2025.6.15 週報掲載の説教
<2025年5月4日の説教から>
『見える者、見えない者』
ヨハネによる福音書9章35節〜41節
鈴木 美津子
主イエスの「あなたは人の子を信じるか。(35)」との問いに、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。(36)」と、その人は尋ねた。生まれつき目の見えなかったこの人は、元は道端に座って物乞いをしていた。彼がどこまでメシアのことを聞いていたのかは分からない。それにもかかわらず、この人は、突然目の前に現れた人に真剣に尋ねたのだ。ここで彼が「主よ」と言っているのは、単に、ご主人さま、旦那さまといった言葉で、深い意味はないと考えられる。主イエスは、まだこの人に自分があなたを癒したとは言っていない。彼は、自分に問いかけるお方に「『人の子』と言うお方、信ずべきお方は一体どんな人か、その人を信じたい。どうすればよいのか」と問うたのである。彼は、その人こそ、イエスと呼ばれる人であり、自分の目を開けて見えるようにしてくれた存在、神から来た人、メシアに違いないと信じていたのである。
主イエスは、彼に答えられる。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。(37)」と。彼が、目を開けていただいたときから、会いたいと願っていたイエスと言うお方が、今、目の前にいる人だと言うのである。そして、このお方は、自ら、「人の子」と名乗り、ご自分が救い主メシアであることを隠されないお方であった。彼が、どれほど感激し、喜んだのかは、その時の彼の行動と言葉とを見れば分かることである。彼は「主よ、信じます。」と言って、ひざまずいた。このときの「主よ」とは、自分をその人のものとして下さる方、ご主人と言う意味である。彼は、すぐに主イエスの前にひざまずき、礼拝の姿勢を取ったのである。
霊の目を開いていただいた者は、主イエスを信じ、礼拝する者に変えられるのだ。この人のように主の御前にひざまずき、礼拝の姿勢をとること。これこそが、わたしたちが第一になすべきことである。主イエスは、わたしたちの心の目、霊の目を開いて下さる。それは、この癒されたこの人のように、私たちもまた、すべてが一度になされることではなく段階的に、また繰り返し与えられる恵みなのである。
2025.6.8 週報掲載の説教
2025.6.8 週報掲載の説教
<2025年4月27日の説教から>
『神のもとから来られた方』
ヨハネによる福音ヨハネによる福音書9章13節〜34節
牧師 鈴木 美津子
「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。(25)」
生まれつき目が見えなかった男の人にとって知っているただ一つのことは、「目の見えなかったわたしが今は見える」ということであった。そして、これは主イエスを通して神が生きて働いておられることが見えるということでもある。5章17節で、主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われた。この生まれつき目が見えなかった男の人は、主イエスに目を開けていただいた者として、主イエスの祈りを神が聞いてくださり、主イエスを通して神が生きて働いておられることを見ることができたのである。そして、そのことは主イエスを信じる私たち一人一人においても言えることである。主イエスの御名においてささげられる礼拝を通して神と出会い、神が生きて働いておられることを見るまなざしを私たちも与えられるからである。聖霊によって開かれた心の目によって、主イエスの十字架に、私たちに対する神の愛を見ることができる者とされたのである。
私たちが知っているただ一つのこと、それは主イエスの十字架の死が、わたしに対する神の愛の確かなしるしであるということ。私たちはそのことをもはや疑うことができないほどに、聖霊によって証印を押されている。それゆえ、私たちは主イエスが神のもとから遣わされた救い主であることを公に言い表さずにはいられない。
ユダヤ人たちは「神に栄光を帰しなさい」と言って、かつて盲人であった男の人を再び尋問した。その彼は自分の目を開けてくれた主イエスというお方が、神のもとから来られたことを公に言い表すことによって神に栄光を帰したのである。私たちも聖霊によって心の目を開けていただいた者として、主イエスを神のもとから来られた救い主であると公に言い表し、神に栄光を帰すことが求められている。神がお遣わしになった主イエスを神から遣わされた者として信じ、自分の口で言い表すこと。それが神に栄光を帰すことである。
<2025年4月27日の説教から>
『神のもとから来られた方』
ヨハネによる福音ヨハネによる福音書9章13節〜34節
牧師 鈴木 美津子
「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。(25)」
