2025.5.11 週報掲載の説教

2025.5.11 週報掲載の説教

<2025年3月9日の説教から>

『真理と偽り』

ヨハネによる福音書8章39節〜47節

牧師 鈴木美津子

ここで問われていることは、私たちは誰から出たものであるのかという私たちの起源のことである。私たちは神から出たものなのか。それとも神の敵である悪魔から出た者なのか。ユダヤ人たちは、自分たちは神からの出たものと信じていた。しかし、主イエスは自分の言葉を受け入れず、自分を殺そうとするユダヤ人たちが悪魔の子であると言われる。なぜ、人はイエス・キリストを信じないのか。それはその人の背後に真理をよりどころとしていない悪魔の力が働いているからである。では、私たちはどうなのか。神を父とする者であるのか。それとも悪魔を父とする者であるのか。

主イエスはユダヤ人たちに「神があなたたちの父であるならば、わたしを愛するはずである」と言われた。それゆえ、私たちが主イエスを愛するならば、私たちは今、自分が神の子であることが分かる。主イエスを愛するならば、私たちは確かに神の子とされるのである。

主イエスは、「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と言われる。「神に属する者」とは直訳すると「神からの者」「神から出た者」となる。ここでも問われるのはその起源である。この主イエスの言葉を読むと、私たちは自分が主イエスの言葉を神の言葉として聞いているから神から出た者であると思うかも知れない。けれども、ここで何より思い起こすべきは、主イエスこそが神の言葉を聞く神に属する者、神から出た者であるということ。私たちはその主イエスにあって、神に属する者とされているのである。それは、私たちの内には真理があるからである。私たちの内に真理があるから、真理である主イエスの言葉を聞き、信じることができる。では、その真理は私たちが生まれながらにもっていたものなのか。そうではない。十字架と復活の主イエス・キリストが、私たちに真理の霊である聖霊を遣わしてくださることによって、私たちを真理に聞く者としてくださったのである。悪魔の子であった私たちに主イエスが聖霊を遣わすことによって、私たちの内に真理を与え、私たちを神の言葉を聞く、神に属する者としてくださった。

主イエスは悪魔の働きを滅ぼすためにこの地上に来てくださった。そして、主イエスは今もこれからも聖霊と御言葉によって悪魔の子を神の子へと造りかえてくださるのである。

2025.5.4 週報掲載の説教

2025.5.4 週報掲載の説教

<2025年3月2日の説教から>

『真理はあなたたちを自由にする』

ヨハネによる福音書8章31節〜38節

牧師 鈴木美津子

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(32)」「真理」とは、主イエスご自身のことである。ヨハネ福音書では「真理」という言葉を24回使用しているが、イエス・キリストの救いの御業との関係で使われていることがわかる。つまり、ヨハネ福音書が言う「真理」とは、イエス・キリストの十字架そのものであるということである。「真理」=「十字架」と言っていいほどに両者は分かち難く結合しているのである。すなわち、「真理はあなたたちを自由にする」とは、「イエス・キリストの十字架はあなたたちを自由にする」と言い換えることができるのである。私たち罪人に示された神の真理、それは「イエス・キリストの十字架」に集約され、この十字架こそが「真理」の土台であり、あらゆる真理はその上に立てられるものに過ぎないのである。

そして、もう一つ重要な言葉が、「自由にする」である。意外なことに、共観福音書にはこの言葉はみられない。ヨハネ福音書においてもこの「自由」という言葉が使われるのも、この箇所だけである。だからこそ、ここで宣言されている「真理はあなたたちを自由にする」という言葉が重大で、しかも非常に鋭利なものとしてこの福音書全体を支えているのである。さらにこの「自由にする」の時制は未来形である。「やがてあなたたちはキリストによって自由になるであろう」。つまり、主イエスが、「真理はあなたたちを自由にする」と言われた時、主イエスの周りにいた主イエスを信じた多くの人々は、誰一人自由ではなかったのだということを示しているのである。この「自由にする」という言葉は同時に「解放する」と訳すこともできる。奴隷制度が普通にあったこの時代においては、特に「自由にする」の反対は「奴隷になる」という状態であった。つまり、主イエスを信じた多くの人々は、この時点で全て奴隷である、と主イエスが言われたも同然だったのである。この主イエスの宣言に腹を立てたユダヤ人たちが、ここから主イエスに反論していくのである。

