2024.7.7 の週報掲載の説教
<2024年5月12日の説教から>
「独り子をあたえるほどの神の愛」
ヨハネによる福音書3章16節~21節
牧師 鈴木 美津子
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。(16a)」ヨハネの言う「世」とは、神に背き、神に敵対し、神を殺してしまうような存在、つまり暗闇の世界ことである。神は、その世界に独り子であるイエス・キリストを十字架につけるために、遣わされた。そのゆえは、神の本性とも言える愛によるものであった。神は愛のお方であるゆえに、御自分が造られたこの世界、しかし御自分に背き続けるこの世界を滅びるままに放置することはできなかったのである。神に背き続けるこの世界、それは神によって造られたものでありながら、創造主を忘れ、自らを神として歩む世界である。
しかし神は、そのような世界を愛して下さった。「独り子をお与えになったほどに」。これは、神が私たちを愛してくださる愛の大きさを示している。主イエスご自身が神の愛の証拠だからである。神を信じない世に、神に敵対する罪の世に、神の御子であるイエス・キリストの命をくださった、それが神の愛だからだ。この愛を知り、この愛を聞かされた者が、この愛に対して、どのような態度を取るのか。それは二つに一つである。感謝して、この愛を受け取るか、そんなことは信じられないと言って、この愛を拒否するか。この選択に中間はない。神は、この愛を、わたしたちが受け取り、そして信じるようにと招いている。この愛を信じて、神の愛の中で生きる方を選び取ること、それもまた、神の恵みの出来事である。
この愛を受け取り、独り子イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるならば、「永遠の命」を得ると約束される。「永遠の命」とは、単に肉体的に生きている、生存していると言うだけのことではない。神の目から見て、真に生きているということ。体が丈夫であるとか病気であるとか、ないかというような問題を超えた命である。誰もが必ず経験する死によって失う命ではなく、天においても生きる命、それが永遠の命である。
ヨハネの手紙一の4章9節には「わたしたちはそれによって生きる」と書かれている。この命をいただいた者は、神の愛を心の深くに知って生きるようになる。平安、感謝、恵み、喜びの中で生きるようになる。それが永遠の命である。わたしたちは、その神の命で生きるのである。
2024.6.30 の週報掲載の説教
2024.6.30 の週報掲載の説教
<2024年5月5日の説教から>
「新しく生まれ変わる」
ヨハネによる福音書3章1節~15節
牧師 鈴木 美津子
ニコデモはユダヤ人であり、ファリサイ派に属する議員であった。ある夜、彼は人目を避けるように夜の闇に紛れて、主イエスのもとを訪ねた。彼は主イエスを「神から来られた方」だと言った。ニコデモは主イエスが為された奇跡や癒しの業を見たので、主イエスから「どうやったら神の国に入ることができるのか。救われるのか。」その教えを請おうとしてやってきたのである。ニコデモからすれば、信仰とは、特別な天の知識を得ることであったのだ。
主イエスは、ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」言われた。これに対してニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えた。ニコデモは主イエスの言葉の意味を全く理解していなかった。なぜなら、ニコデモは人が「変わる」ということを、自分の力、自分の努力によって変わると捉えていたからである。それに対して、主イエスは「神の力によって変わる」と言っているのである。
人が、信じる者になる(変わる)、というのは、確かに自分の意志で、自分で決断して信じることである。しかしそうであるから、信じるということが不確かなことのようにも思われる。自分の意志や決断は必ずしもその後に及んで維持できるかどうかはわからないからである。しかし、主イエスが教えられるのは、神の思い、神の意志があって、主なる神が「霊」を注いでくださることによって、信じる者となる、ということである。そこに、私たちが信じることの確かさがあるのだ。