生まれつき目が見えなかった男の人にとって知っているただ一つのことは、「目の見えなかったわたしが今は見える」ということであった。そして、これは主イエスを通して神が生きて働いておられることが見えるということでもある。5章17節で、主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言われた。この生まれつき目が見えなかった男の人は、主イエスに目を開けていただいた者として、主イエスの祈りを神が聞いてくださり、主イエスを通して神が生きて働いておられることを見ることができたのである。そして、そのことは主イエスを信じる私たち一人一人においても言えることである。主イエスの御名においてささげられる礼拝を通して神と出会い、神が生きて働いておられることを見るまなざしを私たちも与えられるからである。聖霊によって開かれた心の目によって、主イエスの十字架に、私たちに対する神の愛を見ることができる者とされたのである。
私たちが知っているただ一つのこと、それは主イエスの十字架の死が、わたしに対する神の愛の確かなしるしであるということ。私たちはそのことをもはや疑うことができないほどに、聖霊によって証印を押されている。それゆえ、私たちは主イエスが神のもとから遣わされた救い主であることを公に言い表さずにはいられない。
ユダヤ人たちは「神に栄光を帰しなさい」と言って、かつて盲人であった男の人を再び尋問した。その彼は自分の目を開けてくれた主イエスというお方が、神のもとから来られたことを公に言い表すことによって神に栄光を帰したのである。私たちも聖霊によって心の目を開けていただいた者として、主イエスを神のもとから来られた救い主であると公に言い表し、神に栄光を帰すことが求められている。神がお遣わしになった主イエスを神から遣わされた者として信じ、自分の口で言い表すこと。それが神に栄光を帰すことである。
2025.6.1 週報掲載の説教
2025.6.1 週報掲載の説教
<2025年3月23日の説教から>
『神の業が現れるために』
ヨハネによる福音ヨハネによる福音書9章1節〜12節
牧師 鈴木 美津子
生まれつき目の見えない一人の人を前に、弟子たちは「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と主イエスに尋ねた。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が
この人に現れるためである」と、主イエスは答えられた。
主イエスは、今、この人に現れている苦しみ、不幸の原因を過去に求めて納得すると言う方法を取らない。そうではなく、わたしたちがまだ知らない、出会っていないこれからのこと、将来、まさにこれから来るというそのことによって、あなたたちは必ず納得できると言われる。今の苦しみと釣り合いが取れるものを過去に求めないで、これから先のことに求めることによってそれが出来ると言われるのである。
わたしたちは、明日、いや、次の瞬間に何が起きるか知らない。知らされていない。しかし、主イエスはすべてを知っておられる。そのお方が、約束して下さる。わたしたちは、すでに経験してきたこと、過去のことについて、あのときああしておけば、こうしておけばとどれほど悔やんで、嘆いても、悩みは深まるばかりで、何の解決にもならない。それは単なるマイナス思考である。そうではなく、今がゼロの地点、いやマイナスの地点であったとしても、これから先にプラスがある、だから、これから加えて行けばよいのだ。これから何をするのか。神が何を下さるのか、これに期待するのである。教会には十字架がある。十字架は大きなプラスの字をしているのだ。
道端にずっと座っていた男の人は、立ち上がった。そして、シロアムの池にまで行ってその目に塗ってもらった泥を洗い落とした。一体何の意味があるのか、疑いもあったことであろう。しかしその疑いを超えて、その人は行動したのだ。主イエスがそのように導いてくださったと信じて従った。マイナスの場所、くぼんだ地にうずくまるようにして生きてきた、この人は、主イエスに導かれてプラスの人生へと歩み始めたのである。
その主イエスは、男の人を招いたように、今わたしたちをも招いてくださっている。あなたも同じように立ち上がって、そしてシロアムに行け。そして、わたしに従え、と。
<2025年3月23日の説教から>
『神の業が現れるために』
ヨハネによる福音ヨハネによる福音書9章1節〜12節
牧師 鈴木 美津子
生まれつき目の見えない一人の人を前に、弟子たちは「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と主イエスに尋ねた。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が
この人に現れるためである」と、主イエスは答えられた。
主イエスは、今、この人に現れている苦しみ、不幸の原因を過去に求めて納得すると言う方法を取らない。そうではなく、わたしたちがまだ知らない、出会っていないこれからのこと、将来、まさにこれから来るというそのことによって、あなたたちは必ず納得できると言われる。今の苦しみと釣り合いが取れるものを過去に求めないで、これから先のことに求めることによってそれが出来ると言われるのである。
