2025.8.10 週報掲載の説教

2025.8.10 週報掲載の説教

<2025年7月6日の説教から>

涙を流されるイエス様

ヨハネによる福音書11章28節〜37節

鈴木 美津子

 
「イエスは涙を流された(35)」。この有名な一節には、主イエスの深い心の動きが表れています。ここで使われている「涙を流された」という言葉は、マリアやユダヤ人たちのように声をあげて泣くのではなく、静かに涙があふれ出ることを意味している。主イエスは、愛する者の死によって嘆き悲しみに沈む人々の姿を見て、心を痛め、深く悲しみ、涙されたのである。

主イエスは、死という神の命とは正反対の力に、人間が支配されている現実を見つめ、その痛みと苦しみを、まるでご自身のことのように受け止められた。ヨハネ福音書は、主イエスを「私たちの悲しみを共に背負うお方」として描いているのである。そして、愛が破れるところにこそ、神の愛はより深く注がれるのだと語っている。

主イエスは、ラザロの復活を通して、「もし信じるなら、神の栄光を見る」と語られた。確かにラザロはこのとき生き返ったが、再び死ぬ日が来る。主イエスがこの出来事によって真に新しく生かそうとされていたのは、マルタとマリア、そして私たち自身である。ラザロの復活の出来事が示しているのは、死や病のただ中にあっても、神との交わりが絶たれることはないということである。神が与えてくださる命は、永遠に続くからである。

使徒パウロは「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。(コリント一15:42-43)」と語っている。この復活の命の約束は、将来の希望であると同時に、「今を生きる」私たちに向けられた恵みでもある。「あなたはそれを信じるか?」主イエスは、私たちの嘆きや悲しみに共に涙を流しながら、命への信仰へと私たちを招いておられるのである。

2025.8.3 週報掲載の説教

2025.8.3 週報掲載の説教

<2025年6月22日の説教から>

『復活であり、命であるイエス様』

ヨハネによる福音書11章17節〜27節

牧師 鈴木美津子

 
マルタは、兄弟ラザロの死に際して、「あなたが神にお願いすることは何でも神はかなえてくださる」と語っているが、心の深いところでは、その言葉を本気で信じているわけではなかった。頭では理解していても、ラザロがすぐに生き返ることなど考えてもいなかったのである。これは私たち自身にも通じる姿である。「神には何でもできる」と口では言えても、本心から信じきれていないことがあるのではないか。

主イエスが「あなたの兄弟は復活する」と語られた時も、マルタは「終わりの日に復活することは存じている」と、当時のファリサイ派の教えに基づいた、形式的な応答をする。しかし、主イエスはマルタの言葉を否定することなく、「わたしは復活であり、命である」と力強く宣言された。この「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という言葉は、聖書の中でも特に深い意味を持つ言葉のひとつである。主イエスにつながる者にとって、肉体の死は終わりではなく、命の継続であることが明らかにされているからである。人間の命は肉体の死によって突然断ち切られるように見えるが、主イエスにつながる者は、その死を超えて生きる希望を与えられる。主にある死は、完全な別れではなく、つながりの中にある。ラザロの復活の出来事は、そのことを一つの具体例として証ししている。

主イエスはマルタに「このことを信じるか」と問われた。

マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えた。その信仰がどれほど確かなものだったかは分からないが、それでもマルタは信仰告白を口にしたのだ。

私たちもまた、信仰が揺れ動く中で「はい、主よ、信じます」と応える者である。救いは、私たちの強さや確かさにかかっているのではなく、主イエスが「命の主」であるという確かな土台の上にある。だからこそ私たちは、今もこの方に信仰を告白し、希望を持って新しい一歩を踏み出すことができるのである。

2025.7.20 週報掲載の説教

2025.7.20 週報掲載の説教

<2025年6月15日の説教から

この病気は死で終わらない。神の栄光のためである

ヨハネによる福音書11章1節〜16節

鈴木 美津子

 
ヨハネ福音書11 章に記される主イエスの愛するラザロの死と復活の物語は、主イエスが愛する者の苦しみや死にどう向き合われるかを示す、深い慰めと希望に満ちた福音である。

