2021.6.6 の週報掲載の説教

<先週の奨励から>

『みんな救われるのか』
     ルカによる福音書13章22節~30節

長老 森﨑 千恵

 
イエスが人間の罪の救いのために十字架にかかる神の計画に従う決意をして、エルサレムに向かう途上、ユダヤ人と思われる人が「主よ、救われる人は少ないでしょうか。」と尋ねた。彼は自分は選民として当然救われると思っていたが、イエスは人々に向けて、「狭い戸口から入るように努めなさい。入ろうとしても入れない人が多いのだ。」と応えられた。神の国への入口は狭いが数の制限ではない。礼拝で主の御言を聞き、聖餐に与っているのだから入れるだろうと思う人に、厳しく「おまえたちがどこの者かも知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ。」と厳しく言われた。クリスチャンは洗礼を受けているから皆罪赦され、簡単に神の国に入れると、または善行を積めば入れるとたかをくくっているところがある。しかし、13章初めに「悔い改めなければ滅びる」とあるように、また「狭い戸口から入るように努めなさい」とあるように、その上主が戸を閉めてしまう前に決意を求められるように、狭い戸口から入ることは容易ではない。

千利休はキリスト教の影響を受けたと言われるが、茶室に入る「にじり口」と言われる小さな入口は、体を小さく、低くしなくては入れない。また刀を携えては入れない。つまり、自分を低く謙遜にして、何も持たずに入る覚悟がなければ、神の国に入ることはできない。

人は自我を捨てて素直に主に従うことは難しく、善行でさえ自分を大きくするためのことがあり、神に背を向ける人格的自己実現の罪を重ねてしまいがちである。マタイ書でも「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」とある。「信仰の父」と言われるアブラハムの従順、神の計画に従うキリストの従順が真の信仰の姿である。私たちは悔い改め主に従う覚悟が必要である。

アブラハム、イサク、ヤコブや預言者たちが神の国に入っているから、ユダヤ人なら神の国に入れるのではなく、異教の地からも信仰による真のイスラエルと言われる人々が神の国の宴会の席に着くのだ。その時後の者が先に、先の者が後になるのである。