わたしたちは、明日、いや、次の瞬間に何が起きるか知らない。知らされていない。しかし、主イエスはすべてを知っておられる。そのお方が、約束して下さる。わたしたちは、すでに経験してきたこと、過去のことについて、あのときああしておけば、こうしておけばとどれほど悔やんで、嘆いても、悩みは深まるばかりで、何の解決にもならない。それは単なるマイナス思考である。そうではなく、今がゼロの地点、いやマイナスの地点であったとしても、これから先にプラスがある、だから、これから加えて行けばよいのだ。これから何をするのか。神が何を下さるのか、これに期待するのである。教会には十字架がある。十字架は大きなプラスの字をしているのだ。
道端にずっと座っていた男の人は、立ち上がった。そして、シロアムの池にまで行ってその目に塗ってもらった泥を洗い落とした。一体何の意味があるのか、疑いもあったことであろう。しかしその疑いを超えて、その人は行動したのだ。主イエスがそのように導いてくださったと信じて従った。マイナスの場所、くぼんだ地にうずくまるようにして生きてきた、この人は、主イエスに導かれてプラスの人生へと歩み始めたのである。
その主イエスは、男の人を招いたように、今わたしたちをも招いてくださっている。あなたも同じように立ち上がって、そしてシロアムに行け。そして、わたしに従え、と。
2025.5.25 週報掲載の説教
2025.5.25 週報掲載の説教
<2025年3月16日の説教から>
『アブラハムが生まれる前から』
ヨハネによる福音書8章49節〜59節
牧師 鈴木美津子
「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』(58)」
『わたしはある』という言葉が二重括弧にいれられているのは、旧約聖書出エジプト記3章で神がモーセに語られた言葉であることを表している。主イエスもまた、時間を超え、歴史を超えて『わたしはある』というお方である。決していないものではなく、ある、おられるお方である。
アブラハムを約束の地へと導き出した父なる神について、主イエスは、「あなたたちユダヤ人はそのお方を知らない」と言い切る。ユダヤ人たちは旧約聖書に記されている神の民であり、アブラハムの子孫である。にも関わらず、主イエスは、あなたたちはその父なる神を本当には知らないと言われた。なぜなら、彼らは主イエスが神の御子であることを断固として受け入れないからでる。主イエスの父であり、天地万物の造り主である神ご自身が、その独り子である主イエスを世にお遣わしになられた、このことを抜きにして、天の父なる神について本当に知ったとは言えない。主イエスが神であることを悟らずして、本当の意味で聖書の神を知ったということにはならない。
わたしたちは、ユダヤ教の神も、イスラム教の神も実は同じお方だ、わたしたちは共通の神を信じているという言い方を時々する。けれども、彼らの神は、主イエス・キリストの父である神ではないと言う点で、わたしたちが信じている神とは違っているということをはっきりと知らなければならない。わたしたちの信じる神は、主イエスの父なる神である。御子を世に遣わし、罪の償いとなさる、そのような仕方で、わたしたちを愛し救ってくださるお方である。
わたしたちは、神の御子である主イエスを受けいれない者ではなく、受け入れる者になりたいと願う。主イエスの恵みによって、新しい命を頂いて、死の苦しみ、不安、恐れから解き離される平安と喜びをいただきたいと願う。そうであるからこそ、私たちは歴史を超えて生きて働かれる神にのみ栄光を帰し、この世の人々にではなく、神から賜る恵みに心を向けて歩むのである。
<2025年3月16日の説教から>
『アブラハムが生まれる前から』
ヨハネによる福音書8章49節〜59節
牧師 鈴木美津子
「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』(58)」
『わたしはある』という言葉が二重括弧にいれられているのは、旧約聖書出エジプト記3章で神がモーセに語られた言葉であることを表している。主イエスもまた、時間を超え、歴史を超えて『わたしはある』というお方である。決していないものではなく、ある、おられるお方である。
アブラハムを約束の地へと導き出した父なる神について、主イエスは、「あなたたちユダヤ人はそのお方を知らない」と言い切る。ユダヤ人たちは旧約聖書に記されている神の民であり、アブラハムの子孫である。にも関わらず、主イエスは、あなたたちはその父なる神を本当には知らないと言われた。なぜなら、彼らは主イエスが神の御子であることを断固として受け入れないからでる。主イエスの父であり、天地万物の造り主である神ご自身が、その独り子である主イエスを世にお遣わしになられた、このことを抜きにして、天の父なる神について本当に知ったとは言えない。主イエスが神であることを悟らずして、本当の意味で聖書の神を知ったということにはならない。
