2024.9.15 の週報掲載の説教

2024.9.15 の週報掲載の説教

<2024年7月28日の説教から>

    『今もなお働かれる神、今もなお働かれる主イエス』

ヨハネによる福音書5章10節~18節

牧師 鈴木 美津子

病気のために、38 年もの間ベトザタの池のほとりで横たわってきた人がいた。主イエスは、その人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。(8)」と癒された。この癒しの出来事はユダヤ人たちにとって大問題であった。というのも、主イエスがその人を癒されたのが「安息日」だったからである。安息日は律法で「安息日を聖なるものとし、一切の仕事をしてはならない」と命じられていたからである。この戒めを大切にするユダヤの律法学者たちは「十戒で禁じられている仕事」を39の行為にまとめていた。たとえば「種を蒔く、刈り入れをする、脱穀をする、粉にする、パンを焼く、火をつける」などの行為は仕事にあたるので安息日にしてはならない。「歩く」ことは礼拝に行くためなら良いが、それ以外の目的は一日約100メートルまで、緊急に命を救う医療行為は良いが、それ以外はしてはならない、などと「安息日厳守」は、現代の私たちが想像する以上に徹底していたのである。

律法学者たちは、「いかなる仕事もしてはならない」という禁止条項にのみ心を向けて、次々に「禁止の解釈」を事細かく決めていた。それに対して主イエスは、「安息日」を神の養いの恵みに感謝し、神の救いに信頼して賛美をささげる日であるとして、神が定めた安息日本来の姿を大切にされていたのである。

主イエスは「わたしの父は今なお働いている。だから、わたしも働くのだ」と言われる。神は創造の御業においては休まれたと言うことができる。けれども、それを保ち、回復する御業においては、休みなく働き続けておられる。それゆえ、「わたしも働くのだ」と主イエスは言われるのである。それゆえ、主イエスは安息日に38年の間病に苦しんだ人を癒したのだ。罪と死が力を振るうこの世界にあって、主イエスは父なる神と共に、今もなお御言葉と聖霊において働き続けておられる。主の日の礼拝において、私たちを罪から解き放ち、御言葉の糧をもって養い続けてくださる。私たちに真の安息、永遠の安息を与えようと、今もなお、日々休むことなく、父なる神と共に主イエスは働いておられるのである。

2024.9.8 の週報掲載の説教

2024.9.8 の週報掲載の説教

<2024年7月21日の説教から>

      『起き上がりなさい、床を担いで歩きなさい』
ヨハネによる福音書5章1節~9節

牧師 鈴木 美津子

主イエスは、ユダヤの祭りの日に、エルサレムに再び上られ、ベトザタという名前の池に行かれた。この池には、38年間病気で苦しんでいる人が横たわっていた。主イエスは、その人の今までの苦しみや悲しみややるせなさ、長い長い苦しみの歴史の全部を知り、理解して下さり、その人に「良くなりたいか」と言われた。

主イエスは、人々から見捨てられてしまったと思えるようなこの人に、目を注いで下さった。そして、この人の苦しみの歴史の全部を知って下さった。その上で主イエスは、本当に驚くべき仕方で癒しの御業をなさった。願うことが出来ない人、希望がもてない人、信仰があるとは到底言えないようなこの人に向かって主イエスは、「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい!」とお命じになったのである。こうして主イエスは、自分が救われることなど考えてもみなかったこの人に向かって、突然、救いを差し出して下さった。この人は、ほんの少し、「起きあがろう!」と思うだけでよかったのだ。それだけで彼は良くなり、床を担いで歩きだした。

私たちは、主イエスの救いの恵みの中に、このような側面があることをよく知っているのではないか。主イエスの十字架のことである。私たちが罪の赦しを願い、信じたので、主イエスが十字架について下さったわけではない。私たちが全く願わなかった時に、即ち自分の罪が赦されるという可能性さえ知らなかった時に、あるいは自分に永遠の命が与えられることすら知らなかった時に、既に主イエスは十字架について下さったのだ。そして、この救いを全てご自分で備えてくださった上で、突然、「起きあがりなさい!新しく生きるように!」と私たちに差し出して下さった。ただ私たちは、ほんの少し足に力を入れるだけで良いのだ。救われたいと願い、信じるだけで良いのである。ただ、それだけで私たちは、主イエスが準備して下さったこの救いの全てにあずかることが出来る。深い深い神の愛の中、自分の罪が全て赦されている平安を味わいながら、永遠の命に生きる希望を携えて、約束の地へと歩むことが出来るのである。