私たちが「永遠の命を得る」ということは、「神の国を見る」、あるいは「神の国に入る」ということである。それは、この地上の命では、ニコデモも考えたようにできないことなのである。
ニコデモが、この時、どのように受けとめたかは、これ以上記されていないのでわからない。しかし後にアリマタヤのヨセフと共にピラトに申しでて、十字架で息を引き取られた主イエスの遺体を引き取り、墓に納めている。それは、ニコデモが主イエスの弟子であることを公にすることでもある。主イエスが十字架に上げられるに及んで、主イエスが言われていたことが確かなことであり、十字架において「人の子が上げられる」確かな「しるし」であることをニコデモは理解したのである。
<2024年5月5日の説教から>
「新しく生まれ変わる」
ヨハネによる福音書3章1節~15節
牧師 鈴木 美津子
ニコデモはユダヤ人であり、ファリサイ派に属する議員であった。ある夜、彼は人目を避けるように夜の闇に紛れて、主イエスのもとを訪ねた。彼は主イエスを「神から来られた方」だと言った。ニコデモは主イエスが為された奇跡や癒しの業を見たので、主イエスから「どうやったら神の国に入ることができるのか。救われるのか。」その教えを請おうとしてやってきたのである。ニコデモからすれば、信仰とは、特別な天の知識を得ることであったのだ。
主イエスは、ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」言われた。これに対してニコデモは「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と答えた。ニコデモは主イエスの言葉の意味を全く理解していなかった。なぜなら、ニコデモは人が「変わる」ということを、自分の力、自分の努力によって変わると捉えていたからである。それに対して、主イエスは「神の力によって変わる」と言っているのである。
人が、信じる者になる(変わる)、というのは、確かに自分の意志で、自分で決断して信じることである。しかしそうであるから、信じるということが不確かなことのようにも思われる。自分の意志や決断は必ずしもその後に及んで維持できるかどうかはわからないからである。しかし、主イエスが教えられるのは、神の思い、神の意志があって、主なる神が「霊」を注いでくださることによって、信じる者となる、ということである。そこに、私たちが信じることの確かさがあるのだ。
私たちが「永遠の命を得る」ということは、「神の国を見る」、あるいは「神の国に入る」ということである。それは、この地上の命では、ニコデモも考えたようにできないことなのである。
ニコデモが、この時、どのように受けとめたかは、これ以上記されていないのでわからない。しかし後にアリマタヤのヨセフと共にピラトに申しでて、十字架で息を引き取られた主イエスの遺体を引き取り、墓に納めている。それは、ニコデモが主イエスの弟子であることを公にすることでもある。主イエスが十字架に上げられるに及んで、主イエスが言われていたことが確かなことであり、十字架において「人の子が上げられる」確かな「しるし」であることをニコデモは理解したのである。
2024.6.23 の週報掲載の説教
2024.6.23 の週報掲載の説教
<2024年4月28日の説教から>
「主はわたしたちの心の中を知っておられる」
ヨハネによる福音書2章23節~25節
牧師 鈴木 美津子
多くのユダヤ人が「イエスの名」を信じたが、主イエスご自身は彼らを信用されなかった。なぜなら、主イエスは何が人間の心の中にあるかを、よく知っておられたからである。主イエスは、人間の心の中がどれほど罪深く愚かなものであるかをよく知っておられたのである。彼らは、見るべき「しるし」ではなく、主イエスがなさった不思議なわざに驚いて、「この人はすごい人だ」信じたからだ。
目に見える「奇蹟」「癒し」を重んじて、求めていく心が人間の中にある。「見たら信じられる」という心である。そのような心、信仰の態度、一時的な熱狂によって信じる者を主イエスは信じない。神はもちろん、病いを「癒す」ことがおできになる。しかし、それが自分の思い通りに叶わなかったら信じないのであれば、単なる「御利益信仰」である。もちろん私たちは苦しみの中で、救いを求め、切羽詰まった状況の中で神に近づくことがある。神はそのように助けを求める思いを拒否なさらず、受け入れてくださる。その中で神との関係、神を信頼するというつながりができていく。そのことなしに単なる願いのみに留まるのであれば、神が自分の願いを叶えなかったり都合の悪いことが起こったりしたら神から離れていく、というような自己中心の信仰で終わってしまうのである。
