2023.9.24 の週報掲載の説教

2023.9.24 の週報掲載の説教
<2023年7月16日説教から>

すべての人を憐れむために

ローマの信徒への手紙11章25節~36節

牧 師 鈴木 美津子

 
神の民イスラエルの歴史は、神が父祖アブラハムを召し出されたことから始まった。その長い歴史は、民が神に背き続け、罪を犯し続けた歴史でもある。そうであるにもかかわらず、神はイスラエルを愛し続け、御子イエス・キリストをこの地上に送って下さった。しかし、彼らはその御子をも受け入れず、民衆がキリストを救い主として迎え入れようとしている姿に、心を頑なにして妬みを起こし、ついには、キリストを十字架につけてしまった。では、この頑ななイスラエルの民はどうなるのか。イスラエルの民は、今度こそ神から見捨てられてしまうのだろうか。

パウロは、「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように(25a)」と異邦人に対して、自分たちだけが救われて、イスラエルの民を軽蔑したり、見下げたりすることのないようにと戒めた後、「次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。(25b)」と人間の考えをはるかに超えた壮大な「神の秘められた計画」を彼らに告げた。

イスラエルの民が心を頑なにして、キリストを信じなかったことによって、福音はまず異邦人へと伝えられた。しかし、神の計画は、それで終わるのではない。イスラエルの民が頑なであるのは、異邦人全体が救われる時までであり、異邦人全体が救われた時、全イスラエルが救われるというものなのだ。神は、ユダヤ人も異邦人もすべての人が救われることを願っておられるのだ。

29節に「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」とある通り、アブラハムをはじめ、先祖たちと契約を結ばれて、イスラエルを選民として立てられた神は、御自分が選ばれた民に対して、その愛を取り消されるようなお方ではないのである。神から、選ばれた民は、決してその愛から漏れることはないからである。

かつて不柔順であった異邦人を救って下さった神は、ユダヤ人をも決して見捨てられず、愛し続けておられる。神はすべての人を憐れんでおられ、すべての人が救われることを願っておられるのである。

この神の救いの計画は、あまりにも壮大で、有限である私たち人間の知恵や知識では、知り尽くすことは出来ない。だからこそ、この神の素晴らしい計画を覚えながら、心から主なる神を讃美し、この神の計画の一端を担う喜びを抱き、共に歩みを進めたいと思う。

2023.9.10 の週報掲載の説教

2023.9.10 の週報掲載の説教
<2023年7月9日の説教から>

 
『神の慈しみと厳しさを考えなさい』  牧 師 鈴木 美津子
ローマの信徒への手紙11章7節~24節

 
 
パウロは、ここではオリーブの木の接ぎ木にたとえて、異邦人とユダヤ人のことを語っている。オリーブの木は、旧約において神の民イスラエルを指す(エレミヤ11:16)。だから、オリーブの木に接ぎ木されるとは神の民とされることであり、そこから折り取られるとは、神の民ではなくなることを意味している。オリーブの木に接ぎ木された野生のオリーブの木はキリストを信じた異邦人を、オリーブの木から折り取られた枝は、キリストを信じないユダヤ人を指している。神を知らずに生きていた異邦人が神の民イスラエルの一員とされたのは、神によって、オリーブの木に接ぎ木されるという仕方によってであったのである。そのようにして、異邦人は根から豊かな養分を受けるようになり、神がアブラハムと結ばれた恵みの契約にもあずかるようになったのだ。

しかし、そのことによって一つの問題が生じた。接ぎ木された異邦人が、折り取られた枝であるユダヤ人に対して思い上がるようになってしまったのである。このような思い上がりは、異邦人の救いが神の計画の最終目的であるという誤解から生じた。確かに、ユダヤ人は不信仰のために折り取られた。しかし、同じことは、異邦人においても言える。接ぎ木されるのも、折り取られるのも、どちらも神がなされることであるからだ。そうであれば、接ぎ木された異邦人は自分たちに神の慈しみを、折り取られたユダヤ人に神の厳しさを見るべきではないか。その神の慈しみと厳しさを考えるならば、思い上がることなどできずに、むしろ神を恐れるべきではないか、とパウロは語る。

彼は、23節で、ユダヤ人も不信仰にとどまらないなら再び接ぎ木されると語っている。神の民ではない異邦人にキリストを信じる信仰を与えて、神の民とされた神は、神の民であるイスラエルにキリストを信じさせることができないはずはないからだ。それは異邦人を神の民とするよりもたやすいことなのだ。神のご計画は、ご自分の国、神の国の民として、イスラエル民族だけをお選びになったのではなく、この民族を通して、あらゆる民族の人々が救いの祝福にあずかるようにすることであった。そうだからこそ、キリストにつまずいてしまったイスラエルにも回復と救いの祝福にあずかる希望があるのである。