2024.9.1 の週報掲載の説教

2024.9.1 の週報掲載の説教

<2024年7月14日の説教から>

『主イエスの言葉を信じる』
ヨハネによる福音書4章43節~54節

牧師 鈴木 美津子

ガリラヤのカナにカファルナウムの町から、一人の王の役人がわざわざ主イエスを訪れた。カファルナウムからカナまでは直線でおよそ30キロ。彼はその道のりを越えて、主イエスに会いにやってきた。彼の息子が、死にかけるほどの病気であったからだ。

彼は、主イエスにカファルナウムまで下って来て、息子をいやして欲しいと訴えた。しかし、主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない(48)」と、冷たい反応をされた。しかし彼はあきらめない。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください(49)」と、しつこく食い下がる。そこで主イエスのほうが、彼の熱意に負けたのか、あるいは彼の中に、何かしら、他のユダヤ人とは違う信仰のかけらを見て取られたか、「帰りなさい。あなたの息子は生きる(50)」という言葉をかけられた。しかし、この言葉は、この王の役人を戸惑わせたことであろう。彼が願ったことは、主イエスを連れ帰って、いやしていただくことであったからだ。そのことは拒否されたが、主イエスは「あなたの息子は生きる」と宣言をされた。つまり主イエスは、彼がこの時、主イエスの救いの宣言だけを聞いて、その言葉を信じるかどうかを問われたのである。彼はこの時「見ないで信じる信仰」へと促されたのだ。そして彼は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。
彼は、帰る途中で、息子の病気がよくなったことを知らされた。そしてその時刻を尋ねると、主イエスが「あなたの息子は生きる」と宣言されたのと同じ時刻であった。

大事なことは、彼はしるしを見て信じたのではなく、見ないまま、言葉を聞いて信じた、その結果として、「息子が生きる」というしるしを与えられたということである。確かに、しるしは信仰をもってみて、しるしとしての意味を持つ。信仰をもってでなければ、しるしをしるしとして見抜くことすらできないからだ。この王の役人は見ないで信じた結果、それをしるしとして見ることができた。

主イエスこそが、私たちを本当に生かすことのできる、命の主である。そして、私たちにも、「あなたは生きる」と言ってくださる。根本的に人間をたちあがらせ、頑張る力を内側から与えるのは「あなたは生きる」という主イエスの言葉だけである。十字架の死から復活された主イエスの命の言葉だけが私たちを真に生かすことができるのである。

2024.8.25 の週報掲載の説教

2024.8.25 の週報掲載の説教

<2024年7月7日の説教から>

  『自分で聞いて信じた』
ヨハネによる福音書4章27-42節

牧師 鈴木 美津子

 
この箇所は、伝道ということについて、さまざまなことを示唆してくれる箇所。ヨハネ福音書に基づいて言えば、サマリア伝道の始まりは主イエスと一人の女性との小さな対話からである。このように伝道は一対一の対話というのが基本である。次に伝道というのは、まず伝えられた人自身がつくり変えられることから始まる。サマリアの女性はもともと、この井戸に水くみにやってきた。ところが、彼女は、その本来の仕事を忘れ、水がめを置いて町に行ってしまった。イエス様との出会いそして対話は大切な水がめを置き忘れさせるほどに、彼女を驚愕させたのだ。この驚きは恐怖ではない。彼女の心が喜びで弾んでいるのだ。このことを誰かに伝えたい。誰かに伝えずにはいられない。彼女はもともと人目を避けて生きてきた。人目を避けて真っ昼間に水を汲みに来ていた。ところが今や、そんなことさえ、どうでもよくなってしまったのだ。主イエスとの出会いが、それほどまでに彼女を変え、恥ずかしさをも克服させた。自分から人の中へ飛び込んでいった。彼女に人との隔ての壁をうち破らせたのである。
福音を伝える人が「喜びで心が弾んでいる」というのは、とても大事なことである。伝えられたことに魅力があるかどうかということだからである。あの人が、あんなに喜びに満ちているのは、いったい何なのだろう。何があの人の表情をあんなに明るくさせたのだろう。何があの人を変えたのだろう。それを知りたい。そのようになりたい。そういうことがなければ、人は関心をもたない。この時のサマリアの人たちも、それまでこそこそと人目を避けていた彼女とはまるで別人のような、明るい表情、はじけるような喜びに満ちた女性が目の前に現れたのを見て、そのような気持ちをもったのだ。だからこそ、「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た」のである。彼女は、「さあ、見に来てください」と主イエスを指し示し、人々を主イエスに出会わせようとした。これも大切なことである。伝道において最終的に大事なことは、「私がこのように変えられた。私はこのように生かされている」ということではない。「私を変えたのはこのお方、私を生かしているのはこのお方である」と、主イエスを指し示すことである。