主イエスはラザロの病を知りながら、すぐには動かず、二日間その場に留まられた。ラザロの姉妹であるマルタとマリアの願いにもかかわらず、主イエスがすぐには応答されなかった姿に、私たちは「神の沈黙」のような痛みを覚える。

しかし、詩編139編は、「夜が私を囲んでも、闇もあなたにとっては闇とはならず、夜も昼のように輝きます」と語っている。見えない時も、神は働いておられる。主イエスが留まったのは、もっと深く大きな愛のご計画があったからである。

主イエスは、「この病気は死で終わらない。神の栄光が現れるためである」と語る。二日間留まったというのは、ラザロが死んだということがはっきりするまで待たれたということである。瀕死の状態であっても、生きているうちならば、まだ治る可能性もあるだろう。しかしはっきりと、主イエスのおかげで生き返ったのだということが分かるために、時を引き延ばされたのだ。「この病気は死で終るものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるためである」というのは、そういうことである。すべての人間の可能性が閉じるところで、神の可能性が始まるのである。

弟子たちは主イエスの言葉を理解できず、エルサレムへの道を「危険なもの」と見て恐れた。しかし主イエスは、ご自分の死と復活を見据えつつ、「神の子が栄光を受けるため」に歩まれる。ラザロの復活は、主イエスご自身の十字架と復活へとつながるしるしであり、私たちが主イエスの復活を信じる信仰へと導く出来事でもあるのだ。

私たちには「死で終わらない」神のご計画に信頼し、希望をもって歩むことが求められる。神の栄光が、私たちの歩みにも豊かに現れるために。

2025.7.13 週報掲載の説教

2025.7.13 週報掲載の説教

<2025年6月1日の説教から

『わたしを信じなくても、その業を信じなさい』
ヨハネによる福音書10章22節〜42節

鈴木 美津子

 
主イエスがご自分を神の子・救い主として語り、神の業を示すたびに、人々は「信じる者」と「信じない者」に分かれた。ヨハネ福音書は、その対立が主イエスを十字架へと向かわせたと語る。主イエスの語った言葉や癒しの業は、人々を信仰へと導くものである一方、ユダヤ人指導者たちには神への冒瀆と受け取られ、殺意を抱かせるものであったのだ。主イエスはまさに、神の子・キリストであるがゆえに、拒絶され、殺されたのだ。

なぜ主イエスを信じる者と信じない者がいるのか、その答えは私たちには分からない。主イエスの羊か否か、それは神の選びによるのだと福音書は語る。そして、選ばれた者には、神の御心に従って歩むことが求められるのだ、と。

主イエスとユダヤ人たちとのやり取りは「神殿奉献記念祭」の最中に行われた。偶像礼拝から信仰を守ったユダ・マカバイの記憶が強く意識される中、人々は主イエスに「メシアならはっきりそう言いなさい」と詰め寄った。主イエスは「わたしは父と一つである」と答え、人々は冒瀆の罪で石を取る。彼らのメシア理解は、イスラエル民族をローマから解放する政治的救い主である。しかし主イエスが示された救い主の姿は、病人や罪人を癒し、愛をもって仕える方であった。

主イエスは「わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と語る。つまり、自分たちの期待するメシア像ではなく、主イエスが実際に行ってきた業に目を向け、それによって主イエスが何者かを知れと語っているのである。主イエスの業、十字架の死にまで至る愛は、まさに神の御業である。

私たちは、主イエスの羊としてその御声に耳を傾け、従う者とされた。そのことは、私たちの歩みと結ぶ実によって明らかになる。キリスト者とは名ばかりではなく、キリスト者としての実を結ぶことが求められる。だからこそ、私たちは聖霊の助けを祈り求めながら、日々、主イエスの御声を聞き取り、御声に従い、その愛に生きる者として歩んでいくのである。

