2026.11.1 週報掲載の説教

2026.11.1 週報掲載の説教

『死を超えて、主を待ち望む』

ヨハネによる福音書11章17~27節

鈴木美津子

*本日の説教の要約です。

本日は召天者記念礼拝です。私たちは、先に天に召された方々を覚え、ご家族や親しい方々と共に神様の御前に集っています。大切な人との別れは深い悲しみをもたらします。時が過ぎても、懐かしさや寂しさが心に残ることがあります。そのような私たちに、聖書は死を超える希望を語ります。

ヨハネによる福音書11章には、弟ラザロを失ったマルタの姿が記されています。イエス様を迎えたマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。その言葉には、深い悲しみとともに、イエス様への信頼も込められていました。イエス様は人の悲しみを御存じであり、御自身も涙を流されたお方です。

イエス様はマルタに「あなたの兄弟は復活する」と語られました。マルタは、終わりの日に神様が死者を復活させてくださると信じていました。しかし、目の前にあるのは弟の死です。イエス様は、そのマルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。復活の希望は、主イエス・キリスト御自身にあるのです。十字架にかかられ、死者の中から復活された主は、死によっても失われることのない命を約束してくださいます。

イエス様は続けて、「あなたはこのことを信じるか」と問われました。マルタは、弟を失った悲しみの中で、イエス様を神の子、メシアであると告白しました。この問いは、今日、御言葉を聞く私たちにも向けられています。私たちも、人生のさまざまな出来事の中で、復活の主に信頼するよう招かれているのです。

イザヤ書25章には、神様がすべての民のために祝宴を備え、「死を永久に滅ぼしてくださる」と約束されたことが記されています。神様は、すべての顔から涙をぬぐってくださいます。愛する人を失った悲しみも、私たちが流す涙も、神様は御存じです。この約束は、イエス・キリストの復活によって、確かな希望として示されました。

私たちは、先に召された方々の生涯を感謝をもって覚え、その一人一人を神様の御手に委ねます。今を生きる私たちも、与えられた命を大切にしながら、復活の主に信頼して生きてまいりたいと思います。やがて主が再び来られ、神様の救いが完成する日を、共に待ち望んでまいりましょう。

【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載

【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載

<主な決議事項・協議事項>

1.イースター募金送金先について

シロアムの友の会へ募金することとした。

2.イースター卵作りについて

4月4日(土)10時~ イースター卵作りを行う。受付に

用紙を置き、奉仕者5名を募ることとした。

3.日曜学校進級式について

4月5日(日)イースター礼拝後の報告時に進級式を行うこと

とした。

4.ペンテコステ礼拝について

信仰50周年大嶋幸子さんの祝いの品を事前に訊いておく。

礼拝後は「茶話会」を行うこととした。

5.来年度神学校卒業予定神学生の祈祷会奨励について

神学生北村幸啓(所属教会 旭川、 出席教会 世田谷千歳)

に依頼することとした。期日は未定

6.日曜学校礼拝開始時間変更に伴い、礼拝奏楽の練習時間を

9時45分〜10時15分までとすることとした。
  1. 3月29日(日)礼拝後、花壇の草取りを行うこととした。
8 .4月12日(日)上田教会との講壇交換の日について

・菅原正道牧師との昼食は長老2名が共にすることととした。(菊地晴子、森﨑千恵)

・当日の礼拝司式は長老 森﨑千恵が行う。

・礼拝では聖書協会共同訳を使用するので、鈴木美津子牧師が

プリントを準備する。
  1. 教会建設記念礼拝について4月19日(日)
・役割分担を確認した。長く礼拝を欠席している会員、近隣の

日本キリスト教会の教会に案内を送付する。

(ハガキ作成:森﨑千恵)

・合同礼拝とする。

・祝会の挨拶と開会・食前の祈祷:鈴木美津子牧師

・愛餐後DVD「ボンヘッファー」を上映する。

(DVD用意:執事薄田東正)

・閉会祈祷:長老菊地晴子

2026.10.18 週報掲載の説教

2026.10.18 週報掲載の説教

『わたしのもとに来なさい』

イザヤ書55章1〜3節/マタイによる福音書11章28〜30節

鈴木美津子

*本日の説教の要約です。

イザヤ書には、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」とあります。そしてイエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と言われました。どちらにも、神様からの招きがあります。神様の方から私たちを招いてくださっているのです。

