2023.12.10 の週報掲載の説教

2023.12.10 の週報掲載の説教
<2023年10月1日説教から>
 
『生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のものです』
           ローマの信徒への手紙14章7-9節
                                                             牧 師 鈴木美津子
 
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、
                                     死ぬとすれば主のために死ぬのです(8)」。

 
キリスト者とは、どのような者であるのか?それは、「自分のために生きる者ではなく、自分のために死ぬ者でもない」というのが、キリスト者である。

私たちがキリスト者となる前は、どうであったのか?私たちは、自分のために生き、自分のために死ぬ者であった。「生きるのも、死ぬのも、自分次第。自分の人生は自分のもの」と考えていたのである。主イエスを主と信じ、受け入れる前は、自分自身が主人であったのだ。

しかし、主イエスを信じて、キリスト者とされた今はどうかと言えば、私たちは、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」者とされたのである。このことは、主イエスの御支配が私たちの全生涯に及ぶということ、地上の生涯ばかりではなく、死んでからの生涯にも及ぶということを教えている。

パウロは4節で、「召し使い」という言葉を使っているが、主イエスの召し使いである私たちは、自分のために生き、また死ぬのではなく、主イエスのために生き、また死ぬ者とされているのである。ところで、主のために死ぬとは、一体、どのようなことなのか?それは、キリスト者と主イエスとの関係は「死によって断ち切られることはないと信じて死を迎える」ということである。それが主イエスのために死ぬということである。では、なぜ、そのように言えるのか?それは、主イエスが私たちの罪のために死んで、私たちを正しい者とするために復活されたからである。主イエスは、弟子たちに「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:45)」と言われた。「身代金」とは「贖いの代価」とも訳せる。主イエスは十字架のうえで命をささげることによって、私たちを罪から贖い、御自分のものとしてくださった。そして、復活することによって、御自分と私たちとの関係が、死をはるかに越えて続いていくことを示されたのである。

私たちが生きるにも死ぬにも、主イエスのものであること。それは、私たちにとっての確かな拠り所であり、力強い慰めである。

2023.12.3 の週報掲載の説教

2023.12.3 の週報掲載の説教

<2023年9月24日説教から>

『主イエスのために』

ローマの信徒への手紙14章1節~6節

牧 師 鈴木美津子

 
特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです(6)」。ローマの教会には、何でも食べる信仰の強い人と、野菜だけを食べる信仰の弱い人がいた。信仰の強い人が多数派であり、信仰の弱い人が少数派であった。この両者の間で争いが起こっていたのである。

これに対して、パウロは6節で、自分の心の確信が、「主イエスのため」であるという確信であることを教えている。何でも食べる人は、何でも食べることが主イエスのためであると自分の心に確信して、何でも食べる。他方、野菜だけを食べる人も、肉を食べないことが主イエスのためであると自分の心に確信して、野菜だけを食べる。ですから、彼らは食べる物が違っていても、その確信、その動機は同じ、「主イエスのために」ということであるのだ。ここに主イエスの僕である者の一致がある。

「食べる人は主のために食べる」、「食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝している」とパウロが語るとき、食べない人は、食べない物に対して、感謝をささげているのではない。食べる野菜のことで神に感謝をささげているのである。

それぞれの食卓を想像してほしい。強い人の食卓には、肉も酒も並んでいる。そして、強い人は神に感謝の祈りをささげて、何でも食べるのである。他方、弱い人の食卓には、野菜とおそらく水が並んでいる。そして、弱い人も神に感謝の祈りをささげて野菜だけを食べる。強い人は主イエスのために何でも食べ、神に感謝をささげる。弱い人も主イエスのために野菜だけを食べ、神に感謝をささげるのだ。「主イエスのために」「神に感謝をささげる」、互いがこの一致に気づくとき、彼らは、主の食卓を共に囲むことができるのである。初代教会では、聖餐式は、食事と一緒に行われていた。私たちは礼拝において、ひとかけらのパンを食べ、少量のぶどう液を飲む。けれども、初代教会においては、聖餐式と食卓の交わりが一つであったのだ。そのことを考えるとき、食べ物のことで互いを裁き合うことが、どれほど、愚かで、教会の一致を損なうことであったかが分かる。しかし、主イエスは、御自分の食卓に、何でも食べる人と野菜だけを食べる人を招いてくださる。それゆえに、私たちも様々な違いを認めつつ、「主イエスのために」互いに受け入れ合うのである。

