2024.1.28 の週報掲載の説教

2024.1.28 の週報掲載の説教
<2023年11月19日週報から>

 『希望の源である神』
ローマの信徒への手紙15章7節~13節

牧師 鈴木美津子

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。(13)」

希望の源である神」を直訳すれば「希望の神」となる。この希望は、あるかないか分からない、というようなぼんやりしたものではない。この希望は、イエス様の十字架によって一切の罪を赦され、神の子とされた私たちに与えられている希望である。それは、イエス様が再び来られる時に復活し、キリストに似た者とされ、永遠の命に生きる者とされるという希望である。この希望は、私たちに満ちあふれるほどに注がれ、私たちから外にあふれていく。この希望は、心の中にほんのりと灯火がともるような、弱々しい、はかない希望ではない。闇を駆逐し、自分の周りの人々にまであふれ出し、この世界に生きる力と勇気を与える希望である。この希望を誰も私たちから奪うことは出来ない。

この希望をもって、私たちは「互いに受け入れる」という歩みへと導かれる。だから、私たちは、この希望をもって、互いに心を一つにして主をほめたたえる日が来ることを信じている。確かに、互いに受け入れられないという現実、対立や争いを、キリストの教会は幾度も経験してきたし、今も経験している。しかし、それでもキリストの教会は希望を失ったことはない。確かに、人間の知恵や工夫では、もう無理だろうと思うことも、万策尽きたと思うこともある。そうであっても、この希望はなくならない。そもそもこの希望は、「私が何とか出来る。何とかする」、というところに根拠を持つものではない。神様から、信仰と共に、私たちに注がれる希望である。神様が出来事を起こし、新しい時代を開いていってくださる。そして、きっと、今は互いに受け入れることが出来ないでいる者たちが、喜んで互いに受け入れる時が来る。やがて、共に主をほめたたえる日が来る。そう信じて待つ私たちを、希望の神がその希望で満たし続けてくださるのである。

今、社会の様々な所で分断が起きている。その影響は、教会の中にも入り込んでいる。そのような現実の中で人々は不安を抱えている。このような時であるからこそ、私たちは、この希望の神に支えられ、和解の福音を携え、希望と喜びと平和をもって、兄弟姉妹にそして隣人の一人一人と出会っていきたいと祈り、願うのである。

2024.1.14 の週報掲載の説教

2024.1.14 の週報掲載の説教
<2023年10月22日説教から>

「自分の満足ではなく、隣人の喜びのために
ローマの信徒への手紙15章1節~6節

牧師 鈴木 美津子

わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。(1)」「強くない者の弱さを担う」とは、強い者が強くない者の立場を忍耐して受け止めることである。教会の中での一致は、時として忍耐が必要である。自分が強いと思うのであれば、自分の立場について、相手に我慢させるのではなく、相手を受け止める忍耐がいっそう要求されるのである。パウロは、さらに強い者に対して、「自分の満足を求めるべきではない」ことを求める。人は、ついつい何のためらいも悪気もなく、自分の気に入った事柄を優先させようとしてしまうことがある。まして自分の方が強いという思いがあればあるほど、弱い者に対して自分の考えや意見を通そうとしてしまいがちだからである。

では、「自分の満足のためではない」ということのために、私たちは、どこに心を用いるべきなのか。パウロは、「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべき(3)」であると語る。「おのおの」、「互いの」とあるように、パウロは、「強い者」だけではなく、「強くない者」にも語りかけている。教会の一員であるおのおのが善を行って兄弟姉妹を喜ばせ、互いの徳を高めるべきだというのである。それは、ただ単に相手が喜ぶから、ということだけではなく、そのことが善となり徳を建て上げることになるかどうか、そのことに十分に心を用いるべきである。
パウロは、強くない者の弱さを担ってくださった方として、また、自分の満足を求めなかった方として、キリストを模範として示す。キリストは徹底して他者に仕えるお方であった。キリストこそが、強い者であり、それゆえに、弱い人たちの弱さを担われた。私たちが、このキリストを模範とし、このキリストに倣って生きるときに、教会の一致がいっそう深められるのである。

パウロは、最後に「心を合わせ声をそろえて」と、強い者と弱い者に、キリストに従って、互いに同じ思いが与えられるよう祈る。キリストに従うときに、与えられる同じ思いとは、神の御心を第一とする思いである。それは、主の祈りの第一の祈願である、父なる神の御名が聖なるものとされることを願う思いである。

この時にこそ、私たちは心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえることができるのである。教会の一致は、そのようにして、世に示される。