イエス様は、「だれでも」と言われます。これまで聖書に親しんできた人も、初めて御言葉に触れる人も、大人も子どもも、すべての人が招かれています。イザヤ書にも「銀を持たない者も来るがよい」とあります。神様の恵みは、何かを差し出すことによって得るものではなく、神様から惜しみなく与えられるものです。

私たちは、目には見えなくても、心にさまざまな重荷を抱えて生きています。心配なこと、悩んでいること、誰にも言えず心にしまっていることがあります。イエス様は、そのような私たちを知り、重荷を抱えたままで御自分のもとへ来るように招いてくださいます。

私たちを招いておられるイエス様は、御自身を「柔和で謙遜な者」と言われます。イエス様は、悲しんでいる人や病気の人、周りから遠ざけられていた人々のところへ近づき、一人ひとりの声に耳を傾け、共にいてくださいました。そのイエス様が、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われます。私たちは御言葉を聞き、祈り、礼拝をささげながら、この方を知り、その教えに導かれて生きていきます。

イエス様は、「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と約束してくださいます。それは、私たちを知り、愛してくださる神様に支えられている安心です。自分の力ではどうすることもできないことに出会う時にも、私たちは神様の御手に自分自身を委ねることができます。

私たちの重荷をご存じのイエス様は、御自身が私たちの罪を負って十字架にかかり、神様はこの方を死の中から復活させてくださいました。このイエス様が、今も私たちを招いてくださっています。――「わたしのもとに来なさい。」

私たちを招いてくださる方がおられます。これからも、このイエス様の招きに応えて、共に歩んでまいりましょう。

2026.10.11 週報掲載の説教

2026.10.11 週報掲載の説教

【2026年7月12日の説教から】

『証しする者として生きる』
ヨハネによる福音書21章24節〜25節

牧師 鈴木美津子

ヨハネによる福音書は、最後に「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である(24)」と語る。ヨハネは、自分が記したものを単なる記録や物語とは呼ばず、「証し」と呼んだ。

ヨハネ福音書は、その初めから「証し」を大切な主題としてきた。洗礼者ヨハネは、光であるキリストを指し示すために遣わされ、使徒ヨハネもまた、自分自身を語るのではなく、イエス・キリストを証しするためにこの福音書を書いたのである。

証しとは、自分の考えや意見を語ることではない。自分が見たこと、聞いたこと、経験したことを語ることである。ヨハネは、主イエスの数々の御業を見、十字架の下に立ち、空の墓を見、そして復活の主にお会いした。だからこそ彼は書くことができた。いや、書かずにはいられなかったのである。

「証し」を意味するギリシア語「マルトゥリア」は、「殉教者(マルティル)」の語源でもある。初代教会において主イエスを証しすることは、時に命を失うことにつながった。それでも弟子たちは語り続けた。彼らはこの福音こそが、人を救う神の力であることを知っていたからである。

ヨハネは20章31節で、この福音書を書いた目的を明らかにしている。「イエスは神の子、メシアであると信じるためであり、また、信じて命を受けるため」である。聖書を読むことで私たちは多くを知る。しかし、ヨハネが目指したのは知識を増やすことではなかった。知ることと信じることは違う。信じるとは、イエス・キリストを信頼し、自分の人生をこのお方に委ねることである。

この二年半、私たちはヨハネ福音書を通して多くの出来事を読んできた。しかし、そのすべてが証ししていたのはただ一つ、「イエスは神の子、メシアである」ということであった。

ヨハネ福音書の講解説教は終わる。しかし、福音は終わらない。使徒たちから始まった証しは教会へ受け継がれ、今、私たちのもとへ届いている。私たちは証しを受けた者である。そして今度は、証しする者として遣わされている。御言葉に聞き、キリストに従い、キリストを証しする者として歩み続けたい。

