ヨハネによる福音書7章53節~8章11節 「あなたを罪に定めない」

 
   <111日の説教から>
       「あなたを罪に定めない」ヨハネによる福音書753節~811節)
                                牧師 三輪地塩
 この箇所は大変有名である。イエスの愛と赦しに満ちている温かく優しい箇所と言えるだろう。我々がこの箇所を読むときに心の中に湧き起こるのは、「痛快感」や「スッキリした思い」ではなかろうか。あるいは「あの憎き律法学者やファリサイ派をやっつけたという爽快感」であろう。トンチで将軍様をやり込めた「一休さん」のようでさえある。
 だがよく考えてみると、この女性は「無実の罪」によって不法にも連行されてきたのではない。彼女は、当時としては赦されるべきではない「姦淫の罪」という逃げ隠れ出来ない罪を犯し、言い訳の出来ない現行犯で捕まっているのである。
 つまりこの箇所は、イエス・キリストが「罪を犯した人の“罪が無くなった”」と言っているのではない。赦されざる罪を犯した者がその後どうなったかを示し、我々は一つの問いを与えられるのである。この箇所が「愛にあふれる箇所である」と我々が感じるとき、我々の目線はどこにあるのだろうか。これを「勧善懲悪の痛快な話」として読む場合、我々の心は「イエスの目線」からこれを読んでいる事になる。あるいは、守られて赦された姦淫の女性の視点に立っていることになるだろう。しかし本来、聖書が我々に投げかけるのは、「あなたも赦されている」ということよりも、「あなたは誰も罪に定めることなどが出来ない」ということである。つまり、他者の罪は非常に厳しく告発するけれども、自分の罪は見過ごしがちな我々に内包される「都合の良い自己愛」に対し、「そのあなたの罪を悔い改めよ」ということが重要ではなかろうか。律法学者を糾弾し、ファリサイ派をギャフンと言われた痛快感に浸る我々は「被害者」としてこれを読んでいる。しかし本来読むべきは逆なのだ。我々は「加害者である」という視点からこれを読むとき「愛に満ちた箇所」というよりも、我々の罪そのものを糾弾される 「心に痛く突き刺さる御言葉」となるのである。
 主イエスは「この女に石を投げなさい」と言っているように、決してして律法を破って良いなどと言ってはいない。しかし「あなたも罪を犯していることに気づきなさい」と、内省的に自己吟味することへ促されている言葉である。「ああ イタタタ・・」と、心に痛みを感じながら読んでもらいたい箇所である。

9月20日の説教から ヨハネによる福音書7章25節~31節

 
920日の説教から>
『救い主はどこからくるのか』
              ヨハネによる福音書725節~31
                                牧師 三輪地塩
 
 この箇所は「キリスト告白」を主題としている。
 「人間の知」は未知を探求する。それは人間に備わった知恵であり、欲求である。それによって我々は新たな地平を得て行く。しかし「キリストを知る」ことは、我々に、「未知の神」が更に未知であることを明らかにすることを意味する。つまり我々は神を完全に知る事は出来ないし、キリストを自分のものとすることはできない。我々に与えられている神との関わりは「信仰告白」においてのみ可能となるのである。
 我々はキリストを告白する。もっと具体的には「キリストの救いを信じること」を告白するのである。我々は、自分で自分自身を救うことが出来ない。我々の中には絶対的な正義はなく、絶対的な知恵もない。良い判断、高い知識、正しいを思われる行いは出来るかもしれない。しかし「完全な」ものは我々には不可能である。これが聖書の語る人間存在である。
 このように考えると聖書の語る人間観は何とネガティブだろうかと思うかもしれない。しかしそうではない。なぜなら我々は、キリストを告白することが出来る存在」として創造されているからである。聖書は我々に限りなく明るく前向きな人間観を与える。それは「功績なくして罪を赦される」という御子との関わりが与えられているからである。宗教改革者ジャン・カルヴァンは「人間は全的堕落の存在だ」と言った。人間が全ての部分において悪い方向に傾いているという意味である。だからこそ我々は信仰を告白せねばならない。だからこそ、神の正しさの内に生きなければならない。我々のうちに起こり得るただ一つの希望、ただ一つの慰めは、「神の希望の内に生きること」なのである。我々人間という存在は、神と共に生きる時、希望ある存在となるのである。
 そのためにいつも聖書と共に歩み、聖書から御言葉に聞くことが肝要である。聖書の言葉に耳を傾けそれに応答する生活こそが、我々の希望の生活となるのである。
 