しかし、このことは、単に「しるし」を見て信じたユダヤ人たちについてだけ言えることではない。私たちがどのようなきっかけで信仰に入るにせよ、私たちは「イエス・キリストの十字架の死と復活」という「しるし」こそ信じなければならないからである。いや、むしろ、私たちの信仰にとっては、これだけあれば十分なのだ。
神は主イエスの十字架の死と復活を通してご自身の愛と真実を表わされた。その神を信じ、良い時も悪い時も信頼して生きて行くことが求められている。「信仰」とは「神への人格的な信頼」である。そうであるから、私たちは主イエスを「救い主」と信じ、交わりを持ち、神と相対して生きることが求められている。そのような信仰でなければ、私たちは人生の危機の中で信仰を全うすることができないからである。
<2024年4月28日の説教から>
「主はわたしたちの心の中を知っておられる」
ヨハネによる福音書2章23節~25節
牧師 鈴木 美津子
多くのユダヤ人が「イエスの名」を信じたが、主イエスご自身は彼らを信用されなかった。なぜなら、主イエスは何が人間の心の中にあるかを、よく知っておられたからである。主イエスは、人間の心の中がどれほど罪深く愚かなものであるかをよく知っておられたのである。彼らは、見るべき「しるし」ではなく、主イエスがなさった不思議なわざに驚いて、「この人はすごい人だ」信じたからだ。
目に見える「奇蹟」「癒し」を重んじて、求めていく心が人間の中にある。「見たら信じられる」という心である。そのような心、信仰の態度、一時的な熱狂によって信じる者を主イエスは信じない。神はもちろん、病いを「癒す」ことがおできになる。しかし、それが自分の思い通りに叶わなかったら信じないのであれば、単なる「御利益信仰」である。もちろん私たちは苦しみの中で、救いを求め、切羽詰まった状況の中で神に近づくことがある。神はそのように助けを求める思いを拒否なさらず、受け入れてくださる。その中で神との関係、神を信頼するというつながりができていく。そのことなしに単なる願いのみに留まるのであれば、神が自分の願いを叶えなかったり都合の悪いことが起こったりしたら神から離れていく、というような自己中心の信仰で終わってしまうのである。
しかし、このことは、単に「しるし」を見て信じたユダヤ人たちについてだけ言えることではない。私たちがどのようなきっかけで信仰に入るにせよ、私たちは「イエス・キリストの十字架の死と復活」という「しるし」こそ信じなければならないからである。いや、むしろ、私たちの信仰にとっては、これだけあれば十分なのだ。
神は主イエスの十字架の死と復活を通してご自身の愛と真実を表わされた。その神を信じ、良い時も悪い時も信頼して生きて行くことが求められている。「信仰」とは「神への人格的な信頼」である。そうであるから、私たちは主イエスを「救い主」と信じ、交わりを持ち、神と相対して生きることが求められている。そのような信仰でなければ、私たちは人生の危機の中で信仰を全うすることができないからである。
2024.6.9 の週報掲載の説教
2024.6.9 の週報掲載の説教
<2024年4月21日説教>
『イエス様の言われる神殿』
ヨハネによる福音書2章13節ー22節
牧 師 鈴木美津子
この個所は「イエスの宮清め」と呼ばれている。エルサレム神殿境内の「異邦人の庭」で、犠牲に献げる動物が売られ、また外国の貨幣をイスラエル通貨に両替する店が軒を連ねていた。主イエスはこれらから生じた「商売」に怒り、商人たちを追い出したのだ。
しかし、これにはもっと根深い問題があった。神殿を運営している祭司長を筆頭とする「神殿当局者」たちが神殿を食い物にしているという状況がそこにはあったからだ。神殿でささげられる「犠牲の動物」には、厳密な規定がある(レビ記1章ほか)。それらは全て「無傷」のものでなければならない。しかし人々が自宅から「無傷」な状態で保って持参することは大変難しい。そのため、「犠牲の動物」が神殿の境内で販売されていた。更に、神殿で通用する貨幣はユダヤ社会の通貨シェケルに限られていた。「犠牲の動物」を購入するためにはシェケルへの換金が必要な場合が多く、そこで不当な利潤を得るユダヤ人たちが存在した。主イエスはそのような不正を見逃すことができなかったのである。
