2025.8.31 週報掲載の説教

2025.8.31 週報掲載の説教

<2025年7月20日説教から>

「身代わりの死」

ヨハネによる福音書11章45節~57節

牧師  鈴木美津子

ここでは、ラザロの復活後に起こった出来事を通して、「身代わりの死」という福音の核心が語られている。死者ラザロの復活という最大の奇跡が、多くの人を信仰へ導く一方で、宗教指導者たちの反発を招いた。主イエスの奇跡を目撃し信じる者もいれば、最高法院に告げ口する者もいたからである。最高法院は、サドカイ派とファリサイ派という本来対立する派閥が、主イエスという共通の「脅威」に対して結託した。その背景には、ローマ帝国への恐れと、自分たちの地位・秩序を守ろうとする思惑があった。

この中で、大祭司カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方がよい」と発言する。これは政治的打算からの犠牲論であったが、ヨハネはこれを神の預言として読み解いている。カイアファは意図せず、主イエスが国民だけでなく「散らされている神の子たちを一つに集めるため」に死ぬことを語っていたのである。つまり、人間の悪意や計略の背後で、神の救いの計画が粛々と進められていたのである。

「身代わり」とは、他者のために自ら犠牲となること。旧約のいけにえ制度に見られるように、罪の赦しのためには身代わりが必要とされた。新約では、罪なきキリストが私たちの罪のために十字架で死ぬことによって、この身代わりが完全に成就した。それはローマ5章8節が示す神の愛の極みである。

旧約聖書イザヤ書49章は「主の僕」の使命を語り、イスラエルを回復し、地の果てまで救いをもたらす者を預言している。やがてこの僕は、53章の「苦難の僕」、すなわち人々の罪のために苦しみ、命をささげる身代わりの僕へとつながる。それがイエス・キリストにおいて実現したと新約聖書は告げる。

この出来事から私たちは、人間の歴史の表舞台で権力者たちが動く一方、その背後で神の救いの計画が静かに、しかし確実に進んでいることを知る。主イエスの十字架は、単なる犠牲ではなく、全人類の罪の贖いとしての身代わりの死であり、神の愛の決定的な証しである。

この福音は今を生きる私たちにも変わらず注がれ、神は人間の不信や悪意さえも用いて、ご自分の救いの御業を成就される。主イエスはこうして十字架への道を歩まれ、私たちに命を与えるために、ご自分を差し出されたのである。

2025.8.17 週報掲載の説教

2025.8.17 週報掲載の説教

<2025年7月13日の説教から>

ラザロ、出てきなさい

ヨハネによる福音書11章38節〜44節

鈴木 美津子

 
当時のユダヤの墓は、山の岩をくり抜いた横穴で、遺体を安

置したのち、重い石で入口をふさぐものであった。その石は、

生と死の世界を隔てる冷たく重い障壁であり、絶望の象徴でも

あった。その前で、主イエスは「その石を取りのけなさい」

と命じられた。これは、死と命を隔てる壁を取り除く、神の力の宣言であった。しかしマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と答えた。この言葉には、死とはもうどうすることもできない、取り返しのつかない現実だという人間の限界の認識が込められている。私たちもまた、死の前に立つとき、信仰よりも現実の重さに押しつぶされそうになるのではないか。

そんなマルタに、主イエスは「もし信じるなら、神の栄光を見る」と語られた。信仰によって、絶望ではなく希望と栄光を見ることができる。デンマークの思想家キルケゴールは、ここから「死に至る病は絶望である」と語り、信じることを失った状態こそが最も死に近いのだと述べた。

「ラザロ、出て来なさい」。主イエスのこの叫びは、終わりの日にすべての人に向けられる言葉でもある。主イエスご自身、「墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞いて出て来る」と語られた。ラザロの復活は、全人類の復活の先駆けであり、その出来事は驚きというよりも、静かな確信として語られている。

注目すべきは、ラザロが何も語らないことである。彼はただ、呼び出された。それは、復活とは人間の力によるものではなく、神の一方的な恵みによるものであることを示している。私たちはただ信じ、ただ委ねるほかない。