2023.11.26 の週報掲載の説教

2023.11.26 の週報掲載の説教

<2023年9月17日説教から>

『今や、救いは近づいている』

ローマの信徒への手紙13章11節~14節

牧 師 鈴木美津子

 
私たちが生きている今は、どのような時なのか?ひと言で言えば、「終わりの時」である。私たちは「終わりの時、時代」を生きている。なぜ、私たちは終わりの時代に生きていると言えるのか?それは、主イエスによって、神の国が既に到来したからである。主は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた(マルコ1:15)。それゆえ、私たちが生きている今の時代は、終わりの時代であると言えるのである。その一方で、私たちが生きている時代は、主イエスが天から来られるのを待ち望む時代であるとも言える。なぜなら、主イエスが再び来られることによって、神の国は完成され、私たちは完全な救いにあずかることができるからである。

「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている(11b)」という言葉によって、パウロが、主イエスがすぐにでも来られると考えていたことが分かる。救いが近づいている、それは主イエスが栄光の主として来られる日が近づいているということ。「私たちが信仰に入ったころ」とは、私たちがそれぞれに「イエスは主である」と公に言い表し、洗礼を受けた日のことである。

私たちは、この手紙が書かれてから2000年ほど経った時代に生きている。だから、私たちは、2000年たってもまだ「その日」が来ないのだから「主イエスが来られるのは、まだ先のことだ。自分が生きている間は来ないのではないか」と考えるかも知れない。確かに、その可能性はあるだろう。主イエスがいつ来られるかは、誰にも分からないからである。しかし、私たちは、主イエスが自分の生きている間に来られることを祈り、また期待すべきである。なぜなら「主イエスは、自分が生きている間に来ないのではないか」と考えるならば、私たちは眠り込んでしまうからである。そして、自分が主人であるかのように振る舞ってしまう。しかし、主イエスが来られることを祈りつつ、待ち望むならば、私たちは目を覚まして、賢い忠実な僕として歩むことができる。

私たちが救われたあの時から、神が、忍耐をもって裁きの日を引き延ばしておられる今日までの期間、そして、私たちが今生きている一瞬一瞬、その全てが、救いは近づいている、と謳われる恵みと憐れみの時である。私たちは自分の救いに関しては全く無力である。しかし、その私たちに、救いは近づいている、と御言葉は語る。この福音に目を覚まして、共に奮い立とうではないか。

2023.11.12 の週報掲載の説教

2023.11.12 の週報掲載の説教
<2023年9月3日の説教から>
『隣人を自分のように愛しなさい』
ローマの信徒への手紙13章8節~10節
牧 師 鈴木美津子
この「隣人」とは、一体誰であるのか?それは、私たちの助けを必要とする「すべての人」のことである。「人を愛する」こと、「隣人を愛する」こと、そのどちらも「すべての人を愛する」ことを意味している。また、この戒めは、自分を愛していることを前提としている。イエス様は、山上の説教の結論として、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である(マタイ7:12)」と言われた。キリスト者が行う具体的な愛の基準は、「キリスト者が自分を愛して、自分に悪を行わない。そうであるならば、キリスト者は隣人に対しても自分が人にしてほしくない悪を行わない方が良い。自分が人に同じことをされたら、どう思うであろうか」と、いうことである。

しかし、私たち人間にこの基準を満たすことはできない。なぜなら、私たちは必ずしも自分自身を愛しているとは言えないからである。却って、自分のことを憎んで、自分を破滅させるようなことを行ってしまうことさえある。

しかし、ここで言われている「愛」は、神の愛・アガペーである。私たちが本当の意味で自分を愛することできるのは、神が私たちのために、私たちを愛するが故に、ご自分の愛する御子イエス・キリストを十字架の死に引き渡してくださったことを知ったことによってである。主イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださった。そのことによって、わたしたちは神から愛されていることを知って、その神の愛を聖霊において心に注がれ、私たちは自分を愛することができる者とされる。そして、その愛で、隣人を、そしてすべての人を愛することができる者とされる。その真の神の愛で、自分を愛し、隣人を愛して生きるとき、私たちは律法を全うしているのである。なぜなら、神の愛の掟は、神の愛でしか満たすことができないからである。神の掟である十戒は神に対する愛と、隣人に対する愛とに要約される。言いかえれば、律法を守るということは、愛を実践することであり、愛を伴わない律法の実践は無意味で空しいことなのである。

