2026.10.11 週報掲載の説教

2026.10.11 週報掲載の説教

【2026年7月12日の説教から】

『証しする者として生きる』
ヨハネによる福音書21章24節〜25節

牧師 鈴木美津子

ヨハネによる福音書は、最後に「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である(24)」と語る。ヨハネは、自分が記したものを単なる記録や物語とは呼ばず、「証し」と呼んだ。

ヨハネ福音書は、その初めから「証し」を大切な主題としてきた。洗礼者ヨハネは、光であるキリストを指し示すために遣わされ、使徒ヨハネもまた、自分自身を語るのではなく、イエス・キリストを証しするためにこの福音書を書いたのである。

証しとは、自分の考えや意見を語ることではない。自分が見たこと、聞いたこと、経験したことを語ることである。ヨハネは、主イエスの数々の御業を見、十字架の下に立ち、空の墓を見、そして復活の主にお会いした。だからこそ彼は書くことができた。いや、書かずにはいられなかったのである。

「証し」を意味するギリシア語「マルトゥリア」は、「殉教者(マルティル)」の語源でもある。初代教会において主イエスを証しすることは、時に命を失うことにつながった。それでも弟子たちは語り続けた。彼らはこの福音こそが、人を救う神の力であることを知っていたからである。

ヨハネは20章31節で、この福音書を書いた目的を明らかにしている。「イエスは神の子、メシアであると信じるためであり、また、信じて命を受けるため」である。聖書を読むことで私たちは多くを知る。しかし、ヨハネが目指したのは知識を増やすことではなかった。知ることと信じることは違う。信じるとは、イエス・キリストを信頼し、自分の人生をこのお方に委ねることである。

この二年半、私たちはヨハネ福音書を通して多くの出来事を読んできた。しかし、そのすべてが証ししていたのはただ一つ、「イエスは神の子、メシアである」ということであった。

ヨハネ福音書の講解説教は終わる。しかし、福音は終わらない。使徒たちから始まった証しは教会へ受け継がれ、今、私たちのもとへ届いている。私たちは証しを受けた者である。そして今度は、証しする者として遣わされている。御言葉に聞き、キリストに従い、キリストを証しする者として歩み続けたい。

【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載

【3月定期小会報】2026.3.22 の週報掲載

<主な決議事項・協議事項>

1.イースター募金送金先について

シロアムの友の会へ募金することとした。

2.イースター卵作りについて

4月4日(土)10時~ イースター卵作りを行う。受付に

用紙を置き、奉仕者5名を募ることとした。

3.日曜学校進級式について

4月5日(日)イースター礼拝後の報告時に進級式を行うこと

とした。

4.ペンテコステ礼拝について

信仰50周年大嶋幸子さんの祝いの品を事前に訊いておく。

礼拝後は「茶話会」を行うこととした。

5.来年度神学校卒業予定神学生の祈祷会奨励について

神学生北村幸啓(所属教会 旭川、 出席教会 世田谷千歳)

に依頼することとした。期日は未定

6.日曜学校礼拝開始時間変更に伴い、礼拝奏楽の練習時間を

9時45分〜10時15分までとすることとした。
  1. 3月29日(日)礼拝後、花壇の草取りを行うこととした。
8 .4月12日(日)上田教会との講壇交換の日について

・菅原正道牧師との昼食は長老2名が共にすることととした。(菊地晴子、森﨑千恵)

・当日の礼拝司式は長老 森﨑千恵が行う。

・礼拝では聖書協会共同訳を使用するので、鈴木美津子牧師が

プリントを準備する。
  1. 教会建設記念礼拝について4月19日(日)
・役割分担を確認した。長く礼拝を欠席している会員、近隣の

日本キリスト教会の教会に案内を送付する。

(ハガキ作成:森﨑千恵)

・合同礼拝とする。

・祝会の挨拶と開会・食前の祈祷:鈴木美津子牧師

・愛餐後DVD「ボンヘッファー」を上映する。

(DVD用意:執事薄田東正)