そしてこの奇跡の直後、主イエスは十字架に向かって歩み出された。ラザロが墓から出て来る一方で、主イエスは死へと向かって行かれるのである。命と死の場所が逆転する。

やがて私たちも死を迎えるが、主の御声により「出て来なさい」と呼ばれる日が来る。その希望の根拠は、主イエス・キリストの十字架にある。この恵みに感謝しつつ、共に復活の希望を携えて歩みたいと願う。

2025.8.10 週報掲載の説教

2025.8.10 週報掲載の説教

<2025年7月6日の説教から>

涙を流されるイエス様

ヨハネによる福音書11章28節〜37節

鈴木 美津子

 
「イエスは涙を流された(35)」。この有名な一節には、主イエスの深い心の動きが表れています。ここで使われている「涙を流された」という言葉は、マリアやユダヤ人たちのように声をあげて泣くのではなく、静かに涙があふれ出ることを意味している。主イエスは、愛する者の死によって嘆き悲しみに沈む人々の姿を見て、心を痛め、深く悲しみ、涙されたのである。

主イエスは、死という神の命とは正反対の力に、人間が支配されている現実を見つめ、その痛みと苦しみを、まるでご自身のことのように受け止められた。ヨハネ福音書は、主イエスを「私たちの悲しみを共に背負うお方」として描いているのである。そして、愛が破れるところにこそ、神の愛はより深く注がれるのだと語っている。

主イエスは、ラザロの復活を通して、「もし信じるなら、神の栄光を見る」と語られた。確かにラザロはこのとき生き返ったが、再び死ぬ日が来る。主イエスがこの出来事によって真に新しく生かそうとされていたのは、マルタとマリア、そして私たち自身である。ラザロの復活の出来事が示しているのは、死や病のただ中にあっても、神との交わりが絶たれることはないということである。神が与えてくださる命は、永遠に続くからである。

使徒パウロは「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。(コリント一15:42-43)」と語っている。この復活の命の約束は、将来の希望であると同時に、「今を生きる」私たちに向けられた恵みでもある。「あなたはそれを信じるか?」主イエスは、私たちの嘆きや悲しみに共に涙を流しながら、命への信仰へと私たちを招いておられるのである。

2025.8.3 週報掲載の説教

2025.8.3 週報掲載の説教

<2025年6月22日の説教から>

『復活であり、命であるイエス様』

ヨハネによる福音書11章17節〜27節

牧師 鈴木美津子

 
マルタは、兄弟ラザロの死に際して、「あなたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださる」と語っているが、心の深いところでは、その言葉を本気で信じているわけではなかった。頭では理解していても、ラザロがすぐに生き返ることなど考えてもいなかったのである。これは私たち自身にも通じる姿である。「神には何でもできる」と口では言えても、本心から信じきれていないことがあるのではないか。

主イエスが「あなたの兄弟は復活する」と語られた時も、マルタは「終わりの日に復活することは存じている」と、当時のファリサイ派の教えに基づいた、形式的な応答をする。しかし、主イエスはマルタの言葉を否定することなく、「わたしは復活であり、命である」と力強く宣言された。この「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という言葉は、聖書の中でも特に深い意味を持つ言葉のひとつである。主イエスにつながる者にとって、肉体の死は終わりではなく、命の継続であることが明らかにされているからである。人間の命は肉体の死によって突然断ち切られるように見えるが、主イエスにつながる者は、その死を超えて生きる希望を与えられる。主にある死は、完全な別れではなく、つながりの中にある。ラザロの復活の出来事は、そのことを一つの具体例として証ししている。

主イエスはマルタに「このことを信じるか」と問われた。

マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えた。その信仰がどれほど確かなものだったかは分からないが、それでもマルタは信仰告白を口にしたのだ。

私たちもまた、信仰が揺れ動く中で「はい、主よ、信じます」と応える者である。救いは、私たちの強さや確かさにかかっているのではなく、主イエスが「命の主」であるという確かな土台の上にある。だからこそ私たちは、今もこの方に信仰を告白し、希望を持って新しい一歩を踏み出すことができるのである。