2023.9.3 の週報掲載の説教

<2023年7月2日の説教から>

『何とかして幾人かでも救いたいのです』
ローマの信徒への手紙11章11節~16節

 
牧 師 鈴木美津子

 
では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。(11a)」

イスラエルがキリストの福音につまずいたのは、彼らが神に捨てられて滅んでしまうためであったのか。それに対して絶対にそうではない、それは救いが異邦人に及ぶためであったのだ、とパウロは断言する。
そもそも福音を最初に聞いたのはイスラエルの民であった。しかし、彼らはその高慢と頑なさゆえにキリストにつまずき、福音を受け入れなかった。しかし、皮肉にもイスラエルがつまずいた事で、福音はどんどん異邦人の中に広がっていった。しかし、このことは事のなりゆき、偶然に起こったことではなく、あくまで神の救いの計画の内の事であったのだ。確かにイスラエルは頑なさゆえに福音を受け入れなかった。しかし神は、イスラエルのその欠けすらも用いて、ご自身の救いのみわざを成し遂げようとされたのである。
しかし、だからと言って神は一度選んだ神の民イスラエルを見捨てたりはしない。神の救いの計画はさらにさらに深いものであったからだ。なんと異邦人が先に救われたのは、それによってユダヤ人のねたみを引き起こさせて、救いへと導くためでもあったのだ。なにがなんでもイスラエルを救い出そうとする神の契約に対する誠実さ、そしてその中で異邦人をも救い出そうとする憐れみ。この神の救いのスケールの大きさを見た時、私たちはこれこそが神の驚くべき恵み(アメージングレイス)だと叫ばずにはいられないではないか。

この箇所で私たちが心に留め置くことは「救いの始まりはあくまでイスラエルからである」ということである。旧約聖書から新約聖書、イスラエルから教会へと、この神の救いの歴史の流れは途中で分断されたりはしていない。選びの民がイスラエルから異邦人に取って代わったわけでもない。イスラエルがなければ教会も存在することはなかったのである。そのことをパウロは次回、オリーブの木のたとえを用いて語るのである。

2023.9.3 の週報掲載の説教

2023.8.27 の週報掲載の説教

2023.8.27 の週報掲載の説教

<2023年6月25日の説教から>

『恵みによって選ばれた者』

ローマの信徒への手紙11章1節~10節

 
牧師 鈴木美津子

 
神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした(2a)」

列王記上の19章に記されているとおり、イスラエルの中からバアルにひざまずかなかった七千人を、神はご自分のために残しておられた。まことの神である主を退け、バアルに従っていったイスラエルであったが、そのような中にあっても、神は選びの民であるイスラエルになお七千人の人々を残しておられたのだ。
神は「残りの者」と呼ばれる者たちをとっておくことで、イスラエルを完全には退けることをなさらなかったのだ。しかも、パウロによれば、エリヤの時代に残された七千人は、バアルに膝をかがめなかった報酬として、残りの者とされたのではない。そうではなく、神が恵みによって七千人を残してくださったからこそ、彼らはバアルに膝をかがめなかったのである。パウロはこのことを受けて、「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っている(5)」と語る。エリヤの時代も恵みによって選ばれたからこそ、七千人がバアルに対してひざまずかずに残されたが、今の時代も同じように恵みによって残されたイスラエルが、神が遣わされた主イエスをキリストとして受け入れているというのである。
ユダヤ人キリスト者の数は、当時の全ユダヤ人に比べれば少数にすぎない。それは、エリヤの時代に残された七千人と同じくらい少ない人数に違いない。しかし、この少数の選びが、やがて終末の時には全イスラエルの救いの発端とされているのである。
このようにして、大多数のイスラエルが追い求めていた「神の義」は、返って彼らが異端としていたユダヤ人キリスト者によって獲得されたのである。それも律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって、神の義を得ることができたのである。そして、その反対に行いによって義を得ることのできなかった大多数のイスラエルは、ますます心を頑なに閉ざし、福音に耳を傾けなくなってしまった。なぜ、ますます頑なになってしまったのか。それはわからない。しかし、神はご自分の民とされた者たちを見捨てられることはない。今は、神が残りの者を恵みによって選ばれたことを通して、全イスラエルの救いの約束を実現しようとしておられるのだということを心に留めておきたいと思う。