・閉会祈祷:長老菊地晴子

2026.10.4 週報掲載の説教

2026.10.4 週報掲載の説教

【2026年7月5日の説教から】

『私の羊を飼いなさい』

ヨハネによる福音書21章15節〜23節

牧師 鈴木美津子

 
ヨハネ福音書の弟子たちの歩みは、「来なさい。そうすれば分かる」という主イエス・キリストの招きから始まり、「わたしに従いなさい」という招きで結ばれる。弟子たちは主イエスに従い、多くの奇跡を見、御言葉を聞き、豊かな恵みにあずかった。しかし十字架を前にすると恐れに支配され、ペトロは三度「イエスを知らない」と口にしてしまう。それでも彼らの歩みは失敗で終わらなかった。復活の主は弟子たちの前に現れ、ガリラヤ湖畔で食卓を共にし、まず彼らとの交わりを回復された。

食事の後、主はペトロに「ヨハネの子シモン」と呼びかけられる。「ペトロ」ではなく、最初に出会った時と同じ名で呼ばれたのは、教会の指導者としてではなく、一人の人として向き合われたからである。主は彼の弱さも失敗も悲しみも喜びもすべてご存じの上で、その名を呼ばれた。

続いて主は三度、「わたしを愛しているか」と問いかけられる。この問いは失敗を責めるためではなく、三度の否認を三度の愛の告白へと変え、ペトロを立ち上がらせるためであった。ペトロは「主よ、あなたがご存じです」と答える。自分を飾ることなく、自分をすべて知っておられる主に身を委ねたのである。

その告白を受け止めた主は、「わたしの羊を飼いなさい」と使命を託された。教会は人のものではなく、十字架によって贖われたキリストの教会である。だからこそ、主は赦した者を用い、ご自分の羊を委ねられる。教会の歩みは、主が先に愛し、赦し、託してくださる恵みから始まる。

さらに主は、「わたしに従いなさい」と再び招かれる。人と自分を比べるのではなく、それぞれに与えられた道を主と共に歩むよう招かれているのである。エゼキエル書が約束した「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。(エゼキエル34:11)」という言葉は、良い羊飼いイエス・キリストにおいて成就した。羊は最後まで主の羊であり、教会は最後まで主の教会である。主は今も私たち一人ひとりの名を知り、今日も静かに語りかけておられる。「わたしに従いなさい」と。

2026.9.20 週報掲載の説教

2026.9.20 週報掲載の説教

【2026年7月5日の説教から】

『私の羊を飼いなさい』

ヨハネによる福音書21章15節〜23節

鈴木美津子

 
ヨハネ福音書の弟子たちの歩みは、「来なさい。そうすれば分かる」という主イエス・キリストの招きから始まり、「わたしに従いなさい」という招きで結ばれる。弟子たちは主イエスに従い、多くの奇跡を見、御言葉を聞き、豊かな恵みにあずかった。しかし十字架を前にすると恐れに支配され、ペトロは三度「イエスを知らない」と口にしてしまう。それでも彼らの歩みは失敗で終わらなかった。復活の主は弟子たちの前に現れ、ガリラヤ湖畔で食卓を共にし、まず彼らとの交わりを回復された。

食事の後、主はペトロに「ヨハネの子シモン」と呼びかけられる。「ペトロ」ではなく、最初に出会った時と同じ名で呼ばれたのは、教会の指導者としてではなく、一人の人として向き合われたからである。主は彼の弱さも失敗も悲しみも喜びもすべてご存じの上で、その名を呼ばれた。

続いて主は三度、「わたしを愛しているか」と問いかけられる。この問いは失敗を責めるためではなく、三度の否認を三度の愛の告白へと変え、ペトロを立ち上がらせるためであった。ペトロは「主よ、あなたがご存じです」と答える。自分を飾ることなく、自分をすべて知っておられる主に身を委ねたのである。

その告白を受け止めた主は、「わたしの羊を飼いなさい」と使命を託された。教会は人のものではなく、十字架によって贖われたキリストの教会である。だからこそ、主は赦した者を用い、ご自分の羊を委ねられる。教会の歩みは、主が先に愛し、赦し、託してくださる恵みから始まる。

さらに主は、「わたしに従いなさい」と再び招かれる。人と自分を比べるのではなく、それぞれに与えられた道を主と共に歩むよう招かれているのである。エゼキエル書が約束した「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。(エゼキエル34:11)」という言葉は、良い羊飼いイエス・キリストにおいて成就した。羊は最後まで主の羊であり、教会は最後まで主の教会である。主は今も私たち一人ひとりの名を知り、今日も静かに語りかけておられる。「わたしに従いなさい」と。