 

8月30日の説教 ヨハネ福音書7章1節-9節

830日の説教から>
わたしの時はまだ来ていない

                  ヨハネによる福音書71節~9

                                 牧師 三輪地塩
 イエスの兄弟(主の兄弟)たちが批判的に描かれている。ここには主の兄弟が重んじられるという血統や家系を重んじるという「初代キリスト教会へのアンチ」が込められているのではないだろうか。ヨハネ福音書が書かれたAD90年頃は主の兄弟たちが重んじられる教会の政治体制、特に総本山としてのエルサレム教会に権威が集中しているあり方を批判しているのではないかと思われる。つまり我々の信仰とは、イエスの血筋であるから偉いとか、「イエスの兄弟であるから崇敬に値する」ということになった場合、そこにはキリストの福音に反する価値観による評価が起こってしまうと言おうとしているのではないだろうか。「私の親兄弟とは誰か、ここにいる者たち、御言葉に聞き従おうとして集まっている人たちが、私たちの本当の兄弟姉妹である」、と主イエスは言われた。それは我々の信仰が、御言葉に立っていることを示すものであり、神の救いが人間的な、家系、血族、家柄の中には無い ということを表わす言葉であろう。
 キリストは誰のために死なれたか。それは世のすべての者たちのためである。キリストと同じユダヤに生まれた者たちだけ族のためでもないし、イスラエル民族だけのためでもない。キリストは世を救うメシア、キリストであられた。十字架がそれを示している。しかし「イエスの兄弟たち」はそれが理解できなかった、最後まで目に見えるものや事柄に引っ張られていたのである。
 翻って我々現代に生きるキリスト者はどう生きることが求められるのか。それは「御言葉に立つ」という信仰の在り方である。我々は目に見える事柄に流される。奇跡的な出来事があると、そこに神の姿を見ようとしてしまう。しかし本当の神の姿は「素晴らしさ」の中にあるのではなく、「痛みと苦しみの中」にあったのだ。その命を捨ててまで我々を愛される姿の中に、本当の神の姿を見、その神こそが、我々を罪から救い、神と共に生きうるものとされる「贖い」があるのである。我々は教会において、神に愛される兄弟姉妹として共に生き、生かされたいと願う。

8月23日の説教

823日の説教から>
『実にひどい話だ。こんな話は聞いていられない。』
             ヨハネによる福音書660節~71
                                牧師 三輪地塩
「肉は何の役にも立たない」(63節)は心に突き刺さる。人類はその歴史の多くの場面でこの言葉が真実であることを否応なしに思い知らされてきた。
 86日に放映された「原爆は止められなかったのか」という番組(NHK)を観て、これは本当に人間の罪がなせる業だったことを思わされた。番組では、大日本帝国のかたくな な戦争への意と、米英露の戦後を見越した覇権争いが原爆の使用を促進させたという、これまでも何度も聞いてきた歴史観であったが、驚いたのはトルーマンの言葉である。「Beastたち(つまり日本人たち)に戦争を終結させるには原爆しかない」という意味の言葉を 時の大統領が残しているのである。ビーストとは「野獣」であり、この文脈から翻訳すると「あの日本のケダモノたち」とか「日本の畜生たちが」という感じになる。そして彼らは平和を語るのである。あのままにしておけばもっと戦死者が出たのだから原爆程度の犠牲者で済んでよかった、それがアメリカが成し得た最も平和的な解決だという論理である。当然ながら日本は、アジア全土で悲惨な殺戮を続け、大東亜共栄圏という理想郷を作り上げることが平和なのであると語っていたのだから、連合国側を批判できる立場にない。つまり、こっちが悪いあっちが悪い、という因果を超えて「人間の行いは悪い」ということに気づかされるのである。あの戦争によって我々は、人間の無し得ようとする「平和」が、人間の業とエゴの結晶化であることを示すのである。人類は肉的な思いに囚われ、肉的な考えと行動によって行いを進めれば、そこには殺戮と破壊、破滅と悲惨しか造り出せないということである。それが「肉のなす業である」ことを改めて思わされる。
「肉は何の役にも立たない」という言葉と共に「そこに神がおられなければ」という真理に出会うのである。
昨今の悲惨な事件や事故の数々は、我々人間の肉の業による最たるものであろう。そこに神がおられるのか。我々はこの真実の下で行動し、歩まねばならないのである。