2023.8.13 の週報掲載の説教

2023.8.13 の週報掲載の説教
<2023年6月18日の説教から>

良い知らせを伝える者
ローマの信徒への手紙10章14節~21節

牧 師 鈴木 美津子

信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。 聞いたことのない方をどうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。(14)」

「呼び求める」、「信じる」、「聞く」、「宣べ伝える」、「遣わされる」というこの順番は、救われる側からみればまったく逆のように感じるものである。なぜなら、人が信じて、信じる方を呼び求めるには、宣べ伝える人が遣わされ、宣べ伝えられ、「聞かなければ」ならないからである。

パウロは「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まる(17)」と語る。主イエスも宣教を開始する際に、ナザレの会堂でイザヤ書から引用して「主がわたしを遣わされたのは、囚われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みを告げるため」と語られた。主イエスは、「メシアはもうすでにこの世に遣わされている。この私の口から語られる言葉、この地上に生きる姿によって伝えられる神の救いの福音を、あなたがたは聞くことになっている。ここまでもうすでに父なる神に用意され、その約束が果たされている。これから後は、その福音を聞いた者が信じて、呼び求めさえすれば、神の救いのご計画はその人の上に実現する」と、言われている。イスラエルがこの福音を信じなかったのは聞かなかったからではない。従わなかったのだ。

問題は、「聞く」ということにある。「信仰」は神に遣わされた者の宣べ伝える「福音」を聞くことから始まる。しかし、ただ聞くだけでは、「信仰」は生まれない。福音を聞いて従うことによって「信仰」は生まれ、そして育まれる。福音を聞いて従って、神の御心、愛、真実がすべての源であることに気づかされるからである。従ったものに願いを起こさせ、祈りを起こさせるために宣べ伝える者を遣わすのは神である。私たちの不安と疑いを十二分にご存じの神は、私たちに繰り返し呼びかけ、練り清め、祈りを与え、信仰を与え、育み、導いてくださる。

キリストの教会は、御言葉に聞き続ける群れである。なぜなら、御言葉に聞くことが、教会の生命線であるからだ。キリストの言葉、聖書全体の言葉に生涯聞き続けること、従い続けることがキリスト教信仰であり、キリスト者である。御言葉以外に、私たちを救い、命と喜びを与えるものは他には何一つない。

2023.8.6 の週報掲載の説教

2023.8.6 の週報掲載の説教

<2023年6月11日の説教から>

『心で信じて、口で告白する』
ローマの信徒への手紙10章5-13節

牧 師 鈴木 美津子

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。(9)」

なぜ、心で信じるだけではだめなのか。口に出そうが出すまいが、信じていればよいではないのか。しかし、口に出さずに心だけで信じることを保っていけるほどに、私たちの心は確かではない。だから、信仰を告白するというとき、その告白した事実こそが私たちの信仰を守るのである。
ここで「公に言い表す」と訳されている言葉は、もともと「同じ」という言葉と、「言う」という言葉から成り立っている。すなわち、告白するとは、「同じことを言う」ことだということ。告白とは、順境であれ、逆境であれ、どのような状況、どんな境遇にあっても、その生涯、一つの同じこと「イエスは主である」ということを、言い続けていくことである。そのことが、私たちの揺れ動く人生を、そして価値観をつらぬき導く一筋のまっすぐな道となっていくのだ。
また、「同じことを言う」、というのは、主イエスにあって結び付けられた者たち、すなわち教会の兄弟姉妹たちと同じ信仰を語り合い、分かち合う、ということでもある。キリストの体なる教会に連なる者として、同じ信仰の告白を通して、結びついていく、ということである。一人一人は、それぞれに生きてきた環境、置かれている立場は様々である。しかし、「イエスは主である」という告白において、一つ、その拠り所とする人生の土台において、一つである。そして、信仰の歩みも、皆で一つとなって、共に祈り合い、支え合って歩んで行く。ですから、キリスト者のこの地上の旅路、御国への旅路は、決して孤独な歩みなどではない。主と共に、また愛する人々と共にあるからだ。
イエス・キリストの救いは、人種や民族や国籍の壁を越えて、イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人に与えられる。神は、主イエス・キリストの名を呼び求めるすべての人を豊かに恵み、救ってくださる。ですから、私たちは主イエス・キリストの名を呼び求める礼拝において、また「イエスは主である」と告白する礼拝において、主の恵みと救いを豊かにいただくことができるのである。