2024.1.7 の週報掲載の説教

2024.1.7 の週報掲載の説教
<2023年10月15日説教から>

「確信を持って生きる
ローマの信徒への手紙14章18節~23節

牧師 鈴木 美津子

 
確信に基づいていないことは、すべて罪なのです(23b)」。「確信」という言葉は、「信仰」とも訳せる。言い換えれば、「主イエスのためにという信仰に基づいていない行いはすべて罪である」ということである。罪とは、「的外れ」という意味であるが、主イエスのものとされたキリスト者が、主イエスのためにという信仰に基づいて歩んでいないのであれば、それは、的外れな生活を送っているということである。

キリスト者は、主イエスの十字架に贖われた「罪赦された信仰を持っている」者。故に、ただ、神の御前に罪の赦しを受け取る者として立つほかない者である。だから、神様の御前に立てば、誰しもが自分の正しさを主張することは出来ない。キリスト者は「罪赦されたという確かな信仰」を持つ者として生きる。これを決して忘れてはならない。

キリスト者が「罪赦されたという確かな信仰」に基づいていないならば、どのようなことをしても罪から解き放たれて、自由になることはない。それは、何を食べるか、食べないか、そのことだけに限ったことではない。何をしようとも、どのようなことをしようとも、キリスト者が「罪赦されたという確かな信仰」と共にあれば、その人は神の御前に健やかに歩み続けることが出来る。そして、真に解放されて、自由になる。

しかし、反対に「罪赦されたという確かな信仰」が、揺らいでしまうのであれば、その人は、自分の善き業、自分の力によって神の御前に立とうとしているので、どんなに頑張っても少しも自由にはなれない。いつまでも、自分の正しさと他の人を比べて、弱い者を裁くということになる。その人は罪から解放されて自由になることもなく、自分のやることが正しいとか、正しくないとか、あの人がいいとか悪いとかに終始して、神に喜ばれるものとなることから、遠く離れていく。

大切なことは、自分や相手のすることばかりに目を向けて裁き合うのではなく、十字架の主、復活の主に目を向けて、この方の御前で「罪赦されたという確かな信仰」に立つことである。そうすれば、互いに裁き合うことがどんなに愚かなことであるか分かるであろう。

キリスト者はどこまでいっても「罪赦された罪人」である。誰しもが、神の御前で赦され続けなければならない者たちである。「罪赦されたという確かな信仰」を与えられ続けていく者たちである。しかし、ここにこそキリスト者の真の自由があり、喜びがある。

2023.12.31 の週報掲載の説教

2023.12.31 の週報掲載の説教

<2023年10月8日説教から>

「聖霊によって、義と平和と喜びに生きる」

ローマの信徒への手紙14章10節~17節

牧師 鈴木 美津子

 
神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(17)」

パウロが、「何を食べるか、何を飲むかということは、神の国では中心的なことではない」、と言うとき、「そのようなことは当然である」と、ほとんどの人が答えるであろう。しかし、ローマの教会で問題となっているのは実に、この飲み食いのことなのである。なぜ、このようなことが起きてしまうのか。「神の国のために生きる」というところから焦点が離れてしまっているからである。「神の国を求める」という心を失っているからである。神の国を求める心から離れて、神の国に目を留めて歩むことから外れてしまえば、どんな些細なことでも深刻な問題に成り得るのである。

では、神の国において何が大切であるのか。それは「聖霊によって与えられる義と平和と喜びに生きる」ことである。一つ目の「聖霊によって与えられる義」とは、主イエス・キリストの十字架によって与えられる「義」、ただ信仰にみによって与えられる「義」である。「義」とは「正しさ」であり、この「正しさ」は、神様の御前に悔い改め、神様の憐れみによって赦していただいて与えられる義、正しさである。

次に二つ目の「聖霊によって与えられる平和」とは、神との間に与えられる平和である。この「平和」には、神との平和、神との和解、他の人たちとの和解、そして自分の心の中での平安、その全部が含まれている。

三つ目の「聖霊によって与えられる喜び」とは、神が私たちを愛して救いを与えてくださったことの喜びである。神様の恵みによって義とされ、神との間に平和を与えられた者は、喜びに満たされ、この喜びに生きるのである。教会が神の国を指し示しているとするならば、この「聖霊によって与えられる喜び」に満ち溢れる。

しかし、教会が、キリスト者が、この「聖霊による義と平和と喜び」を見失ってしまえば、お互いにそれぞれの立場を尊重せず、自分の義を主張し、平和でなく争いに、喜びでなく意地悪な思いに陥ってしまう。些細なことが深刻な問題へとなり得るのである。