2025.7.20 週報掲載の説教

2025.7.20 週報掲載の説教

<2025年6月15日の説教から

この病気は死で終わらない。神の栄光のためである

ヨハネによる福音書11章1節〜16節

鈴木 美津子

 
ヨハネ福音書11 章に記される主イエスの愛するラザロの死と復活の物語は、主イエスが愛する者の苦しみや死にどう向き合われるかを示す、深い慰めと希望に満ちた福音である。

主イエスはラザロの病を知りながら、すぐには動かず、二日間その場に留まられた。ラザロの姉妹であるマルタとマリアの願いにもかかわらず、主イエスがすぐには応答されなかった姿に、私たちは「神の沈黙」のような痛みを覚える。

しかし、詩編139編は、「夜が私を囲んでも、闇もあなたにとっては闇とはならず、夜も昼のように輝きます」と語っている。見えない時も、神は働いておられる。主イエスが留まったのは、もっと深く大きな愛のご計画があったからである。

主イエスは、「この病気は死で終わらない。神の栄光が現れるためである」と語る。二日間留まったというのは、ラザロが死んだということがはっきりするまで待たれたということである。瀕死の状態であっても、生きているうちならば、まだ治る可能性もあるだろう。しかしはっきりと、主イエスのおかげで生き返ったのだということが分かるために、時を引き延ばされたのだ。「この病気は死で終るものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである」というのは、そういうことである。すべての人間の可能性が閉じるところで、神の可能性が始まるのである。

弟子たちは主イエスの言葉を理解できず、エルサレムへの道を「危険なもの」と見て恐れた。しかし主イエスは、ご自分の死と復活を見据えつつ、「神の子が栄光を受けるため」に歩まれる。ラザロの復活は、主イエスご自身の十字架と復活へとつながるしるしであり、私たちが主イエスの復活を信じる信仰へと導く出来事でもあるのだ。

私たちには「死で終わらない」神のご計画に信頼し、希望をもって歩むことが求められる。神の栄光が、私たちの歩みにも豊かに現れるために。

2025.7.13 週報掲載の説教

2025.7.13 週報掲載の説教

<2025年6月1日の説教から

『わたしを信じなくても、その業を信じなさい』
ヨハネによる福音書10章22節〜42節

鈴木 美津子

 
主イエスがご自分を神の子・救い主として語り、神の業を示すたびに、人々は「信じる者」と「信じない者」に分かれた。ヨハネ福音書は、その対立が主イエスを十字架へと向かわせたと語る。主イエスの語った言葉や癒しの業は、人々を信仰へと導くものである一方、ユダヤ人指導者たちには神への冒瀆と受け取られ、殺意を抱かせるものであったのだ。主イエスはまさに、神の子・キリストであるがゆえに、拒絶され、殺されたのだ。

なぜ主イエスを信じる者と信じない者がいるのか、その答えは私たちには分からない。主イエスの羊か否か、それは神の選びによるのだと福音書は語る。そして、選ばれた者には、神の御心に従って歩むことが求められるのだ、と。

主イエスとユダヤ人たちとのやり取りは「神殿奉献記念祭」の最中に行われた。偶像礼拝から信仰を守ったユダ・マカバイの記憶が強く意識される中、人々は主イエスに「メシアならはっきりそう言いなさい」と詰め寄った。主イエスは「わたしは父と一つである」と答え、人々は冒瀆の罪で石を取る。彼らのメシア理解は、イスラエル民族をローマから解放する政治的救い主である。しかし主イエスが示された救い主の姿は、病人や罪人を癒し、愛をもって仕える方であった。

主イエスは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と語る。つまり、自分たちの期待するメシア像ではなく、主イエスが実際に行ってきた業に目を向け、それによって主イエスが何者かを知れと語っているのである。主イエスの業、十字架の死にまで至る愛は、まさに神の御業である。

私たちは、主イエスの羊としてその御声に耳を傾け、従う者とされた。そのことは、私たちの歩みと結ぶ実によって明らかになる。キリスト者とは名ばかりではなく、キリスト者としての実を結ぶことが求められる。だからこそ、私たちは聖霊の助けを祈り求めながら、日々、主イエスの御声を聞き取り、御声に従い、その愛に生きる者として歩んでいくのである。