2026.10.4 週報掲載の説教

2026.10.4 週報掲載の説教

【2026年7月5日の説教から】

『私の羊を飼いなさい』

ヨハネによる福音書21章15節〜23節

牧師 鈴木美津子

 
ヨハネ福音書の弟子たちの歩みは、「来なさい。そうすれば分かる」という主イエス・キリストの招きから始まり、「わたしに従いなさい」という招きで結ばれる。弟子たちは主イエスに従い、多くの奇跡を見、御言葉を聞き、豊かな恵みにあずかった。しかし十字架を前にすると恐れに支配され、ペトロは三度「イエスを知らない」と口にしてしまう。それでも彼らの歩みは失敗で終わらなかった。復活の主は弟子たちの前に現れ、ガリラヤ湖畔で食卓を共にし、まず彼らとの交わりを回復された。

食事の後、主はペトロに「ヨハネの子シモン」と呼びかけられる。「ペトロ」ではなく、最初に出会った時と同じ名で呼ばれたのは、教会の指導者としてではなく、一人の人として向き合われたからである。主は彼の弱さも失敗も悲しみも喜びもすべてご存じの上で、その名を呼ばれた。

続いて主は三度、「わたしを愛しているか」と問いかけられる。この問いは失敗を責めるためではなく、三度の否認を三度の愛の告白へと変え、ペトロを立ち上がらせるためであった。ペトロは「主よ、あなたがご存じです」と答える。自分を飾ることなく、自分をすべて知っておられる主に身を委ねたのである。

その告白を受け止めた主は、「わたしの羊を飼いなさい」と使命を託された。教会は人のものではなく、十字架によって贖われたキリストの教会である。だからこそ、主は赦した者を用い、ご自分の羊を委ねられる。教会の歩みは、主が先に愛し、赦し、託してくださる恵みから始まる。

さらに主は、「わたしに従いなさい」と再び招かれる。人と自分を比べるのではなく、それぞれに与えられた道を主と共に歩むよう招かれているのである。エゼキエル書が約束した「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。(エゼキエル34:11)」という言葉は、良い羊飼いイエス・キリストにおいて成就した。羊は最後まで主の羊であり、教会は最後まで主の教会である。主は今も私たち一人ひとりの名を知り、今日も静かに語りかけておられる。「わたしに従いなさい」と。

2026.9.20 週報掲載の説教

2026.9.20 週報掲載の説教

【2026年7月5日の説教から】

『私の羊を飼いなさい』

ヨハネによる福音書21章15節〜23節

鈴木美津子

 
ヨハネ福音書の弟子たちの歩みは、「来なさい。そうすれば分かる」という主イエス・キリストの招きから始まり、「わたしに従いなさい」という招きで結ばれる。弟子たちは主イエスに従い、多くの奇跡を見、御言葉を聞き、豊かな恵みにあずかった。しかし十字架を前にすると恐れに支配され、ペトロは三度「イエスを知らない」と口にしてしまう。それでも彼らの歩みは失敗で終わらなかった。復活の主は弟子たちの前に現れ、ガリラヤ湖畔で食卓を共にし、まず彼らとの交わりを回復された。

食事の後、主はペトロに「ヨハネの子シモン」と呼びかけられる。「ペトロ」ではなく、最初に出会った時と同じ名で呼ばれたのは、教会の指導者としてではなく、一人の人として向き合われたからである。主は彼の弱さも失敗も悲しみも喜びもすべてご存じの上で、その名を呼ばれた。

続いて主は三度、「わたしを愛しているか」と問いかけられる。この問いは失敗を責めるためではなく、三度の否認を三度の愛の告白へと変え、ペトロを立ち上がらせるためであった。ペトロは「主よ、あなたがご存じです」と答える。自分を飾ることなく、自分をすべて知っておられる主に身を委ねたのである。

その告白を受け止めた主は、「わたしの羊を飼いなさい」と使命を託された。教会は人のものではなく、十字架によって贖われたキリストの教会である。だからこそ、主は赦した者を用い、ご自分の羊を委ねられる。教会の歩みは、主が先に愛し、赦し、託してくださる恵みから始まる。

さらに主は、「わたしに従いなさい」と再び招かれる。人と自分を比べるのではなく、それぞれに与えられた道を主と共に歩むよう招かれているのである。エゼキエル書が約束した「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。(エゼキエル34:11)」という言葉は、良い羊飼いイエス・キリストにおいて成就した。羊は最後まで主の羊であり、教会は最後まで主の教会である。主は今も私たち一人ひとりの名を知り、今日も静かに語りかけておられる。「わたしに従いなさい」と。