8月2日の説教 ヨハネ6章52節-59節

              <82日の説教から>

        『パンを食べ葡萄酒を飲むというイエスの教え』
           ヨハネによる福音書652節~59
                              牧師 三輪地塩
この世には多くの宗教があり、「神」と呼ばれる存在は多くある。ギリシャ神話、ローマ神話、日本神話、アイヌやアメリカンネイティブの神話などに多くの「カミ」が登場する。その中で、神が英雄的に死んだという話もたくさんあるだろう。人間のために、人間を守るために神が身を捧げて英雄として死んでいった、これは何とも感動的で心を揺さぶる物語となる。
 ここにキリスト教独自の「信仰観」ないし「神観」がある。キリストは我々の救いのために死んでいった、というところまでは似ているが、しかし「救われる者たち」、すなわち救われるべき我々人間から、笑われ、あざけられ、身ぐるみはがされ、槍で突かれ、苦しみを受けて死んでいった、という神はこの世の中のどこにもいない。神が救おうとする者たちから反逆を受けているにも関わらず、その反逆する者を救う、という神話がどこにあるだろうか。
 それが私たちのキリスト教信仰の特筆すべき信仰である。そしてそれを端的に言い表わし、目で見て、舌で味わう御言葉として与えられたものこそが、聖餐式なのである。我々に聖餐が与えられている意味はそこにある。
 聖餐式の中で食されるパンとブドウ酒は、キリストの「肉」「血」そのもの(化学式的な実態としての肉と血)になるわけではない。しかし礼拝に一堂に会しているものたちが、キリストの現臨を祈り、聖霊において存在されるキリストと共に、このパンと杯を口にするのである。その時我々は、キリストによって救われている確信を得ることができるのである。

7月26日の説教 『つぶやき合うのはやめなさい』


     『つぶやき合うのはやめなさい』
     ヨハネによる福音書641節~51
                牧師 三輪地塩
 47節の言葉「信じる者は永遠の命を得ている。」は意義深い言葉である。ヨハネ福音書が好んでよく使う言い回しであるが、ここでは「得ている」という現在形が使われているのである。「信じる者は死んだ後に永遠の命を得る」と言っているのではない。もう既にこの世にいるときから得ているという。これは我々に天の国を「彼岸のもの」にするのではなく「此岸」にあるもの、つまりこちら側のものとして考えることを促している。
 先日、真宗大谷派の僧侶をしている知り合いから、「キリスト教で天国とはあの世のことですか?」つまり「彼岸にあるものですか?」という質問をされた。ふと思い起こしたのがマルコ福音書1「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であった。ここには聖書の語る神の国(天国観)があるように思う。聖書は「神の国が近づいた」と言う。「この世において」、この世に居ながらにして天国が来る、とマルコは言う。
 大谷派の知人とは親鸞と聖書の天国観(浄土観?)の近しさを改めて認識することができた。その後 歎異抄(たんにしょう・親鸞の弟子が書いた親鸞の言葉)を開き、信仰理解や救済理解のキリスト教信仰との近さを再認識することが出来た。
 「天の国はどこにあるか」と言われて、我々キリスト者は「いずれ行くところですよ」「あの世のことですよ」というよりも、むしろ「すでにここにあるものですよ」と答えた方が我々キリスト者には正しい感覚なのではないか。我々が信仰者としてキリストを信じ、キリストと共に生きているという現実の中で天国があり、キリストがそれを「結び」「つなげ」て下さる。今生きているところ(現実のこの場)において、神の国、天の国を受けることが出来るのである。
これに関して、フィリピ320節の「しかし、私たちの本国は天にあります」の言葉に、我々のアイデンティティの所在が示されている。