2025.4.20 週報掲載の説教

2025.4.20 週報掲載の説教

<2025年3月30日の説教から>

『母を弟子に託す ―新しい家族―』

ヨハネによる福音書19章25節〜27節

牧師 鈴木美津子

 
十字架のそばにいた4人の婦人たちは、ガリラヤから主イエスたちと共に行動していたと思われる。彼女たちは主イエスと弟子たちの身の回りの世話をしながら、しかし男の弟子たちと同じように、主イエスから直接、神の国の福音を聞き続け、弟子としての訓練を受けてきた者たちである。その中には、主イエスの母の姿もあった。男の弟子たちのほとんどは、早々に逃げ去ったが彼女たちは離れなかった。
しかし、十字架上の主イエスに対して、いったい何ができるのか。彼女たちにできることはただ見守ることだけ。それでも彼女たちは、その場から離れることができなかった。離れなかったのだ。どれほどつらかったことだろう。どれほど心が痛んだことだろう。特に、母の心を思うと辛くなる。しかし、母は、目を離さず、見守り続け、その苦しみを共有した。その場にもうひとり弟子がいたことが明らかになる。主イエスの「愛する弟子」であり、この福音書の著者と考えられているヨハネである。彼も4人の婦人たちと一緒に、主イエスの十字架のそばにいたのである。主イエスは、母を思いやり、言葉をかけた。母と弟子とを見て、母に「婦人よ、あなたの子です」と言われた。それから弟子に「見なさい。あなたの母です」と。自分が去った後の母の身を案じて、愛弟子に母を託したのである。弟子は主イエスの言葉どおり、「そのときから」主イエスの母を自分の家族、母と受け止め、引き取って面倒を見た。

しかし、この十字架上での主イエスの言葉は、肉親への配慮、愛、という以上に重要な意味をも含んでいる。それは、肉親以上の結びつきである「神の国、神の家族」ということである。主イエスは、信頼する信仰者である弟子に母を託した。あるいは、「わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と教えられたことを実現された、ということ。別の言い方をすれば、主イエスの十字架の死と復活は、それを信じる者を一つにするということである。具体的には、主イエスが死に、復活され、その主イエスが教会の頭となってくださったが故に、それを信じる一人一人は主イエスによって結ばれて共に神の家族となる。主イエスに結ばれた神の家族である。この神の家族としての交わりをこの教会の中心に据えて、これからも大切に歩みたいと願う。

2025.4.13 週報掲載の説教

2025.4.13 週報掲載の説教

<2025年2月23日の説教から>

『「わたしはある」というお方』

ヨハネによる福音書8章21節〜30節

牧師 鈴木美津子

 
主イエスは「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる(24」と警告された。「わたしはある」とは、「生ける真の神」の称号である。ですから24節は、「主イエスこそが生ける真の神である、ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」、という意味になる。つまり、主イエスを信じるか、信じないか、これが、人間が生きるか死ぬか、このいずれかを決めることである、ということであり、逆に言えば、主イエスこそが生ける真の神である、ということを信じれば、罪のうちに死ぬことはない、ということにもなる。これこそがキリスト教そのものである。キリスト教は、イエスが主であり、「わたしはある」という信仰の上に立っている。私たちが死から命へと移されている根拠もここにある。「わたしはある」、ここにこそ命がある。

この箇所で主イエスは三度、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と警告されたが、その罪は主イエスを信じないばかりか、主イエスを十字架の死へと引き渡すことへと至る。人間の罪は、神の御子イエス・キリストを十字架に上げるほどに、おぞましい。端的に言えば、人間の罪とは神を殺して自らを神とすることに極まる。しかし、その罪を覆ってしまうほどに神の恵みは豊かなものである。なぜなら、人間の敵意、殺意が最も燃え上がった所で、主イエスがご自分を神の御子であることを示されたからである。十字架の呪いの死を、それこそ陰府の最も暗いところに行くと信じられていた死を、主イエスはすべての人の身代わりとして死なれることで、ご自分がいつも父なる神の御心に適うことを行う御子であることを示された。ユダヤ人たちは、主イエスに対して「自殺でもするつもりなのだろうか」と嘲ったが、ある意味この言葉は当たっている。なぜなら、主イエスは十字架の死を御父の御心として受けとめ、自ら十字架の死を死なれたからである。そのようなことができたのは、このお方が、父なる神と共に歩まれた神の御子であるからだ。このことを信じるとき、私たちは自分の罪の外に出ることができる。わたしの罪のために十字架に上げられた神の御子を信じることによって、自らの罪から解放されて、主イエスの復活の命に生きることができるのである。