わたしたちは、ユダヤ教の神も、イスラム教の神も実は同じお方だ、わたしたちは共通の神を信じているという言い方を時々する。けれども、彼らの神は、主イエス・キリストの父である神ではないと言う点で、わたしたちが信じている神とは違っているということをはっきりと知らなければならない。わたしたちの信じる神は、主イエスの父なる神である。御子を世に遣わし、罪の償いとなさる、そのような仕方で、わたしたちを愛し救ってくださるお方である。
わたしたちは、神の御子である主イエスを受けいれない者ではなく、受け入れる者になりたいと願う。主イエスの恵みによって、新しい命を頂いて、死の苦しみ、不安、恐れから解き離される平安と喜びをいただきたいと願う。そうであるからこそ、私たちは歴史を超えて生きて働かれる神にのみ栄光を帰し、この世の人々にではなく、神から賜る恵みに心を向けて歩むのである。
2025.5.11 週報掲載の説教
2025.5.11 週報掲載の説教
<2025年3月9日の説教から>
『真理と偽り』
ヨハネによる福音書8章39節〜47節
牧師 鈴木美津子
ここで問われていることは、私たちは誰から出たものであるのかという私たちの起源のことである。私たちは神から出たものなのか。それとも神の敵である悪魔から出た者なのか。ユダヤ人たちは、自分たちは神からの出たものと信じていた。しかし、主イエスは自分の言葉を受け入れず、自分を殺そうとするユダヤ人たちが悪魔の子であると言われる。なぜ、人はイエス・キリストを信じないのか。それはその人の背後に真理をよりどころとしていない悪魔の力が働いているからである。では、私たちはどうなのか。神を父とする者であるのか。それとも悪魔を父とする者であるのか。
主イエスはユダヤ人たちに「神があなたたちの父であるならば、わたしを愛するはずである」と言われた。それゆえ、私たちが主イエスを愛するならば、私たちは今、自分が神の子であることが分かる。主イエスを愛するならば、私たちは確かに神の子とされるのである。
主イエスは、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と言われる。「神に属する者」とは直訳すると「神からの者」「神から出た者」となる。ここでも問われるのはその起源である。この主イエスの言葉を読むと、私たちは自分が主イエスの言葉を神の言葉として聞いているから神から出た者であると思うかも知れない。けれども、ここで何より思い起こすべきは、主イエスこそが神の言葉を聞く神に属する者、神から出た者であるということ。私たちはその主イエスにあって、神に属する者とされているのである。それは、私たちの内には真理があるからである。私たちの内に真理があるから、真理である主イエスの言葉を聞き、信じることができる。では、その真理は私たちが生まれながらにもっていたものなのか。そうではない。十字架と復活の主イエス・キリストが、私たちに真理の霊である聖霊を遣わしてくださることによって、私たちを真理に聞く者としてくださったのである。悪魔の子であった私たちに主イエスが聖霊を遣わすことによって、私たちの内に真理を与え、私たちを神の言葉を聞く、神に属する者としてくださった。
主イエスは悪魔の働きを滅ぼすためにこの地上に来てくださった。そして、主イエスは今もこれからも聖霊と御言葉によって悪魔の子を神の子へと造りかえてくださるのである。
<2025年3月9日の説教から>
『真理と偽り』
ヨハネによる福音書8章39節〜47節
牧師 鈴木美津子
ここで問われていることは、私たちは誰から出たものであるのかという私たちの起源のことである。私たちは神から出たものなのか。それとも神の敵である悪魔から出た者なのか。ユダヤ人たちは、自分たちは神からの出たものと信じていた。しかし、主イエスは自分の言葉を受け入れず、自分を殺そうとするユダヤ人たちが悪魔の子であると言われる。なぜ、人はイエス・キリストを信じないのか。それはその人の背後に真理をよりどころとしていない悪魔の力が働いているからである。では、私たちはどうなのか。神を父とする者であるのか。それとも悪魔を父とする者であるのか。
主イエスはユダヤ人たちに「神があなたたちの父であるならば、わたしを愛するはずである」と言われた。それゆえ、私たちが主イエスを愛するならば、私たちは今、自分が神の子であることが分かる。主イエスを愛するならば、私たちは確かに神の子とされるのである。
主イエスは、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と言われる。「神に属する者」とは直訳すると「神からの者」「神から出た者」となる。ここでも問われるのはその起源である。この主イエスの言葉を読むと、私たちは自分が主イエスの言葉を神の言葉として聞いているから神から出た者であると思うかも知れない。けれども、ここで何より思い起こすべきは、主イエスこそが神の言葉を聞く神に属する者、神から出た者であるということ。私たちはその主イエスにあって、神に属する者とされているのである。それは、私たちの内には真理があるからである。私たちの内に真理があるから、真理である主イエスの言葉を聞き、信じることができる。では、その真理は私たちが生まれながらにもっていたものなのか。そうではない。十字架と復活の主イエス・キリストが、私たちに真理の霊である聖霊を遣わしてくださることによって、私たちを真理に聞く者としてくださったのである。悪魔の子であった私たちに主イエスが聖霊を遣わすことによって、私たちの内に真理を与え、私たちを神の言葉を聞く、神に属する者としてくださった。
