2024.5.26 の週報掲載の説教

2024.5.26 の週報掲載の説教
<2024年4月7日説教>

『来て、見なさい』

ヨハネによる福音書1章43~51節

牧 師 鈴木美津子

 
いつの時代にあっても、主イエスを人々に証しする時には、実に冷ややかな反応に出遭うことが多い。なぜなら、キリスト教に対する「誤解」や「先入観」などで、なかなか人々にキリストの福音の素晴らしさを知ってもらえないのである。この時のフィリポもそうであった。この時フィリポは、ナタナエルに「来て、見なさい(46)」と言った。どんなに素晴らしい証しの言葉をもって主イエスについて語ったとしても、受け入れてもらうことは難しい。だから、フィリポは真の主イエスを知ってもらうためには、ナタナエルを主イエスのもとに連れていけば良いと考えたのである。今の時代であれば、「教会に来て、見てください」とお誘いすることである。教会は「礼拝」をする場所であり、そこで人々は神を喜んで賛美し、神の言葉に真剣に耳を傾ける。そのような「礼拝」の中に、主イエスは臨在しておられる。

フィリポに促され、主イエスのもとにやってきたナタナエルの心の中を、既に主イエスは知っておられた。ナタナエルは「この方に知られている」「この方に捉えられている」ということに気づき驚いた。そして「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」という告白に導かれた。人が「イエスはメシアである」と信じ従うようになるのは、主イエスが、まずその人を見出し、声をかけてくださることによる。私たちは「自分で選び、自分で決めて教会に足を踏み入れた」と思っているかも知れない。しかし、まず神が自分を知り、見出して導いてくださったのである。私たちは、その真実を、後になって知ることになる。なぜなら、生けるキリスト、生ける聖霊の働きは私たちにとって「後で分かる」ようなものだからである。

ナタナエルの信仰告白を聞き、主イエスは「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる(50)」と言われた。「イエスはメシアである」と信じる告白は、信仰の出発点であり、そこからますます確かな信仰に導かれていくのだということを、主イエスは信じる者に約束してくださっている。「信じます」という告白は、「神との交わり」「神の恵みを知ること」の始まりに過ぎない。私たちは、そこから神との交わりが深められ、ますます多くの恵みを知るように導かれていくのである。

2024.5.12 の週報掲載の説教

2024.5.12 の週報掲載の説教
<2024年3月17日説教から>

『来なさい。そうすれば分かる』
ヨハネによる福音書1章35節~42節

牧 師 鈴木美津子

 
洗礼者ヨハネの証言を聞いて、イエス様に従って行ったのは、ヨハネの二人の弟子であった。一人はペトロの兄弟アンデレ、もう一人の名前は具体的には記されていない。

彼らが従って来るのを見て、イエス様は振り返り、「何を求めているのか」と声をかけられた。この「何を求めているのか」という問いかけが、この福音書が記すイエス様の発せられた最初の言葉である。「何を求めているのか」というイエス様の問いに対して、「ラビ、どこに泊っておられるのですか」と、アンドレともう一人の弟子は、イエス様が宿泊している場所がどこなのか、その答えを求める。この「どこに泊っているか」という質問は、「あなたが何を教えてくださるのか、あなたの教えを求めている。一緒に過ごしたい。」という意味がある。また同時この言葉には、「あなたは何者なのか。あなたはどこから来てどこへ行く人なのか、そして今はどこで過ごしているのか」という意味もある。そのようなことでは、ここでは「泊る」という言葉が単に宿泊のことではなく、実は、イエス様の内に信仰的に「留まる、繋がる」ということを表しているとも言えるのである。なぜなら、この「泊る」と訳されている言葉は、この福音書の中では、後に、イエス様の愛のうちに「とどまる」という、この福音書にとって重要な用語として登場するからである。

イエス様は、弟子たちの問いに答えて、「来なさい。そうすれば分かる」と答えられた。「よろしい、私に従って来なさい、教えてあげよう」、と言われたのである。イエス様のもとに行き、イエス様のもとに留まる、そうすればあなたの求めているものがなんであれ、それは必ず得られる、必ず分かると言うことである。この言葉から二人は入門を許された、と考えることが出来る。