このような行為に出た主イエスに対し、対立する「ユダヤ人」たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか(18)」、と詰め寄った。一体、あなたにどんな資格や権威があってこのようなことをするのか明らかにせよ、と迫ったのである。それに対して、主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる(19)」、と答えた。しかし、ここで主イエスが新しく建てる神殿は、全く違う「神殿、神の宮」のことである。そして、「神殿、神の宮」とは主イエスご自身のからだ、復活の主イエスご自身のことである。
ここにおいて主イエスご自身こそが真に礼拝されるべき方であるということが訴えられ、ユダヤ教的祭儀の廃棄が宣言されている。復活された主イエス・キリストにおいて、場所にとらわれない、霊と真理からなる礼拝が実現したのである。
<2024年4月21日説教>
『イエス様の言われる神殿』
ヨハネによる福音書2章13節ー22節
牧 師 鈴木美津子
この個所は「イエスの宮清め」と呼ばれている。エルサレム神殿境内の「異邦人の庭」で、犠牲に献げる動物が売られ、また外国の貨幣をイスラエル通貨に両替する店が軒を連ねていた。主イエスはこれらから生じた「商売」に怒り、商人たちを追い出したのだ。
しかし、これにはもっと根深い問題があった。神殿を運営している祭司長を筆頭とする「神殿当局者」たちが神殿を食い物にしているという状況がそこにはあったからだ。神殿でささげられる「犠牲の動物」には、厳密な規定がある(レビ記1章ほか)。それらは全て「無傷」のものでなければならない。しかし人々が自宅から「無傷」な状態で保って持参することは大変難しい。そのため、「犠牲の動物」が神殿の境内で販売されていた。更に、神殿で通用する貨幣はユダヤ社会の通貨シェケルに限られていた。「犠牲の動物」を購入するためにはシェケルへの換金が必要な場合が多く、そこで不当な利潤を得るユダヤ人たちが存在した。主イエスはそのような不正を見逃すことができなかったのである。
このような行為に出た主イエスに対し、対立する「ユダヤ人」たちは「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか(18)」、と詰め寄った。一体、あなたにどんな資格や権威があってこのようなことをするのか明らかにせよ、と迫ったのである。それに対して、主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる(19)」、と答えた。しかし、ここで主イエスが新しく建てる神殿は、全く違う「神殿、神の宮」のことである。そして、「神殿、神の宮」とは主イエスご自身のからだ、復活の主イエスご自身のことである。
ここにおいて主イエスご自身こそが真に礼拝されるべき方であるということが訴えられ、ユダヤ教的祭儀の廃棄が宣言されている。復活された主イエス・キリストにおいて、場所にとらわれない、霊と真理からなる礼拝が実現したのである。
2024.6.2 の週報掲載の説教
2024.6.2 の週報掲載の説教
<2024年4月14日説教>
『カナでの婚礼の奇跡 −水をぶどう酒に−』
ヨハネによる福音書1章43節~51節
牧 師 鈴木美津子
事の起こりは、ぶどう酒が足りなくなったので、母マリアが主イエスに、「ぶどう酒がなくなりました(3)」、と言ったことにある。ぶどう酒が底をついたのだ。この時代の婚礼は、通常一週間続く大きなイベントで、その喜びを祝う席でぶどう酒がなくなった場合、ホスト側の面目は丸潰れであったのだ。
