2024.2.11 の週報掲載の説教

2024.2.11 の週報掲載の説教
<2024年1月14日の説教から>

『わたしのために、わたしと共に祈ってください』
       ローマの信徒への手紙15章22節~33節

牧師 鈴木美津子

どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。(30b)」

一緒に神に祈ってください」を原文から訳すと、「祈りにおいて、共に戦ってほしい共に戦い続けてほしい」と言う意味がある。パウロは、ローマの教会の多くの人々と会ったことがなかったが、主イエス・キリストを信じる兄弟姉妹として、また、聖霊の愛に訴えて、自分のために、一緒に熱心に祈ってほしいと切に願った。パウロのこの祈りの願いから、彼がどれほど危険な状態にあったかを知ることができる。

もちろん、パウロもローマの教会の人たちのために祈った。パウロは実に豊かな祈りの交わりの中に身を置き続けた「祈りの人」であった。彼は多くの同労者のために祈った。自分が伝道した教会のため、その教会で起きている様々な問題、課題のために祈った。福音の前進のために、神の栄光が現れるために祈った。そして、彼は多くの人に祈られた。それが彼の喜びであり、幸いであり、力であった。互いに執り成しの祈りによって結び合わされた交わり、それがキリストの体である教会である。

祈れることの幸い。神のために、世界のために、教会のために、愛する者のために、自分のために、祈ることが出来る。このことの幸いを知る者は、自分が祈られているということも知っている。自分が祈っていることしか知らない者は、祈りの幸いの半分しか知らない。私たちは祈っているだけではない。祈られているのだ。私のことなど祈っている人なんていないと思っている人は、祈られている、祈りの交わりの中に自分が身を置いていることを知らないのである。主イエスの救いに与るまで、私たちは目に見える、実際に言葉を交わし手を結び合える人との交わりしか知らなかった。そして、その目に見える交わりは、しばしば私たちを拒絶した。そんな時、私たちは自分が独りぼっちであるかのような思いに囚われる。

しかし、主イエスによって私たちに与えられた交わりは、全く新しい、驚くべき交わりであった。その交わりを最もはっきり私たちに示してくれるのが、主の日の礼拝である。同じ神からの語りかけを聞き、同じ一つの命をいただき、共に祈りを合わせる。今日も世界中の十億を超える人々が、主の祈りを捧げている。この交わりは時代を超え、地域を越え、主イエスによって結び合わされているのである。

2024.2.4 の週報掲載の説教

2024.2.4 の週報掲載の説教
<2023年11月26日週報から>

『パウロの誇り』
ローマの信徒への手紙15章14節~21節

牧師 鈴木美津子

そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りにしています。(17)」キリストに結ばれた者として、神のために働くことができたこと、それがパウロの誇りであり、使徒としての拠り所であった。パウロは、「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません」と記すことによって、自分の働きがキリストの働きであったことを記している。天におられるキリストが聖霊によってパウロと共にいてくださり、彼の言葉と行いを通して異邦人を神様に従順な者とされたのである。キリストは、パウロを用いて、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働いてくださった。この「しるしや奇跡の力」とは、悪霊追放や病の癒しの奇跡のことである。

また、「神の霊の力」とは、パウロが語る福音と共に働く、聖霊の力のことである。聖霊が心を開き、彼が語る福音を信仰をもって聞くことができるようにしてくださるのである。キリストはパウロを通して働いてくださった。それは、キリストに結ばれている私たちも同様である。私たちは、彼のように癒しの奇跡を行うことはできない。しかし、私たちの語る福音と共に、聖霊は働いてくださる。そして、福音を聞く者たちの中から信じる者たちを起こしてくださる。そのようにして、私たちもまた、神の福音のための祭司の務めを果たすことができる。天におられるキリストは、御自分の弟子である私たちを用いて、今も、働いてくださっている。ですから、私たちも神のために働くことを、キリストにあって誇ることができるのである。それが私たちの教会が確かに立つ拠り所なのである。私たちが、週に一度、ここに集まり礼拝をささげるのはなぜか?異教の国である日本において、キリストの福音を語り続ける、その拠り所はどこにあるのか?それは、天におられるキリストが私たちを通して働いてくださることにある。パウロはそのことを確かな拠り所として、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えたのである。

私たちもまた、パウロのようにまだキリストを知らない人々に、福音を宣べ伝えることは、真に名誉なこと、光栄なことである。私たちを通して、キリストが働いてくださる。キリストと共に、神のために働くことができる。そのような光栄に、私たちも与る者とされているのである。