さて、洗礼者ヨハネの証しは、自分の弟子たちの中から二人をイエス様へと結びつける事になった。しかし、この話はこれで終わらないのである。ヨハネの証言を聞いてイエス様に従い、イエス様のもとに留まった弟子のひとりであるアンデレは、今度は、自分の兄弟にイエス様を証しすることになるのである。

2024.5.5 の週報掲載の説教

2024.5.5 の週報掲載の説教
<2024年3月10日説教から>

『神の子羊』
ヨハネによる福音書1章29-34節

牧 師 鈴木美津子

 
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て
言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(29)」

洗礼者ヨハネは、自分が水で洗礼を授けて来た理由を、「この方がイスラエルに現れるために」と述べる。洗礼者ヨハネは、自分を遣わした神の「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」との御言葉を頼りとしながら、ヨルダン川において水で洗礼を授けてきた。洗礼者ヨハネにとって、水で洗礼を授けることは、聖霊によって洗礼を授けるお方、すなわちメシアを見出すための手段であった。ですから、洗礼者ヨハネが、霊が鳩のように天から降って、主イエスのうえにとどまるのを見たとき、本当にうれしかったのだ。ルカによる福音書の2章に、老人シメオンの話しが記されているが、そのシメオンと同じような喜びに洗礼者ヨハネは包まれたのである。それは、自分の使命を果たし終えた喜び、満足感を伴う喜びである。洗礼者ヨハネは、来るべき救い主が現れるために、水で洗礼を授け、その方を見出し、この方こそ聖霊で洗礼を授けるお方であると証しすることができたのである。聖霊、神の霊が与えられるということ。これは、旧約において預言されていた終末の救いの出来事である。そして、この聖霊を与えられることによってこそ、私たちの罪は取り除かれる。私たちの心に、神の霊、聖霊が溢れるほどに注がれてこそ、私たちは世の罪から解き放たれる。それゆえに、世の罪を取り除く神の小羊こそが、私たちに聖霊を注いでくださるお方なのである。そして、事実イエス・キリストは、十字架の死から三日目によみがえられたのち後に、弟子たちに聖霊を注いでくださった。そして、そのようなお方であるがゆえに、イエス・キリストは神の子なのである。

洗礼者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」、と救い主を指し示した。それゆえに、わたしたちもまた、救い主を指さし「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」、と呼びかけるのである。

2024.4.28 の週報掲載の説教

2024.4.28 の週報掲載の説教
<2024年3月3日説教から>

『荒れ野で叫ぶ声がする』
        ヨハネによる福音書1章19節~28節

牧師  鈴木 美津子

 
わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。(23b)」

当時のエルサレムの堕落は深刻であった。当時のユダヤ社会の権力者たちが、「主の道を」歪めていたからである。彼らの堕落した姿によって、イザヤの預言がむなしく響くような信仰がエルサレムに蔓延していたのだ。そのような彼らに対して、洗礼者ヨハネは、「荒れ野で叫ぶ声」となったのである。つまり、洗礼者ヨハネの声は、堕落したエルサレムをもう一度荒れ野に引き戻す声なのだ。もう一度バビロン捕囚からやり直して、『主の道をまっすぐにせよ』、と洗礼者ヨハネは荒れ野から悔い改めを大声で叫んだ。

しかし、『主の道をまっすぐにせよ』というこの言葉は、当時のユダ人たちだけに向けられた言葉ではない。この私たちに対しても叫ばれている。叫ばれ続けている。なぜなら、私たちもまた御言葉に背き、或いは自らの都合を御言葉に優先させるような者だからだ。いつの間にか、主の道を歪めているのが私たちなのだ。

さて、「荒れ野で叫ぶ声」である洗礼者ヨハネは、居心地の良い場所で自分だけの平安、安寧を楽しむような信仰生活を送らなかった。彼はヨルダン川のほとりの荒れ野に住んで、ひたすらに救い主に仕え、また救い主を宣べ伝える声、また救い主を指し示す者となった。やがて、ここからキリストの教会の歴史が始まるのである。

この浦和教会は来年教会建設90周年を迎えようとしている。その最初は、ヨハネのようにまさしく荒れ野で叫ぶ声、主イエス・キリストを指し示す者の姿であったのではないか。いま、その歴史の中を歩むわたしたちも、洗礼者ヨハネと同じように主イエス・キリストを証しする声になりたい。そうなることが出来る、そのように確信する。なぜなら、主に招かれ、悔い改めてキリストに立ち帰ったからには、この私たちが、「荒れ野で叫ぶ声」、とされなければならないからである。「荒れ野で叫ぶ声」、それは福音宣教の叫びである。

