
わたしは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。

わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。

主は聖霊によってやどり、処女マリヤから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで

苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に

死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。

そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。

わたしは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、

からだの復活、永遠のいのちを信じます。

アーメン。

 
 
公 告

 
献金感謝

 
主の祈り
天にまします我らの父よ、
 
願わくは御名をあがめさせたまえ
 
御国を来たらせたまえ。
 
御心の天に成る如く、地にもなさせたまえ。
 
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
 
我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。
 
我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。
 
国と力と栄えとは、限りなく、汝のものなればなり。
 
アーメン
頌 栄 *544 あまつみたみも

 
あまつみたみも 地にあるものも

父子みたまの かみをたたえよ

 
派遣と祝福

 
後 奏

 
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神がわたしたちを憐れみ、祝福し、

御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。

あなたの道をこの地が知り、

御救いをすべての民が知るために。

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2025.10.19 週報掲載の説教

2025.10.19 週報掲載の説教

 
あなたの名を呼ぶイエス様
あなたは大切な存在です

ルカによる福音書19章1節〜10節

鈴木美津子

*本日の説教の要約です。

 
皆さん、自分の名前を呼ばれたとき、どんな気持ちになりますか。名前を呼ばれることは安心を与え、「私はここにいる」「私は忘れられていない」と感じさせてくれます。

今日の聖書に登場するザアカイもまた、名前を呼ばれた一人でした。彼は徴税人の頭として裕福でしたが、人々から「裏切り者」と嫌われ、宗教的にも「罪人」と呼ばれて孤独の中にいました。そのザアカイが、町に来られたイエス様を「どうしても見たい」と願い、木に登りました。群衆のざわめきの中で、イエス様は立ち止まり、彼を見上げて言われたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。

「おい、そこの人」ではなく、「ザアカイ」と名を呼ばれたのです。その一言は「あなたを知っている」「あなたは大切だ」というメッセージでした。孤独に縛られていたザアカイの心は解き放たれ、彼は喜んでイエス様を迎えました。

当時、人々は「罪人」との交わりを避けました。罪人の家に泊まることは評判を失う行為でした。しかしイエス様はその壁を越え、「あなたと共にいたい」と言われたのです。ザアカイの家は、誰も訪ねることのなかった孤独な家から、主が泊まられる家に変えられました。そのとき彼の人生も大きく変えられたのです。

ザアカイは「財産の半分を貧しい人に施し、不正に取ったものは四倍にして返す」と言いました。富に縛られていた人が、他者のために生きる人へと変えられたのです。イエス様は宣言されました。「今日、この家に救いが来た」。

「今日」からザアカイの新しい人生が始まりました。孤独から解放され、人と結び合い、神に愛されて生きる人生です。

イエス様は今も、一人ひとりの名前を呼んでおられます。
「あなたは大切だ。あなたは一人ではない」。この招きはあなたにも向けられています。イエス様と共に歩む新しい一歩を、今から始めてみませんか。

2025.10.12 週報掲載の説教

2025.10.12 週報掲載の説教

<2025年9月7日説教から>

主イエスの栄光

ヨハネによる福音書12章36節b〜43節

鈴木美津子

 
ヨハネ福音書は、冒頭から「光と闇」のテーマを描いている。「光」とは主イエスご自身、神の命と救いのしるしである。主イエスは「光のあるうちに歩きなさい」と語られたが、その直後に人々から身を隠された。光が隠されることは、十字架への道が始まることを意味している。

主イエスは多くの「しるし」を行い、神の栄光を現された。カナの婚宴のぶどう酒、病人の癒し、五千人の給食、生まれつきの盲人の癒し、そしてラザロの復活。これらはすべて「イエスは命の光である」ことを示す出来事であった。しかし多くの人々は信じなかった。自分の期待や利益に心を縛られ、真の光を見ようとしなかったからである。

ヨハネはこの不信仰を、イザヤの預言の成就として理解した。「苦難のしもべ」は人々に退けられ、軽蔑される姿で描かれている。その姿は十字架に向かう主イエスと重なった。また「心をかたくなにし、目を暗くせよ」というイザヤの言葉は、光を拒み続ける人間の心の現実を示している。光が差し込んでいるのに、その時に受け入れなければ本当に見えなくなってしまうのだ。こうした不信仰の現実は、当時の宗教指導者や議員たちの中にも現れた。

議員の中にも主イエスを信じる者はいたが、公に告白する者はいなかった。「神の誉れ」よりも「人の誉れ」を優先したからである。ここに信仰と不信仰の分岐点がある。信仰とは、心で信じるだけでなく、口で公に言い表し、行動で示すものである。

私たちもまた、人の評価や周囲の目を恐れて信仰を小さく隠してしまうことがあるのではないか。しかし主イエスは、人からの誉れを退け、神の誉れを愛し抜いて十字架の道を歩まれた。その十字架こそ神の栄光の現れであり、私たちへの救いのしるしである。
私たちは日々の生活の中で、光を選び取る決断へと招かれている。朝の光に心を開くとき、隣人への小さな思いやりを示すとき、そして祈りと御言葉に耳を傾けるとき、その一歩一歩が神の栄光に結びつく。弱さや迷いを抱える私たちも、光に照らされて新しい歩みへと導かれているのである。

2025.10.5 週報掲載の説教

2025.10.5 週報掲載の説教

<2025年8月24日説教から>

「光の子となるために」

ヨハネによる福音書12章27節~36節a

牧師  鈴木美津子

私たちは闇を恐れ、光を求める存在である。真っ暗な夜道や心の不安の中で、光は私たちに安心と希望を与える。旧約の預言者イザヤは「死の陰の地に住む者の上に光が輝く」と告げ、未来に来る救いと希望の光を示した。この光は単なる慰めではなく、神ご自身がもたらす救いのしるしであり、新約においてイエス・キリストにより成就した。

十字架を目前にした主イエスは「今、わたしは心騒ぐ」と語り、人としての苦悩を経験された。しかし主イエスは神の御心にゆだね、「御名の栄光を現してください」と祈られた。十字架を通してこそ、世界に命と光がもたらされ、人々を神へと引き寄せる救いが成し遂げられるのだ。主イエスの苦悩は、私たちの孤独や不安、痛みと重なる。だからこそ、主は私たちに寄り添い、光の道へ導いてくださる。

けれども人々は神の声を聞いても理解できず、期待との違いに戸惑った。私たちもまた、自分の思い通りの救いを望んでしまう。しかし神の救いは私たちの理解を超えて現れる。だからこそ、「光のあるうちに」光を信じ、身を委ねて歩むことが求められているのである。信仰とは、単なる知識ではなく、主イエスという光に自らをゆだね、導かれる方向へ歩み出すことにある。

主イエスを信じる者は「光の子」とされ、闇に支配されず、周囲に希望を照らす使命を担う。日々の思いやりの言葉や行動、弱い人を支える姿勢が光を放つ。どんなに暗い世界でも、光の子としての歩みは希望をもたらし、闇は決して光に勝てない。この光は特別なものではなく、私たちの生活の中に現れ、導き、周囲を照らす。

この光を信じ、小さな選択や行動に表すとき、世の中に希望の輪が広がる。私たちは今、世の光である主イエスを信じ、神に愛される「光の子」として歩むよう招かれている。光を信じて実践することこそ、私たちの喜びであり生きる力となる。光を信じて歩むとき、私たちは闇に怯えるのではなく、希望を抱いて前へ進むことができるのである。