2024.1.28 の週報掲載の説教

2024.1.28 の週報掲載の説教
<2023年11月19日週報から>

 『希望の源である神』
ローマの信徒への手紙15章7節~13節

牧師 鈴木美津子

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(13)」

希望の源である神」を直訳すれば「希望の神」となる。この希望は、あるかないか分からない、というようなぼんやりしたものではない。この希望は、イエス様の十字架によって一切の罪を赦され、神の子とされた私たちに与えられている希望である。それは、イエス様が再び来られる時に復活し、キリストに似た者とされ、永遠の命に生きる者とされるという希望である。この希望は、私たちに満ちあふれるほどに注がれ、私たちから外にあふれていく。この希望は、心の中にほんのりと灯火がともるような、弱々しい、はかない希望ではない。闇を駆逐し、自分の周りの人々にまであふれ出し、この世界に生きる力と勇気を与える希望である。この希望を誰も私たちから奪うことは出来ない。

この希望をもって、私たちは「互いに受け入れる」という歩みへと導かれる。だから、私たちは、この希望をもって、互いに心を一つにして主をほめたたえる日が来ることを信じている。確かに、互いに受け入れられないという現実、対立や争いを、キリストの教会は幾度も経験してきたし、今も経験している。しかし、それでもキリストの教会は希望を失ったことはない。確かに、人間の知恵や工夫では、もう無理だろうと思うことも、万策尽きたと思うこともある。そうであっても、この希望はなくならない。そもそもこの希望は、「私が何とか出来る。何とかする」、というところに根拠を持つものではない。神様から、信仰と共に、私たちに注がれる希望である。神様が出来事を起こし、新しい時代を開いていってくださる。そして、きっと、今は互いに受け入れることが出来ないでいる者たちが、喜んで互いに受け入れる時が来る。やがて、共に主をほめたたえる日が来る。そう信じて待つ私たちを、希望の神がその希望で満たし続けてくださるのである。

今、社会の様々な所で分断が起きている。その影響は、教会の中にも入り込んでいる。そのような現実の中で人々は不安を抱えている。このような時であるからこそ、私たちは、この希望の神に支えられ、和解の福音を携え、希望と喜びと平和をもって、兄弟姉妹にそして隣人の一人一人と出会っていきたいと祈り、願うのである。

2024.1.14 の週報掲載の説教

2024.1.14 の週報掲載の説教
<2023年10月22日説教から>

「自分の満足ではなく、隣人の喜びのために
ローマの信徒への手紙15章1節~6節

牧師 鈴木 美津子

わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。(1)」「強くない者の弱さを担う」とは、強い者が強くない者の立場を忍耐して受け止めることである。教会の中での一致は、時として忍耐が必要である。自分が強いと思うのであれば、自分の立場について、相手に我慢させるのではなく、相手を受け止める忍耐がいっそう要求されるのである。パウロは、さらに強い者に対して、「自分の満足を求めるべきではない」ことを求める。人は、ついつい何のためらいも悪気もなく、自分の気に入った事柄を優先させようとしてしまうことがある。まして自分の方が強いという思いがあればあるほど、弱い者に対して自分の考えや意見を通そうとしてしまいがちだからである。

では、「自分の満足のためではない」ということのために、私たちは、どこに心を用いるべきなのか。パウロは、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべき(3)」であると語る。「おのおの」、「互いの」とあるように、パウロは、「強い者」だけではなく、「強くない者」にも語りかけている。教会の一員であるおのおのが善を行って兄弟姉妹を喜ばせ、互いの徳を高めるべきだというのである。それは、ただ単に相手が喜ぶから、ということだけではなく、そのことが善となり徳を建て上げることになるかどうか、そのことに十分に心を用いるべきである。
パウロは、強くない者の弱さを担ってくださった方として、また、自分の満足を求めなかった方として、キリストを模範として示す。キリストは徹底して他者に仕えるお方であった。キリストこそが、強い者であり、それゆえに、弱い人たちの弱さを担われた。私たちが、このキリストを模範とし、このキリストに倣って生きるときに、教会の一致がいっそう深められるのである。

パウロは、最後に「心を合わせ声をそろえて」と、強い者と弱い者に、キリストに従って、互いに同じ思いが与えられるよう祈る。キリストに従うときに、与えられる同じ思いとは、神の御心を第一とする思いである。それは、主の祈りの第一の祈願である、父なる神の御名が聖なるものとされることを願う思いである。

この時にこそ、私たちは心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえることができるのである。教会の一致は、そのようにして、世に示される。