2025.4.6 週報掲載の説教

2025.4.6 週報掲載の説教

<2025年2月16日の説教から>

『わたしは世の光である』

ヨハネによる福音書8章12節~20節

牧師 鈴木美津子

 
主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ(12)」と言われた。「世の光」とは、「世を照らす光」ということである。ヨハネ福音書は「初めに言があった(1)」と始まるが、そのあとで、「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている(1:4-5)」と続く。あるいは「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(1:9)」とある。主イエスこそ、この世を照らす光、道しるべである。かつてイスラエルの民は、荒れ野で迷うことがないよう、火の柱という光が与えられた。それと同じように、あるいはもっと確かな仕方で、主イエスは、光として私たちの行く道を照らしてくださる。詩編119編に「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らすともしび」とある。主イエスの行いや言葉は、私たちには聖書を通して示されている。であるから聖書こそが主イエスの光を映し出している。聖書こそが光であるのだ。
また「世の光」は、「世を照らす光」であると同時に、「世を裁く光」でもある。私たちは、光を求めると同時に、光を恐れる。光は私たちの暗い部分、罪の部分を汚れた部分、闇の部分をも、否応なく照らし出すものであるからである。光は裁きを伴っているからである。

主イエスは「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っている(14)」と語っておられる。これは、もちろんご自分が父なる神のもとから、この世界にやってきて、やがてまた父なる神のもとへ帰るということを指し示しているのであるが、主イエスは、その前に「苦しみを受け、十字架にかかって死ななければならない」ということも知っておられた。主イエスがそのようなお方であるからこそ、まことの世の光であるのだ。「イエス・キリストは世の光としてこの世に来られた」というのは、クリスマスの大きなメッセージであるが、それは最後の十字架をも含んでいることなのである。

主イエスは、私たちの罪をそのような形で担っていてくださるからこそ、裁きでは終わらない、救いをも指し示しておられるのである。主イエスこそがまことの人生の道しるべとしての光であるということをしっかりと心に留めたい。

2025.3.30 週報掲載の説教

2025.3.30 週報掲載の説教

<2025年2月9日の説教から>

『わたしもあなたを罪に定めない』

ヨハネによる福音書7章53節〜8章11節

牧師 鈴木美津子

 
あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい(7)」

これは、誰も予期していなかった言葉であろう。しかし、誰もこの言葉に対して、反論することはできない。人々は、一人去り、二人去りして、最後には誰もいなくなってしまった。
私たちは他人の欠点、罪、過ちというのはよく見えても、自分自身のことはなかなか見えないものである。見えないにもかかわらず、見えていると思い込んでいる。勝手に自分でもみ消して、ないもののようにしている。自分の罪は棚上げにして、他人を責めて、他人の罪を裁こうとする。ところが一番の問題は、自分自身の中にあるのではないか。そういう問いかけである。主イエスの言葉は、「あなたにはその資格があるのか」と問いつつ、「本当に彼女を裁くことができるものは誰か」を指し示している。彼らの中には、その資格のある人は誰もいなかった。最後に残ったのは、この女性と主イエスだけであった。
主イエスは、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか(10)」と問う。女性が「主よ、だれも」と言うと、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない(11)」と言われたのである。主イエスは、この女性の罪を決して水に流してしまったり、もみ消したりしようとしておられるのではない。また逆に律法を否定したり、無視しようとされたりしたのでもない。律法は律法として、神の意志は意志として、罪は罪として、厳然と存在する。それをあいまいにすることはできない。罪の赦しということと、罪の是認ということは違うということを心に留めなければならない。

「わたしもあなたを罪に定めない」ということは、実は「その裁きは、私が引き受ける」ということなのである。罪は裁かれなければならない。徹底的に罪が裁かれて、その中から赦しの宣告がなされるのである。

私たちは、キリスト者として生きる時に、どちらかと言えば、この「律法学者やファリサイ派の人々」のように、人を裁いてしまうものである。主イエスはそのような私たちの思いをもその身に引き受けて、間違いをただしながら十字架におかかりくださったのである。そのことを深く心に留めたいと思う。