2024.4.14 の週報掲載の説教

2024.4.14 の週報掲載の説教
<2024年2月25日説教>

『独り子である神』
ヨハネによる福音書1章14節~18節

牧師 鈴木 美津子

 
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(14)」

この箇所は、ヨハネによる福音書におけるクリスマス出来事の記述である。ただし、ここには、他の福音書と違って、天使も羊飼いも登場しない。なぜなら、この福音書は、主イエスがどこで、どのようにお生まれになったのかということではなく、クリスマスの出来事とは一体何であったのか、主イエスの誕生とは一体何なのか、どういう意味を持った出来事なのかということを語っているからである。

言が肉体をもった」、これこそがクリスマスの重要な出来事なのだと告げる。「言」とはもちろん、天地を神様と共に造り、初めから神と共におられた、そして神であるイエス・キリストのことである。この「言」が肉体をもち、人間となられた。この出来事が真にクリスマスの出来事である。言は肉をとって人になった。しかし言は神であることをやめたのではない。神でありながら、人となったのだ。人となったということは、時間や空間というものに制限された存在になったということ、弱さをもった存在になったということである。永遠の神であり、栄光に満ちた聖なるお方イエス・キリスト。そのお方が、おとめマリアを母として、弱い小さなひとりの男の子として、この世に誕生した、この不思議、それがクリスマスである。
このクリスマスの出来事を「肉を受ける」と書いて、「受肉」と言う。この「受肉の出来事」、これは「秘儀」というべき出来事であり、私たち人間には説明することができない。「受肉」という出来事は秘儀であり、説明しようがないからである。しかし、この「秘儀」の上に私たちの救いがかかっていることも事実である。もしイエス・キリストが真の神様でなければ、私たち人間の罪を全て担うなどということは出来ない。もし、イエス・キリストが真の人間でなければ、十字架の死によって、私たち人間の身代わりになることは出来ない。この「受肉」という秘儀が、主イエスの十字架による私たちの救いの根拠である。これは、私たちの「救い」ため、私たちを罪から解き放つための出来事である。そして、そのことを伝えるために、ヨハネ福音書は記されたのである。

2024.4.7 の週報掲載の説教

2024.4.7 の週報掲載の説教
<2024年2月18日説教>

『証し人ヨハネ』
ヨハネによる福音書1章6節~13節

牧師 鈴木 美津子

 
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。(6-7)」

ここに登場する「ヨハネ」は、主イエスより先に生まれ、主イエス様に先だってヨルダン川に忽然と姿を現わした洗礼者ヨハネのことである。そして、彼は主イエスに洗礼を授けた預言者である。この当時、洗礼者ヨハネは、悔い改めを求める説教をし、ヨルダン川で洗礼を授け、多くの人々から支持され、大変な影響力を持っていた。「洗礼者ヨハネこそが旧約の預言者によって預言されてきた救い主、メシアではないか」、そのように思っていた人も少なくなかったのだ。

しかし聖書は、洗礼者ヨハネは主イエス・キリストについて証しするために来たのだと告げている。神に選ばれ、遣わされた人であるので、洗礼者ヨハネもまた偉大な預言者であるに違いない。しかし、彼は、あくまで主イエスを指し示す人であり、主イエス抜きにして偉大な人ということではない。8節に「彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」とある。つまり、洗礼者ヨハネは光ではない。光は主イエス・キリストである。彼が光について、つまり主イエス・キリストについて証しをするというのは、「主イエスが誰であるか、どんな方であるのか、そのことを告げる」ということ。そして、この証しの目的は、つまり洗礼者ヨハネの目的は、彼の証しを聞く人が「主イエス・キリストを信じるようになる」ということである。預言者として彼の使命は、正確に主イエス・キリストを指し示すということなのである。
この洗礼者ヨハネの役割を現代において担っているのが、教会であり、私たちキリスト者である。教会に来れば主イエスが分かる、キリスト者に出会えば主イエスが分かる、そのような使命を与えられた者として私たちは、ここに、この浦和教会に立てられているのである。