2024.8.11 の週報掲載の説教

2024.8.11 の週報掲載の説教

<2024年6月23日の説教から>

霊と真理をもって行う礼拝
ヨハネによる福音書4章16節~26節

牧師 鈴木美津子

 
「霊と真理からなる礼拝」の「霊」は神の霊、聖霊を意味する。では「真理」とは何か。これについては大きく2つの解釈がある。一つは、「神の言葉」を指している。ヨハネ17章17節に「あなたの御言葉は真理です」とある。そして、もう一つは、「イエス・キリスト」御自身であるという解釈である。ヨハネ1章17節に「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」とある。しかし、この二つの解釈は同じであるとも言える。なぜなら、イエス・キリストは神の言葉を話されるお方だからである。「霊と真理からなる礼拝」の「霊」が神の霊であり、「真理」が神の言葉であると聞くとき、私たちはここに、主イエスが与える「生きた水」が、神の霊と神の言葉を意味していたことを思い起こさずにはいられない。私たちは、主イエスから、生きた水である神の霊と神の言葉をいただいて、霊と真理をもって神を父として礼拝する者とされている。神が私たちを聖霊によって新しく生んでくださり、神の子としてくださった。それゆえ、私たちは神を「アッバ、父よ」と呼び、親しく礼拝することができるのである。そして、それはひとえに神の御意志によることである。神が霊と真理をもって礼拝する者たちを求めておられる。私たちに先立って神の方が求めておられる。それゆえ神は、愛する御子をこの地上にお遣わしになり、十字架の上で永遠の贖いを成し遂げてくださったのである。神の礼拝への熱心が、霊と真理からなるまことの礼拝を実現してくださったのである。「霊と真理からなる礼拝」。それは一言で言えば「聖霊においてイエス・キリストを通してささげられる礼拝」のこと。「聖霊においてイエス・キリストを通してささげられる礼拝」、それが「霊と真理からなる礼拝」である。それゆえエルサレムへ行く必要はない。主イエスの名によって集まる私たちを、神の方から訪れてくださるからである。聖霊と御言葉によって、神が私たちをまことの礼拝者へと造り変えてくださる。

 
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である(23)」。主イエスのこの言葉は、今私たちのうえに実現している。

2024.8.4 の週報掲載の説教

2024.8.4 の週報掲載の説教

<2024年6月16日の説教から>

「永遠の命に至る水」

ヨハネによる福音書4章1節~15節

牧師 鈴木美津子

主イエスがサマリアの町を通られたのは、そこに必然的な理由があった。ただ、その理由が何であったかは記されていない。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないことになっていたので、わざわざそのようなところを通って、ユダヤからガリラヤに向かう必然性は普通には考えられない。けれども、ユダヤ人たちから見れば呪われたようなサマリアに、主イエスはわざわざ立ち寄られたのである。

サマリアの地に罪に悩む一人の女性がいた。その女性を主イエスは、シカルの「ヤコブの井戸」のほとりで待っておられた。そして、彼女に水を求めた。しかし、主イエスがこの女性に水を求めたのは、話のきっかけを得るため、井戸の水をきっかけに、永遠の命に至る水のことを語るためである。しかも、ユダヤ人からすれば救いとはおよそ無関係と思われるサマリア人の、しかも、罪深いと噂される女性を相手に語ったのである。

主イエスにとって、永遠の命に至る水を必要としているのは、ユダヤ人ばかりではない。罪の中にいるすべての人がそうであるからだ。私たちの心が決して渇くことがなくなる道は、わたしたちの心の中心に主イエスをお迎えすることである。主イエスは、私たちの罪の赦しのための神の贈り物。私たちの、いいようのない不安、恐れ、空しさの源である私たちの罪を解決し、覆って下さるお方である。このお方は、神の子であるにもかかわらず、私たちの代わりに、十字架にかかり、神の裁きを受け、私たちが味わう全ての暗黒と苦悩をすべて引き受けて下さった。そのお方が「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(14)」と、言われる。このことは真実である。主イエスが下さる特別の水、救いの水、命の水を受けるならば、その人の内からも永遠の命に至る水が湧き出る。その水は、人の目には見ることはできない。しかし、主イエスを受け入れた人からは、必ず流れ出るのである。主イエスは、わたしたちに決して渇くことのない命の水を与えてくださる。ここで主イエスが語られたのは礼拝のことである。霊と真理をもって捧げる礼拝、その中心に生きた水である主イエスご自身がおられると言われたのである。

今や、ユダヤとサマリアの壁を超えて、一人のサマリアの女性は、主イエスに生きた水をくださいと願う者とされた。主イエスが出会ってくださったからである。