愛は律法を全うし、愛だけが神の御心を全うすることができるのである。

2023.11.5 の週報掲載の説教

2023.11.5 の週報掲載の説教
<2023年8月27日の説教から>
 
ローマの信徒への手紙13章1-7節

 
『上に立つ権威』牧 師 鈴木美津子
 
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。(1)」

「すべての魂、すべての人間は、上に立つ権威に従うべきである」とパウロは語っている。上に立つ権威に従うことにおいて、キリスト者も例外ではないということである。キリスト者は、主イエスを、キリスト、メシア、油を注がれた王と告白している。主イエスをキリストと告白することは、主イエスが油注がれた王であると告白することであるからだ。しかし、そのように告白するキリスト者であっても、上に立つ権威に従うべきであるとパウロは言うのである。

そこで彼は、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたもの」であると語るのである。しかし、そのことを当の権威者たちが必ずしも知っているわけではない。当然、異教徒である権威者はそのことを知らない。それゆえ、権威者たちは、自分たちを絶対化して、思想・良心の自由を侵したり、あるいは自らの思想やイデオロギーを実現するために、税金を徴収したりすることがある。そのような時、キリスト者は、抗議の声を上げるべきである。さらに、キリスト者は、権威者が神の御心に逆らうことを命じる場合には、抵抗することを命じられている。使徒ペトロが使徒言行録5章29節で「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と、大胆に語ったように、キリスト者は人間よりも、神に従わなくてはならない。

パウロは、5節で、「良心のためにも、権威者に従うべき」であると語っているが、権威者が委ねられた権能を越えて、神のように振る舞うとき、キリスト者は良心のために、権威者に従ってはならない。また、権威者が神の掟に背くことを命じるとき、キリスト者は良心のために従ってはならない。なぜなら、キリスト者の良心の主はイエス・キリストの父なる神であるからだ。キリスト者は、権威者に無条件に従うことが求められているのではない。権威者が神によって立てられ、神に仕える者であるがゆえにキリスト者は、その権威に従うことが求められているのである。

2023.10.29 の週報掲載の説教

2023.10.29 の週報掲載の説教

<2023年8月20日の説教から>

『すべての人と平和に暮らしなさい』
ローマの信徒への手紙12章14節~21節

牧 師 鈴木美津子

 
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(14)」パウロは、「あなたがたを迫害する者」までも祝福を祈れと言う。なぜ、キリスト者は自分を迫害する者のために祝福を祈らねばならないのか。それは、私たちがかつて神の敵であったにも関わらず、イエス・キリストにあって祝福にあずかる者とされているからである。かつて、パウロ自身が主イエスを迫害する者であったにもかかわらず、祝福を受けた者であった。この私たちも同じである。しかし、その私たちのために、神は愛する御子を十字架の死に引き渡してくださった。だから、私たちは敵をも愛する愛、神の愛に生きることが求められているのである。

また、イエス・キリストを信じる私たちは、だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うよう心がけることが求められている。ここでの善は、神の御心のことである。私たちは誰に対しても、誰の前であっても、神の御心である善を行うよう心がけるべきである。言い換えれば、どのようなときも御言葉と聖霊に導かれて歩むということである。しかし、この世で、すべての人の祝福を祈り、誰に対しても善を行って安寧に暮らすことは大変難しいことである。なぜなら、世はイエス・キリストを憎み、その弟子である私たちをも憎むからである。だから、パウロは、「できるかぎり、あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」、「あなたがたの方からすべての人との平和を乱してはならない」と言うのである。パウロは、この世と妥協することを勧めているのではない。キリスト者は、信仰や真理の問題に関しては、決して妥協してはならない。なるべく争いを避けようとして、神ではないものを神として拝むことはできない。パウロがここで言おうとしていることは、自分で「復讐してはならない」ということである。キリスト者は、自分で復讐して、人々との平和を乱してはならない。なぜなら、神から満ち溢れるほどに愛されている私たちには、自分を迫害する者をも愛して、平和を造り出すことが求められているからである。