なぜなら神の国とは、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」だからである。私たちは、神の恵みのご支配の下に生きることを真剣に願い求めて、「聖霊が与える義と平和と喜び」が、この教会において実現することを堅く信じるのである。

2023.12.10 の週報掲載の説教

2023.12.10 の週報掲載の説教
<2023年10月1日説教から>
 
『生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のものです』
           ローマの信徒への手紙14章7-9節
                                                             牧 師 鈴木美津子
 
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、
                                     死ぬとすれば主のために死ぬのです(8)」。

 
キリスト者とは、どのような者であるのか?それは、「自分のために生きる者ではなく、自分のために死ぬ者でもない」というのが、キリスト者である。

私たちがキリスト者となる前は、どうであったのか?私たちは、自分のために生き、自分のために死ぬ者であった。「生きるのも、死ぬのも、自分次第。自分の人生は自分のもの」と考えていたのである。主イエスを主と信じ、受け入れる前は、自分自身が主人であったのだ。

しかし、主イエスを信じて、キリスト者とされた今はどうかと言えば、私たちは、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」者とされたのである。このことは、主イエスの御支配が私たちの全生涯に及ぶということ、地上の生涯ばかりではなく、死んでからの生涯にも及ぶということを教えている。

パウロは4節で、「召し使い」という言葉を使っているが、主イエスの召し使いである私たちは、自分のために生き、また死ぬのではなく、主イエスのために生き、また死ぬ者とされているのである。ところで、主のために死ぬとは、一体、どのようなことなのか?それは、キリスト者と主イエスとの関係は「死によって断ち切られることはないと信じて死を迎える」ということである。それが主イエスのために死ぬということである。では、なぜ、そのように言えるのか?それは、主イエスが私たちの罪のために死んで、私たちを正しい者とするために復活されたからである。主イエスは、弟子たちに「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(マルコ10:45)」と言われた。「身代金」とは「贖いの代価」とも訳せる。主イエスは十字架のうえで命をささげることによって、私たちを罪から贖い、御自分のものとしてくださった。そして、復活することによって、御自分と私たちとの関係が、死をはるかに越えて続いていくことを示されたのである。

私たちが生きるにも死ぬにも、主イエスのものであること。それは、私たちにとっての確かな拠り所であり、力強い慰めである。

2023.12.3 の週報掲載の説教

2023.12.3 の週報掲載の説教

<2023年9月24日説教から>

『主イエスのために』

ローマの信徒への手紙14章1節~6節

牧 師 鈴木美津子

 
特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです(6)」。ローマの教会には、何でも食べる信仰の強い人と、野菜だけを食べる信仰の弱い人がいた。信仰の強い人が多数派であり、信仰の弱い人が少数派であった。この両者の間で争いが起こっていたのである。

これに対して、パウロは6節で、自分の心の確信が、「主イエスのため」であるという確信であることを教えている。何でも食べる人は、何でも食べることが主イエスのためであると自分の心に確信して、何でも食べる。他方、野菜だけを食べる人も、肉を食べないことが主イエスのためであると自分の心に確信して、野菜だけを食べる。ですから、彼らは食べる物が違っていても、その確信、その動機は同じ、「主イエスのために」ということであるのだ。ここに主イエスの僕である者の一致がある。

「食べる人は主のために食べる」、「食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝している」とパウロが語るとき、食べない人は、食べない物に対して、感謝をささげているのではない。食べる野菜のことで神に感謝をささげているのである。

それぞれの食卓を想像してほしい。強い人の食卓には、肉も酒も並んでいる。そして、強い人は神に感謝の祈りをささげて、何でも食べるのである。他方、弱い人の食卓には、野菜とおそらく水が並んでいる。そして、弱い人も神に感謝の祈りをささげて野菜だけを食べる。強い人は主イエスのために何でも食べ、神に感謝をささげる。弱い人も主イエスのために野菜だけを食べ、神に感謝をささげるのだ。「主イエスのために」「神に感謝をささげる」、互いがこの一致に気づくとき、彼らは、主の食卓を共に囲むことができるのである。初代教会では、聖餐式は、食事と一緒に行われていた。私たちは礼拝において、ひとかけらのパンを食べ、少量のぶどう液を飲む。けれども、初代教会においては、聖餐式と食卓の交わりが一つであったのだ。そのことを考えるとき、食べ物のことで互いを裁き合うことが、どれほど、愚かで、教会の一致を損なうことであったかが分かる。しかし、主イエスは、御自分の食卓に、何でも食べる人と野菜だけを食べる人を招いてくださる。それゆえに、私たちも様々な違いを認めつつ、「主イエスのために」互いに受け入れ合うのである。