主イエスは悪魔の働きを滅ぼすためにこの地上に来てくださった。そして、主イエスは今もこれからも聖霊と御言葉によって悪魔の子を神の子へと造りかえてくださるのである。
2025.5.4 週報掲載の説教
2025.5.4 週報掲載の説教
<2025年3月2日の説教から>
『真理はあなたたちを自由にする』
ヨハネによる福音書8章31節〜38節
牧師 鈴木美津子
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(32)」「真理」とは、主イエスご自身のことである。ヨハネ福音書では「真理」という言葉を24回使用しているが、イエス・キリストの救いの御業との関係で使われていることがわかる。つまり、ヨハネ福音書が言う「真理」とは、イエス・キリストの十字架そのものであるということである。「真理」=「十字架」と言っていいほどに両者は分かち難く結合しているのである。すなわち、「真理はあなたたちを自由にする」とは、「イエス・キリストの十字架はあなたたちを自由にする」と言い換えることができるのである。私たち罪人に示された神の真理、それは「イエス・キリストの十字架」に集約され、この十字架こそが「真理」の土台であり、あらゆる真理はその上に立てられるものに過ぎないのである。
そして、もう一つ重要な言葉が、「自由にする」である。意外なことに、共観福音書にはこの言葉はみられない。ヨハネ福音書においてもこの「自由」という言葉が使われるのも、この箇所だけである。だからこそ、ここで宣言されている「真理はあなたたちを自由にする」という言葉が重大で、しかも非常に鋭利なものとしてこの福音書全体を支えているのである。さらにこの「自由にする」の時制は未来形である。「やがてあなたたちはキリストによって自由になるであろう」。つまり、主イエスが、「真理はあなたたちを自由にする」と言われた時、主イエスの周りにいた主イエスを信じた多くの人々は、誰一人自由ではなかったのだということを示しているのである。この「自由にする」という言葉は同時に「解放する」と訳すこともできる。奴隷制度が普通にあったこの時代においては、特に「自由にする」の反対は「奴隷になる」という状態であった。つまり、主イエスを信じた多くの人々は、この時点で全て奴隷である、と主イエスが言われたも同然だったのである。この主イエスの宣言に腹を立てたユダヤ人たちが、ここから主イエスに反論していくのである。
<2025年3月2日の説教から>
『真理はあなたたちを自由にする』
ヨハネによる福音書8章31節〜38節
牧師 鈴木美津子
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(32)」「真理」とは、主イエスご自身のことである。ヨハネ福音書では「真理」という言葉を24回使用しているが、イエス・キリストの救いの御業との関係で使われていることがわかる。つまり、ヨハネ福音書が言う「真理」とは、イエス・キリストの十字架そのものであるということである。「真理」=「十字架」と言っていいほどに両者は分かち難く結合しているのである。すなわち、「真理はあなたたちを自由にする」とは、「イエス・キリストの十字架はあなたたちを自由にする」と言い換えることができるのである。私たち罪人に示された神の真理、それは「イエス・キリストの十字架」に集約され、この十字架こそが「真理」の土台であり、あらゆる真理はその上に立てられるものに過ぎないのである。
そして、もう一つ重要な言葉が、「自由にする」である。意外なことに、共観福音書にはこの言葉はみられない。ヨハネ福音書においてもこの「自由」という言葉が使われるのも、この箇所だけである。だからこそ、ここで宣言されている「真理はあなたたちを自由にする」という言葉が重大で、しかも非常に鋭利なものとしてこの福音書全体を支えているのである。さらにこの「自由にする」の時制は未来形である。「やがてあなたたちはキリストによって自由になるであろう」。つまり、主イエスが、「真理はあなたたちを自由にする」と言われた時、主イエスの周りにいた主イエスを信じた多くの人々は、誰一人自由ではなかったのだということを示しているのである。この「自由にする」という言葉は同時に「解放する」と訳すこともできる。奴隷制度が普通にあったこの時代においては、特に「自由にする」の反対は「奴隷になる」という状態であった。つまり、主イエスを信じた多くの人々は、この時点で全て奴隷である、と主イエスが言われたも同然だったのである。この主イエスの宣言に腹を立てたユダヤ人たちが、ここから主イエスに反論していくのである。