水をぶどう酒に変えられた奇跡、これをヨハネ福音書は、「最初のしるし」と語る。ヨハネ福音書は、主イエスの数あるしるしの中から7つのしるしを選んで伝えているが、その「最初のしるし」が、このガリラヤのカナの婚礼で行われた水をぶどう酒に変えるという奇跡であった。ヨハネ福音書は、主イエスの奇跡を「しるし」と呼ぶ。それは、水をぶどう酒に変えられたという奇跡が、主イエスがどのようなお方であるかを指し示しているものであるからだ。主イエスが水をぶどう酒に変えられた。そのこと事態、驚くべきことであるが、ただそのことに留まっているだけでは、「イエスを信じた」という信仰へ到達することはない。事実、ここに登場する召し使いたちは、それがどこからきたかを知っていながら、主イエスを信じるには至っていないからである。ヨハネ福音書は、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と語る。「その栄光」とは、もとの言葉では「彼の栄光」、つまり主イエス御自身の栄光である。水をぶどう酒に変える奇跡に、主イエスの栄光を見ることができるかどうか。そのことが、主イエスを信じる信仰へと至るかどうかの分かれ目となるのである。弟子たちはこの奇跡を単なる不思議な業としてではなく、主イエスの栄光を現す「しるし」として見ることができた。それゆえ、弟子たちは主イエスがメシアであることをさらに深く、確かなこととして信じることができたのである。
主イエスは、ガリラヤのカナにおいて、その栄光を現してくださった。そして今も、主の日の礼拝において、御自身の栄光を現してくださる。私たちは主の日の礼拝毎に、主イエスの栄光を仰ぐことができるのである。そのようにして、主イエスは今もそしてこれからも信じる者たちを起こし、私たちの信仰を深め、確かなものとしてくださるのである。
<2024年4月14日説教>
『カナでの婚礼の奇跡 −水をぶどう酒に−』
ヨハネによる福音書1章43節~51節
牧 師 鈴木美津子
事の起こりは、ぶどう酒が足りなくなったので、母マリアが主イエスに、「ぶどう酒がなくなりました(3)」、と言ったことにある。ぶどう酒が底をついたのだ。この時代の婚礼は、通常一週間続く大きなイベントで、その喜びを祝う席でぶどう酒がなくなった場合、ホスト側の面目は丸潰れであったのだ。
水をぶどう酒に変えられた奇跡、これをヨハネ福音書は、「最初のしるし」と語る。ヨハネ福音書は、主イエスの数あるしるしの中から7つのしるしを選んで伝えているが、その「最初のしるし」が、このガリラヤのカナの婚礼で行われた水をぶどう酒に変えるという奇跡であった。ヨハネ福音書は、主イエスの奇跡を「しるし」と呼ぶ。それは、水をぶどう酒に変えられたという奇跡が、主イエスがどのようなお方であるかを指し示しているものであるからだ。主イエスが水をぶどう酒に変えられた。そのこと事態、驚くべきことであるが、ただそのことに留まっているだけでは、「イエスを信じた」という信仰へ到達することはない。事実、ここに登場する召し使いたちは、それがどこからきたかを知っていながら、主イエスを信じるには至っていないからである。ヨハネ福音書は、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と語る。「その栄光」とは、もとの言葉では「彼の栄光」、つまり主イエス御自身の栄光である。水をぶどう酒に変える奇跡に、主イエスの栄光を見ることができるかどうか。そのことが、主イエスを信じる信仰へと至るかどうかの分かれ目となるのである。弟子たちはこの奇跡を単なる不思議な業としてではなく、主イエスの栄光を現す「しるし」として見ることができた。それゆえ、弟子たちは主イエスがメシアであることをさらに深く、確かなこととして信じることができたのである。
主イエスは、ガリラヤのカナにおいて、その栄光を現してくださった。そして今も、主の日の礼拝において、御自身の栄光を現してくださる。私たちは主の日の礼拝毎に、主イエスの栄光を仰ぐことができるのである。そのようにして、主イエスは今もそしてこれからも信じる者たちを起こし、私たちの信仰を深め、確かなものとしてくださるのである。
2024.5.26 の週報掲載の説教
2024.5.26 の週報掲載の説教
<2024年4月7日説教>
『来て、見なさい』
ヨハネによる福音書1章43~51節
牧 師 鈴木美津子