2025.7.6 週報掲載の説教

2025.7.6 週報掲載の説教

<2025年5月18日の説教から

『一つの群れになる』

ヨハネによる福音書10章16節〜30節

牧師  鈴木美津子

わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。(16)」

「この囲いに入っていないほかの羊」とは、ユダヤ人以外の、いわゆる異邦人である主イエスの民を指している。すなわち、ユダヤ人ではなくて主イエスを信じている私たちこそ、「この囲いに入っていない他の羊たち」である。主イエスは「その羊をも導かねばならない」と言われる。「〜せねばならない」と訳されている言葉は、神のご計画に基づく必然を強調する言葉で「導くことになっている」というような意味である。さらに、主イエスは「その羊もわたしの声を聞き分ける」と言われる。つまり、今は教会の外にいて、主イエスと無関係に生活を続けている者も、主イエスの羊である以上、必ず主イエスの言葉を聞き分け、信仰が与えられ、教会へと導かれることになっている、これがここで示されている真理である。その上で主イエスは、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」、と結論づけられる。この文は、原文をそのまま訳すと、「彼らは一つの羊となる、一人の羊飼いによって」となる。多くの羊が一つの羊になる、そして、それを導く一人の羊飼いがおられる、これが教会の真の姿である。羊は目が悪く、方向音痴で、飼い主がいなければ生きていけない弱い生き物である。それは、まるで、私たちのようではないか。しかし、私たちのために命を捨てた十字架の主イエスがここにおられる。その主イエスは、天の父とご自身の間にある永遠の愛の交わりと同じ交わりに与る者として私たちを囲いの中に加えてくださった。主イエスの羊は主イエスのものであり、父なる神様のものである。この一週も主イエスの御声を聞き、促しを受け、迷わずに天の御国を目指すのである。

2025.6.29 週報掲載の説教

2025.6.29 週報掲載の説教

<2025年5月11日の説教から

『良い羊飼い』

ヨハネによる福音書10章1節〜21節

牧師  鈴木美津子

主イエスは「羊飼いのたとえ」の中で、「羊はその声を聞き分ける」と言われ、さらには「羊はその声を知っているので、ついて行く」と言われた。まさに、9章で主イエスの御声を聞いて、「主よ、信じます」と言ってひざまずいた生まれつきの盲人であった人は、主イエスの羊であったのだ。主イエスはこのたとえを通して、ユダヤの指導者であるファリサイ派の人々ではなく、御自分こそが門を通って入ってきた真の羊飼いであると言われる。そして、そのことはファリサイ派の人々と主イエスの、生まれつきの盲人であった人に対して接した態度で明らかである。自分たちを牧者、羊飼いと自認していたファリサイ派の人々はかつて盲人であった人の証言を信じようとはしなかった。彼らはかつて盲人であった人が、主イエスを神のもとから来られた方と証言したため、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と外に追い出した。彼をユダヤ人の社会から追放したのだ。

では門から入ってきた羊飼いである主イエスはどうであったか。この人が「イエスはメシアである」と公に言い表したことによって、会堂から追放されたと聞き、この人を探し出して出会って、御自分が神の救いをもたらす人の子であることを示された。ファリサイ派の人々は、自分たちがかつて盲人であった人を追い出したと思っているのであるが、主イエスに言わせればそうではなく、主イエスに名前を呼ばれて、主イエスのもとへと連れ出されたのである。

つまり彼は、主イエスの羊なのである。

私たちも主イエスを主と信じるがゆえに、社会から除け者にされて寂しい思いをするということがあるかも知れない。しかし、主イエスはそのようにして、私たちの名前を呼んでくださり、私たちを御自分の群れであるキリストの教会へと迎え入れてくださる。そのようにしてイエス・キリストは私たちの羊飼いとなってくださる。私たちは、自分が主イエスに名前を呼んでいただき、主イエスに導かれて歩んでいる羊であることを見出すとき、このたとえをはっきりと聞き取ることができるのである。