2024.1.7 の週報掲載の説教

2024.1.7 の週報掲載の説教
<2023年10月15日説教から>

「確信を持って生きる
ローマの信徒への手紙14章18節~23節

牧師 鈴木 美津子

 
確信に基づいていないことは、すべて罪なのです(23b)」。「確信」という言葉は、「信仰」とも訳せる。言い換えれば、「主イエスのためにという信仰に基づいていない行いはすべて罪である」ということである。罪とは、「的外れ」という意味であるが、主イエスのものとされたキリスト者が、主イエスのためにという信仰に基づいて歩んでいないのであれば、それは、的外れな生活を送っているということである。

キリスト者は、主イエスの十字架に贖われた「罪赦された信仰を持っている」者。故に、ただ、神の御前に罪の赦しを受け取る者として立つほかない者である。だから、神様の御前に立てば、誰しもが自分の正しさを主張することは出来ない。キリスト者は「罪赦されたという確かな信仰」を持つ者として生きる。これを決して忘れてはならない。

キリスト者が「罪赦されたという確かな信仰」に基づいていないならば、どのようなことをしても罪から解き放たれて、自由になることはない。それは、何を食べるか、食べないか、そのことだけに限ったことではない。何をしようとも、どのようなことをしようとも、キリスト者が「罪赦されたという確かな信仰」と共にあれば、その人は神の御前に健やかに歩み続けることが出来る。そして、真に解放されて、自由になる。

しかし、反対に「罪赦されたという確かな信仰」が、揺らいでしまうのであれば、その人は、自分の善き業、自分の力によって神の御前に立とうとしているので、どんなに頑張っても少しも自由にはなれない。いつまでも、自分の正しさと他の人を比べて、弱い者を裁くということになる。その人は罪から解放されて自由になることもなく、自分のやることが正しいとか、正しくないとか、あの人がいいとか悪いとかに終始して、神に喜ばれるものとなることから、遠く離れていく。

大切なことは、自分や相手のすることばかりに目を向けて裁き合うのではなく、十字架の主、復活の主に目を向けて、この方の御前で「罪赦されたという確かな信仰」に立つことである。そうすれば、互いに裁き合うことがどんなに愚かなことであるか分かるであろう。

キリスト者はどこまでいっても「罪赦された罪人」である。誰しもが、神の御前で赦され続けなければならない者たちである。「罪赦されたという確かな信仰」を与えられ続けていく者たちである。しかし、ここにこそキリスト者の真の自由があり、喜びがある。

2023.12.31 の週報掲載の説教

2023.12.31 の週報掲載の説教

<2023年10月8日説教から>

「聖霊によって、義と平和と喜びに生きる」

ローマの信徒への手紙14章10節~17節

牧師 鈴木 美津子

 
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(17)」

パウロが、「何を食べるか、何を飲むかということは、神の国では中心的なことではない」、と言うとき、「そのようなことは当然である」と、ほとんどの人が答えるであろう。しかし、ローマの教会で問題となっているのは実に、この飲み食いのことなのである。なぜ、このようなことが起きてしまうのか。「神の国のために生きる」というところから焦点が離れてしまっているからである。「神の国を求める」という心を失っているからである。神の国を求める心から離れて、神の国に目を留めて歩むことから外れてしまえば、どんな些細なことでも深刻な問題に成り得るのである。

では、神の国において何が大切であるのか。それは「聖霊によって与えられる義と平和と喜びに生きる」ことである。一つ目の「聖霊によって与えられる義」とは、主イエス・キリストの十字架によって与えられる「義」、ただ信仰にみによって与えられる「義」である。「義」とは「正しさ」であり、この「正しさ」は、神様の御前に悔い改め、神様の憐れみによって赦していただいて与えられる義、正しさである。

次に二つ目の「聖霊によって与えられる平和」とは、神との間に与えられる平和である。この「平和」には、神との平和、神との和解、他の人たちとの和解、そして自分の心の中での平安、その全部が含まれている。

三つ目の「聖霊によって与えられる喜び」とは、神が私たちを愛して救いを与えてくださったことの喜びである。神様の恵みによって義とされ、神との間に平和を与えられた者は、喜びに満たされ、この喜びに生きるのである。教会が神の国を指し示しているとするならば、この「聖霊によって与えられる喜び」に満ち溢れる。

しかし、教会が、キリスト者が、この「聖霊による義と平和と喜び」を見失ってしまえば、お互いにそれぞれの立場を尊重せず、自分の義を主張し、平和でなく争いに、喜びでなく意地悪な思いに陥ってしまう。些細なことが深刻な問題へとなり得るのである。

なぜなら神の国とは、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」だからである。私たちは、神の恵みのご支配の下に生きることを真剣に願い求めて、「聖霊が与える義と平和と喜び」が、この教会において実現することを堅く信じるのである。