いつの時代にあっても、主イエスを人々に証しする時には、実に冷ややかな反応に出遭うことが多い。なぜなら、キリスト教に対する「誤解」や「先入観」などで、なかなか人々にキリストの福音の素晴らしさを知ってもらえないのである。この時のフィリポもそうであった。この時フィリポは、ナタナエルに「来て、見なさい(46)」と言った。どんなに素晴らしい証しの言葉をもって主イエスについて語ったとしても、受け入れてもらうことは難しい。だから、フィリポは真の主イエスを知ってもらうためには、ナタナエルを主イエスのもとに連れていけば良いと考えたのである。今の時代であれば、「教会に来て、見てください」とお誘いすることである。教会は「礼拝」をする場所であり、そこで人々は神を喜んで賛美し、神の言葉に真剣に耳を傾ける。そのような「礼拝」の中に、主イエスは臨在しておられる。
フィリポに促され、主イエスのもとにやってきたナタナエルの心の中を、既に主イエスは知っておられた。ナタナエルは「この方に知られている」「この方に捉えられている」ということに気づき驚いた。そして「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」という告白に導かれた。人が「イエスはメシアである」と信じ従うようになるのは、主イエスが、まずその人を見出し、声をかけてくださることによる。私たちは「自分で選び、自分で決めて教会に足を踏み入れた」と思っているかも知れない。しかし、まず神が自分を知り、見出して導いてくださったのである。私たちは、その真実を、後になって知ることになる。なぜなら、生けるキリスト、生ける聖霊の働きは私たちにとって「後で分かる」ようなものだからである。
ナタナエルの信仰告白を聞き、主イエスは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる(50)」と言われた。「イエスはメシアである」と信じる告白は、信仰の出発点であり、そこからますます確かな信仰に導かれていくのだということを、主イエスは信じる者に約束してくださっている。「信じます」という告白は、「神との交わり」「神の恵みを知ること」の始まりに過ぎない。私たちは、そこから神との交わりが深められ、ますます多くの恵みを知るように導かれていくのである。
<2024年4月7日説教>
『来て、見なさい』
ヨハネによる福音書1章43~51節
牧 師 鈴木美津子
いつの時代にあっても、主イエスを人々に証しする時には、実に冷ややかな反応に出遭うことが多い。なぜなら、キリスト教に対する「誤解」や「先入観」などで、なかなか人々にキリストの福音の素晴らしさを知ってもらえないのである。この時のフィリポもそうであった。この時フィリポは、ナタナエルに「来て、見なさい(46)」と言った。どんなに素晴らしい証しの言葉をもって主イエスについて語ったとしても、受け入れてもらうことは難しい。だから、フィリポは真の主イエスを知ってもらうためには、ナタナエルを主イエスのもとに連れていけば良いと考えたのである。今の時代であれば、「教会に来て、見てください」とお誘いすることである。教会は「礼拝」をする場所であり、そこで人々は神を喜んで賛美し、神の言葉に真剣に耳を傾ける。そのような「礼拝」の中に、主イエスは臨在しておられる。
フィリポに促され、主イエスのもとにやってきたナタナエルの心の中を、既に主イエスは知っておられた。ナタナエルは「この方に知られている」「この方に捉えられている」ということに気づき驚いた。そして「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」という告白に導かれた。人が「イエスはメシアである」と信じ従うようになるのは、主イエスが、まずその人を見出し、声をかけてくださることによる。私たちは「自分で選び、自分で決めて教会に足を踏み入れた」と思っているかも知れない。しかし、まず神が自分を知り、見出して導いてくださったのである。私たちは、その真実を、後になって知ることになる。なぜなら、生けるキリスト、生ける聖霊の働きは私たちにとって「後で分かる」ようなものだからである。
ナタナエルの信仰告白を聞き、主イエスは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる(50)」と言われた。「イエスはメシアである」と信じる告白は、信仰の出発点であり、そこからますます確かな信仰に導かれていくのだということを、主イエスは信じる者に約束してくださっている。「信じます」という告白は、「神との交わり」「神の恵みを知ること」の始まりに過ぎない。私たちは、そこから神との交わりが深められ、ますます多くの恵みを知るように導かれていくのである。