8月23日の礼拝予定

主 日 礼 拝    午前10:3
奏楽
 
<神の招き> 
招 詞   ローマの信徒への手紙121  
*讃 詠   545B
*罪の告白と赦し 交読詩編1431節~6
*讃美歌   9【1-2】
 
<神の言葉>
聖 書   詩編415節~10節   (旧約P.874)
     ヨハネによる福音書660節~71
                         (新約P.176)
祈 り             松 司               <
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*讃美歌   Ⅱ195
 説   「実にひどい話だ。こんな話は聞いていられない」         
                                     
                                    
 
<神への応答>
*讃美歌   501
*十 戒
公 告
*献金感謝                     
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄  540
*派遣と祝福
後 奏    
     
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。

8月9日の礼拝

主 日 礼 拝    午前10:3
奏楽
 
<神の招き> 
招 詞   ローマの信徒への手紙121  
*讃 詠   546
*罪の告白と赦し 交読詩編10216節~29
*讃美歌  
 
<神の言葉>
聖 書   創世記11節~5(旧約P.1)
     ルカによる福音書2413節~35
                         (新約P.160)
祈 り             河 郎                                                     
     
                                                                                                                                 
*讃美歌   88
 説   「夕闇の迫る時にも」     

                   (日本キリスト教会

                  東京中会引退教師 )

        <神への応答>

*讃美歌   39
*ニカイア信条
公 告
*献金感謝                     
*主の祈り (座席前そなえつけ)
*頌 栄  544
*派遣と祝福
後 奏    
     
「*」の箇所は起立して行いますが、立つのが困難な方は
お座りのままでどうぞ。

7月5日の説教から 『わたしだ、恐れることはない』 ヨハネによる福音書6章16節~21節

                                  <75日の説教から>

             わたしだ、恐れることはない
              ヨハネによる福音書616節~21        
牧師 三輪地塩
 V.フランクル『夜と霧』の一節。「いつガス室に送られるか分からない、ギリギリの精神状態の中にあって、食欲や睡眠欲のような生物レベルの生きるための欲求以外、高次の欲求は全て消えていった。しかし「政治」と「宗教」への関心だけは失われることはなかった。とりわけ感動したことは、居住棟の片隅で、あるいは作業を終えて、ぐっしょりと水がしみ込んだぼろをまとって、くたびれ、おなかをすかせ、小声ながらも、・・締め切った家畜小屋の闇の中で体験する、ささやかな祈りや礼拝に(感動を覚えるの)であった」。そうフランクルは回顧している。また彼は、自分の命を繋いだもう一つのものが「愛する者の存在であった」と言い次のように語る。「愛する者(妻)が同じ収容所に「いる」という現存(Dasein(ダーザイン)[])、この愛する者がいるという現存の中にこそ、自分の生きる意味があり、その愛する者の微笑みを思い浮かべる時、人間の命の愛おしさを覚えたのであった。・・多くの思想家たちが、生涯の果てに辿り着いた真実。何人もの詩人たちが歌い上げた真実、(つまり愛)という真実が、生まれて初めて骨身にしみた。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだという真実。いま私は、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきことをしてきて、究極にして最高の事の意味を会得した。愛により、愛の中へと救われること。人はこの世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛するひとの面影に思いをこらすことこそが、究極的な至福の境地となるである」。
 つまり、究極的絶望の中、愛する者(妻)の存在が彼の命を繋いだのであった。一人の愛する者の「実存」「現存」「Dasein」が彼の心に生き、その面影と彼女の存在が共に彼の内に生きる時、命は保たれ、収容所を出るまで希望失うことなく、希望を持ち続けることが出来たのであった。
「愛する者の現存」という言葉の中に我々は「キリストの現存」を見出すものである。しかも我々が愛する、より以上に、「我々を愛して下さる方がいる」というDaseinが、我々の中にあるとき、我々は希望と共に生きることが出来るのである。その存在は我々に語る「わたしだ。恐れることはない」(ヨハネ620節)と。

 つまり、荒れ狂う湖上に現れたキリストの「わたしだ」(エゴーエイミ)という実存、現存、Daseinの中で、すなわち人間が如何ともしがたく抗う事の出来ない、無抵抗にも押し流される不幸や、痛みや、究極的な悪の中にさえも、神は現存し、私を愛する神がいるというDaseinの中で、私は「私の希望」を失うことなく、この命が神と共にある命として生き続けることが出来るのである。人間社会の暗闇の中で、人間関係の難しさの中で「我れ」と向き合う私の心の中、そしてアウシュビッツの中でさえも、主は我々かたわらに立たれる。それがキリストなのである。

 荒れ狂う湖上にキリストは立つ。それは私たちと共にキリストが立つ事のしるしであり、実存であり、キリストという現存の表れである。おそれを沈めるキリストは、恐れと共に生きて下さるキリストとなって、私たちと共に歩んで下さるのである。