2026.9.13 週報掲載の説教

2026.9.13 週報掲載の説教

<2026年6月21日の説教から>

『主による再召命』

ヨハネによる福音書21章1節~14節

鈴木美津子

復活の主と出会った弟子たちは、なお自分たちがこれからどのように歩むべきか見えていなかった。そのような中、ペトロは「わたしは漁に行く」と言い、他の弟子たちも共に舟を出す。しかし、その夜は何もとれなかった。長年漁師として培った経験も技術もあった。それでも実りはなかった。この姿は、主に従ってきたにもかかわらず、十字架の出来事の中で自らの弱さと限界を知らされた弟子たちの姿である。同時に、努力しても思うようにいかず、自分の力の限界を知らされる私たち自身の姿でもある。

夜が明けるころ、復活の主はすでに岸辺に立っておられた。しかし弟子たちは気づかない。マグダラのマリアもそうであったように、主は私たちより先に近づいておられるにもかかわらず、私たちはすぐには気づくことができない。それでも主は声をかけ、「舟の右側に網を打ちなさい」と命じられる。その言葉に従ったとき、大漁となり、弟子たちは「主だ」と気づく。信仰とは、私たちが主を見つけ出すことではなく、主が先に私たちに語りかけ、御言葉によってご自身を示してくださる恵みである。

岸辺には炭火が起こされ、パンと魚が備えられていた。「炭火」は、ペトロが大祭司の中庭で三度主を否認した夜を思い起こさせる。主はその記憶を消し去るのではなく、その場所に共に立ち、責めることなく食卓へ招かれた。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」との招きは、失敗した者をなお受け入れ、養われる主の恵みを示している。また、湖畔のパンと魚は五千人の給食を思い起こさせ、「わたしが命のパンである」と語られた主が、今も弟子たちを養っておられることを示している。

この朝の出来事は、この後に続くペトロの再召命への備えである。主はまず養い、受け入れ、その後で託される。詩編23編が語る良い羊飼いのように、主は弱った者を養い、魂を生き返らせてくださる。教会もまた、そのような主に招かれ、赦され、養われながら歩む群れである。私たちの人生にも思い出したくない出来事や失敗はある。しかし復活の主は、そのような私たちを退けることなく、今日もなお「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださる。その招きの中で、私たちは再び歩み始めるのである。

2026.9.6 週報掲載の説教

2026.9.6 週報掲載の説教

<2026年6月14日の説教から>

『この書が記された目的』

ヨハネによる福音書20章30節〜31節

鈴木美津子

ヨハネ福音書20章30〜31節は、この福音書全体の目的を語る箇所である。ヨハネは、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの何より命を受けるためである」と語る。ここでヨハネは、単なる歴史の記録を書いているのではない。この福音書を読む者が、イエス・キリストを信じ、命を受けるために書いているのである。

ヨハネ福音書は、「初めに言があった」という言葉で始まる。ヨハネは、イエス・キリストを単なる歴史上の人物としてではなく、天地創造に関わるお方として語っている。そして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語り、神ご自身がこの世界に来てくださったことを示す。苦しみや涙、罪と死の現実の中へ、神ご自身が来てくださったのである。

ヨハネ福音書は、数々の「しるし」を通して、このお方がどなたであるのかを示していく。水をぶどう酒に変え、病人を癒やし、多くの人々を養われた。特にラザロの記事では、「わたしは復活であり、命である」という言葉が語られる。主イエスは、涙を流される主として、人の悲しみのただ中に立たれた。そして、ラザロを墓から呼び出された。この出来事を通してヨハネが示しているのは、「このお方のうちに命がある」ということである。

しかしこのお方は、十字架へ進まれた。人々に拒まれ、弟子たちにも見捨てられた。それでも逃げることなく、ご自身の命を与えられた。ヨハネ福音書は、十字架を敗北ではなく、神の愛が最も現された時として語る。そして十字架で終わるのではなく、復活へ至る。復活の主は、マリアに、恐れる弟子たちに、疑うトマスに現れてくださった。

トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する。この告白は、ヨハネ福音書全体の結論とも言える。ヨハネ福音書は最初から最後まで、「イエス・キリストとは誰か」を語っているのである。そしてこの福音書は、今も御言葉を通して、私たちを復活の主へと導いている。